<<話選択へ
<<魔獣行 ─後編─ 5へ 魔獣行 ─後編─ 7へ>>
気を失った絵莉を連れて、龍麻達は南池袋公園に戻ってきていた。
予想された追手は来ず、それがいささか腑に落ちなくはあるが、
態勢を立て直せるのならそれに越したことはない。
龍麻が絵莉を椅子に寝かせると、小蒔が心底驚いたように言った。
「あれが、憑き物……びっくりしたね、普通の人があんなに変わっちゃうなんて」
「あァ……憑依師か、予想以上に厄介な野郎だな」
自分は姿を見せず、霊を憑依させた人間達を襲わせる。
しかも彼らは一般人であり、問答無用に打ち倒すのもためらわれる。
それを計算していたとすると、相当に狡猾な敵と言えた。
闘いの興奮がまだ冷めやらぬ龍麻達が、口々に敵について話していると、
絵莉が気付いたようだった。
「う……ここ……は……?」
「天野さん」
「緋勇君……皆……わたし、一体……」
身体を起こした絵莉は、さかんに頭を振りながら状況を把握しようとしている。
真実を告げるのは酷だったが、職業柄探求心の強い彼女だ、適当にごまかしても納得しないだろう。
そう考えた龍麻は、なるべく驚かせないように言葉を選んだ。
「憑依師に……憑かれていたんですよ」
だが真実そのものが衝撃的なものだったので、
龍麻の配慮がどれほど効果をあげたかは疑わしかった。
憑依師、と言った途端、絵莉の顔色は病的に青くなったのだ。
「そう……そうよ、わたし、この事件を追ってて、あの男に会って……
わたしを利用してやるって……それから意識が遠くなって」
意識を誰かに支配される、などおぞましい限りなのだろう、
絵莉は両肩をかき抱いてしばらく唇を震わせていたが、遂に顔を覆ってしまった。
薄いピンクのマニキュアが塗られた爪の間から発せられた声は、
二十も老け込んでしまったように聞こえる。
「わたし……あなたたちに酷いことを?」
「いえ、大丈夫です」
それは本当のことであり、本当以上の成分を声に込めて龍麻は言った。
快活で頼れる年上の女性である彼女が落ちこむところなど、見たくなかったのだ。
だから力強く、彼女には何も責任がないことを強調すると、京一がフォローしてくれる。
「そうそう、エリちゃんも俺達も無事だったんだしよ」
「みんな……ごめんなさい。手助けするつもりが足を引っ張ってしまって」
龍麻と京一だけでなく、この場にいる全員に励まされて、
どうにか絵莉は立ち直れたようだった。
まだ顔は青ざめたままだが、声にはいつもの調子が戻りつつある。
その絵莉に、なんとはなしに木刀で肩を叩きながら京一が訊ねた。
「すんだことはいいとして、絵莉ちゃんは憑依師(の正体、知ってんのかよ」
「憑依師……そう、そこまで知ってるの。相変わらずいい腕してるのね、杏子ちゃんは」
「アン子が聞いたら泣いて喜ぶね、きっと」
「とんでもない、正直、うかうかしていられないって思うもの」
小蒔に応じて絵莉は笑い、彼女が笑えるまでに立ち直ったことを龍麻達は喜んだが、
すぐに彼女は表情を曇らせてしまった。
「でも……杏子ちゃんが彼に会わなくて本当に良かった」
「彼……憑依師のことですか」
絵莉は頷き、彼女が動物霊に憑依されるまでを語り始めた。
思い出すのは辛くとも、体験したことを伝えるのは、彼女にとって責任であり義務だった。
この東京(を、護りたい──
『力』は無いが、意思(は彼らと同じなのだから。
「ええ。豊島、狗狸沼(高校三年、火怒呂( 丑光(。
それが憑依師の正体よ」
先ほどは杏子を褒めたが、さすがに彼女が目標としている女性なだけはあり、
絵莉は杏子よりも詳しくこの事件の首謀者について調べを進めていた。
「憑依師はあらゆる霊を自在に操り、時に人を取り殺すことを生業(としていた……
その中でも、特に一部の憑依師達が、好んで火怒呂という呼び名を用いたらしいの。
そしてそれが長い時を経て、その血を受け継ぐ一族の呼び名として定着した──
わたしがそこに辿り着いた時、彼の方から現れたのよ」
「俺達を罠にハメる為に、か」
「それじゃあ、やっぱりその火怒呂って人が、帯脇に蛇の霊を憑かせたんですね。
そして帯脇から皆さんのことを知った」
諸羽に頷いた絵莉だが、その直後に首を傾げる。
「そこがどうも腑(に落ちないのよ。彼自身は人間全てに獣の霊を憑依させ、
その獣の王国の王として自分が君臨するのだと言ってたわ。
でも……その事態が本当に意味するものは、この東京が大混乱に陥(るということなんじゃないかしら」
東京の混乱。
そんな絵空事のような言葉を、龍麻達はつい先日まで本気で防ごうとしていたのだ。
鬼道衆という、世に対する怨嗟の鎖を連綿と連ねていた組織から、
人知れず、身命を賭して『力』持つ仲間達と共に東京を護っていたのだ。
「まさか──火怒呂も誰かに利用されている……?」
「鬼道衆みたいに、誰かが『力』を持ってる人を操ってるってコト?」
だから、龍麻達の誰も、絵莉の推測を笑わなかった。
呟く龍麻に応じる小蒔の声も、彼女らしくない緊張と、微かな恐怖が混じっている。
絵莉は形の良い唇を、意識していないのか、親指で歪ませて言った。
「まだはっきりとは掴めていない……でも、皆の言う通り、
この事件の背後には何か大きな力の存在を感じるわ。途方もない大きな悪意を」
大きな悪意──江戸の世からの積年の怨みを晴らすため、東京を壊滅させようとした鬼道衆。
彼らは滅ぼしたはずだが、彼らに匹敵するほどの敵がまだいるというのだろうか。
そして、その敵は自分達の前に立ちはだかるのだろうか──
待ち構える運命に思いを馳せる龍麻だったが、
今は目前の事件を解決することに心血を注ぐべきだった。
「まァ、とりあえず今日のところは火怒呂って奴をブチのめすと──」
いつものように事態を要約しようとした京一が、突然言葉を呑みこんだ。
それは直情径行の彼にはとても珍しいことで、後輩の諸羽がすかさず気遣う。
「京一先輩ッ!? どうしたんですかッ!?」
「わからねェ……なんだ……こりゃ……」
京一は拳を握り締め、無闇に力こぶを作っている。
ようやく京一が諸羽をからかっているのではないらしいと気づいた醍醐達が声をかけるが、
異変は京一にのみ生じたのではなかった。
「おい京一ッ! ──!!」
「醍醐クン?」
「ぐッ……頭が……割れ……そうだ……」
頭を抱える醍醐を見やる小蒔までもが、伝染したように胸を抑える。
「な、に、コレ……身体……熱い……」
三人は息遣いを荒くし、むせんでいたが、遂に身を折り、膝をついてしまった。
苦しむ三人を見た絵莉が、愕然(と呟く。
「わたしが……彼に憑依された時と同じだわ……」
「そんな……」
葵が慄(く。
彼女に劣らず顔を青くしていた絵莉が、何かに気付いたように目を見開き、唇を噛んだ。
「そう……そうだったのね、彼の仕掛けた罠は、闘わせること自体にあったのね」
「どういうことですか」
「精神的な興奮は、霊を呼びこみ易くするのよ。皆が闘っている間に、霊を憑依させたのだと思う」
「そんな……それじゃもしかしてこれが、奴が言っていた、逃げられないって意味……?」
そういえば、ミサもそんなことを言っていた。
──死にたくなければ、平常心──あれは、大げさでもなんでもない忠告だったのだ。
自分のうかつさを呪った龍麻だが、今は京一達を救う方が先だ。
この場で唯一その可能性を持っている人物に向けて、龍麻は緊迫した声を発した。
「美里さん」
「ええ。皆──ッ」
間髪入れずに葵が『力』を用いる。
彼らに向かってかざした掌から淡い輝きが発せられたが、
その輝きが消えた後も京一達の様子は元に戻らなかった。
「だめ……効かない」
葵が焦燥した表情で首を振る。
傷を癒す『力』も憑依に対しては効果がないらしく、京一達は苦しんだままだ。
今はまだ勁(い精神力で完全に憑依されるのは防いでいるようだが、
京一達もさっきの会社員達のように虚ろな本能に憑かれた存在になってしまうのだろうか。
頼みの綱であった葵の『力』が効かず、打つ手立てがなくなった龍麻達は焦りだけを募らせていった。
そんな時、突然、ひどく間延びした声が龍麻の耳を打った。
「なんや、人の枕元で騒がしい。大事なお昼寝タイムが台無しやないか」
あくびの混じった声と関西弁に、不必要なほど苛立たされた龍麻は、初対面の相手を激しく罵(った。
「うるさい、黙ってろ」
「そりゃ随分とご挨拶やな。邪魔したんはあんたらやろが」
軽い恫喝にも動じない男に、龍麻の苛立ちは怒りへと変わりはじめる。
今はそんな場合じゃない──
苦しんでいる友人に何も出来ない無力さが危険な化学反応を生じさせて、
龍麻の怒りは一瞬のうちに極めて危険な水位まで上昇していた。
「黙ってろって言ってるのが聞こえないのか」
「なんや、物騒やな。日本人いうのは皆こうなんか」
あくまでも男は自分のペースを貫こうとする。
既に怒りが危険水域を越えてしまった龍麻は、男を黙らせる為にゆっくりと拳を固めて振り向く。
思いもよらない事態におろおろする葵と絵莉には悪かったが、
この男を静かにさせることが、今の龍麻には一番重要なことになってしまっていた。
明らかに間違っているその思考を止めたのは、諸羽の意外な大声だった。
「あなたは、もしかして──ッ!!」
この実直な性格の後輩がこんなに大声を出せるとは思っていなかった龍麻は虚を突かれ、
拳に溜めていた怒りも蒸発させてしまう。
男も同じようで、飄々(とした態度を崩さないまま、
細い目だけは龍麻から外さずにいたのだが、横合いから間(を外されて大げさに驚いていた。
「なッ、なんや」
「あなたは、僕を助けてくれた」
「お、その声には聞き覚えがあるで。あん時死にかけてた少年やないか」
死にかけてた──男の台詞に龍麻は記憶を辿る。
どうやら、この男は以前諸羽が帯脇に襲われた時、
瀕死の彼を担いで桜ヶ丘中央病院に運んだという男のようだった。
男と諸羽は、龍麻を置き去りにして久闊(を叙する。
一人で怒っていた龍麻は急に気恥ずかしくなり、一歩下がった。
その学生服の袖を、葵がたしなめるように摘まむ。
軽く摘ままれた袖が、やけに重く感じられた。
「すっかり元気そうやな、ええこっちゃ。成り行きとはいえ心配しとったんやで。
にしても、岩山センセっちゅんはスゴイ人なんやな。じいちゃんに聞いてた通りやったわ」
院長(のことを知っている──?
一歩下がった龍麻だったが、聞き耳は立てていた。
実のところ立てる必要もないほど男の声は大きかったのだが、とにかく、
この得体の知れない男のことを、龍麻は改めて仔細に眺めた。
一応日本の学生服を着ているが、どうも日本人ではないようだ。
細い目や肌の色が、なんとなくではあるが中国辺りの出身を思わせる。
それにバンダナと赤いシャツという、
ちょっと今時の高校生は着ないような服装を平然と着ている辺り、ますます怪しい。
そしてその怪しさに拍車をかけているのが、背負っている赤い包みだった。
細長い包みは色こそ違うが京一の持っている木刀のそれと良く似ている──
そこで龍麻は、彼を見たという桜ヶ丘中央病院の看護婦である高見沢舞子が言っていたことを思い出した。
曰(く、京一に似ている──
彼女の、甘ったるい声を記憶に蘇らせつつ男を再び見れば、なるほど、
背格好は全く違うものの、雰囲気は確かに京一に通じるものがある。
てことは、背中(は剣か──?
龍麻が軽く目を細めると、狭まった視界に頭を下げる諸羽が映った。
「あの、本当にありがとうございましたッ!!」
「ははッ、ええよええよ。それよかせっかく拾った命や、今度からは大事にしとき。
……ん? そっちにおるんは病人か?
岩山センセほどやないけど、ちょっとくらいやったらわいにも──!!」
諸羽に気安く応じていた男だったが、京一達の様子を見た途端顔色が変わる。
それは先ほど龍麻が見せていた殺気にも劣らないほどのもので、
発せられた声も低く、別人のように凄みがあった。
「少年。お前何者(や」
「え?」
「こないだの時もそうやったが、今も……一体何を知っとる(んや。隠すとためにならんで」
命の恩人の豹変に、諸羽は声も出ない様子だ。
男は細い目を一層細め、諸羽を睨んでいたが、自分からその視線を外した。
「まあええわ。そっちの話は後でじっくり聞かせてもらうとして、先に病人や。
あんたらはさがっとき」
「何をする気だ」
どうやら諸羽の恩人ではあるようだが、
京一達に何かをするとあっては見過ごすわけにはいかない。
龍麻が身を持って立ちはだかろうとすると、男はその肩を軽く叩いた。
「──!」
肩に痺れが走る。
氣を操る術を学んでいる龍麻は、男が用いたのが氣であると判ったが、
それはこれまでに経験してきたものとは全く異なる種類の氣だった。
思わず構える龍麻だが、男は邪魔をさせないようにしただけらしく、敵意は感じられない。
だが軽く徹(されただけなのに、右腕は完全に痺れてしまっていた。
「わいの勁(は本場もんや、黙って見とき」
軽い口調とは裏腹に、鋭い眼光を宿らせた劉は静かに氣を集中させる。
「我求助(、九天応元雷声普化天尊(、
我需(、無上雷公(、威名雷母(、雷威震動便滅邪(──!!」
「この光──!」
「きれい……とても、神聖な輝き……」
葵が呟く。
彼女の言った通り、男の全身から発せられた光は本能的に神々しさを感じさせるものだった。
呪文らしき言葉を男が発するたび、輝きを強め、掌に収束していく様は、
男に対して不信感を持っている龍麻でさえもが魅入ってしまう。
「活勁(──!」
かけ声と共に、男が京一達の肩を叩く。
龍麻に対してと同じように軽くであったが、
そこから放たれた光は彼らの全身を包むほどまばゆいものだった。
龍麻達が見守る中、光が収束していく。
その中にいた京一達は、光が消え去ると、わずらわしげに頭を振った。
<<話選択へ
<<魔獣行 ─後編─ 5へ 魔獣行 ─後編─ 7へ>>