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桜ヶ丘中央病院は、妙な静けさに包まれていた。
もともとそれほど活気のある病院ではないが、それにしても、いつにも増して気配がない。
龍麻はその違和感に気づきはしたものの、何しろ今は諸羽の容態が最優先であるので、
気に留めはしなかった。
「院長先生〜、みんなを連れてきました〜っ」
「……出てこないね」
舞子の声が待合室に響き渡る。
独特のイントネーションを持つ彼女の声は、小さな残響を残して消えていった。
あまり大きくはないこの病院には、舞子の声はいささか大き過ぎるくらいで、
もちろんこの病院の主である岩山たか子のところにも届いているはずだ。
しかし彼女からの返事、もしくは大山が鳴動する音は聞こえてこなかった。
「霧島は……無事なんだろうな」
苛立ちを隠そうともせずに言い、
返事がないことに更に苛立った京一は大股で病院の奥へと進もうとする。
後を追おうとした龍麻が顔をしかめる葵に気づいたのは、その時だった。
「この感じ……何か、悪意に満ちた……来るわ」
「美里さん?」
「お前達、早く逃げなッ!!」
葵が眉を潜め、囁くのと、たか子の緊迫した声が廊下の奥から響いてきたのは同時だった。
訳も判らないまま病院の入り口へと皆を向かわせ、
自分は殿を務めて後ずさりした龍麻は、奥から現れたそれを直視することとなった。
「……!!」
龍麻の驚きに呼応して、京一達も奥から現れたものを見る。
名状しがたい存在は、邪悪な意思を撒き散らしながら龍麻達へと近づいてきていた。
それが何かも判らぬまま、龍麻は身構える。
だが、その存在は細く長い舌を蠢かせたかと思うと、忽然と消え失せてしまった。
あまりに異常な事態に、一同が身動きしたのは優に三十秒を過ぎてからだ。
「何、今の……蛇?」
それは正確な表現とは言い難かった。
目の前で消えた奇怪な存在には四肢があり、姿はむしろ人間に近いと言えたからだ。
しかし小蒔の観察力が低かった訳でもない。
その存在の皮膚は緑色で、あちこちに斑紋があり、頭部は確かに蛇のそれに近かったからだ。
そしてその全身からは、途方もない悪意が濁った氣となって放出されていた。
あれが、一体何だったのか──
龍麻達の疑問に答えてくれたのは、この病院の院長だった。
「お前達、無事か」
醍醐をも上回る巨体を持つ岩山たか子が、床を踏み鳴らしながらやって来る。
その表情は脂肪に埋もれて判別しにくいが、珍しく焦っているようだった。
「先生、今のは」
「うむ……どうやらあの霧島という少年に取り憑いていた思念のようだ。
清廉な氣を満たした結界で少年を治療しておったら、一瞬の隙を突かれてしまってな」
「霧島は……あいつは無事なのかよ」
霧島の名前が出たことで、京一がたか子に詰め寄る。
普段本気で彼女から逃げ回っている京一は、今はそれも頭に無いようで、
もちろんたか子がこの機に乗じて京一を手篭めにしようとすることもない。
「誰に向かって物を言っている。このわしがあんなに可愛い少年を死なせる訳がないだろうが」
しかし、真剣そのものの京一の表情を見やったたか子は、
いつものあの、龍麻や醍醐も裸足で逃げ出したくなる笑みで身体を揺らした。
諸羽だけでなく、我に返って後ずさりする京一にもその笑みを分けてやった彼女は
皆に向かって告げる。
「峠は越えた。後は意識の回復を待つだけだ。
おそらくニ、三日はかかるだろうが、それでもう心配はいらんだろう」
「あの人が重態の霧島くんをココへ運び込んできた時は〜、
どうなることかと思ってヒヤっとしちゃったけど〜」
「あの人……って誰?」
舞子の話に唐突に出てきた人物に、小蒔が口を挟む。
するとその人物を見ていたらしいたか子が、また龍麻達三人(が怖気立つ笑みを浮かべた。
「おかしな奴ではあったが、ひひ、なかなかわし好みの美青年だったな」
「……あの、どんな感じの特徴が」
龍麻の問いに、舞子が小首を傾げながら特徴を答える。
「えッとねェ〜、学生服で、髪はあんまり長くなくて、あッ、袋に入れた刀みたいなのを持ってた〜ッ」
「それじゃ俺じゃねェか……」
「あッ、そッか〜、誰かに似てると思ったら京一くんだったんだ〜」
憮然として呟く京一に、舞子はいかにも嬉しそうに頷いた。
隣でたか子が同意する。
「そう言われればそうだな。名も名乗らずにさっさと行っちまったが、
妙な関西弁を話しておったな。日本人ではないようだったが」
「何人だろうと、そいつのおかげで霧島は助かったんだ、いつか礼を言わなきゃな。
……けどよ、その前に、帯脇……あの野郎だけは絶対に許せねェ」
後輩を襲われた怒りに、京一は震える。
龍麻達も、彼と等しい怒りに身を震わせ、帯脇を倒さねばならない、
と無言のうちに諒解しあった。
彼らの様子に気づいたたか子が、龍麻に問いただす。
「お前達、少年を襲った犯人を知っているのか」
「はい、多分ですけど間違いないと思います」
「そうか……ならば少しわしの話を聞いていけ。その男、気にかかるところがあるのでな」
待合室に座った龍麻達は、たか子の話に耳を傾けた。
「お前達……八俣大蛇(伝説を知っているか」
「なんだそりゃ」
知るわけがねェ、と京一が肩をすくめ、醍醐と小蒔に同意を求める。
その横で、龍麻と葵はそっと顔を見交わしていた。
ミサから聞いたという犬神の言っていた話は、正しい暗示だったのだ。
「八俣大蛇は古事記で有名な八つ首の大蛇の化け物だ。
八色(の雲気(と呼ばれる毒気を口から吐き散らしたという。
若い娘を生贄に求め、暴虐の限りを尽くしておったのだが、
神々の一人で高天原(を追われた須佐之男によって酔わされたところを倒されたという。
須佐之男は生贄として捧げられるはずだった櫛名田姫を娶(った──
これが伝説の筋だ」
「それが帯脇とどう結びつくんだよ」
関係無い話じゃねェか、と言いたげな京一に、たか子はいつもの笑みを浮かべずに応じた。
「少年の傷だが──あれは尋常ではない。身体の至る所に深く大きな裂傷があるが、
どうも大型の獣のものと思われる牙の跡が残っておる。
更に少年の体内からは、奇妙な毒素が検出された。
何ら医学的根拠を残さずに心身を蝕んでいく、呪詛とも呼べる恐ろしい怨念の毒がな」
「獣の牙と、毒……それに、さっきの思念……」
「え、それって、帯脇がヤマタノオロチってこと?」
「そこまではわからぬ。何らかの方法で大蛇(の力を会得したのか、
あるいは大蛇そのものなのか」
そこまでたか子が言った時、病院の奥へと続く廊下から物音が聞こえてきた。
一斉に立ち上がった龍麻達が見たのは、
昨日見た彼からは想像もつかないほど疲弊した諸羽が倒れているところだった。
若々しく気力にあふれた顔立ちが、青白くこけてしまっている。
帯脇がどんな『力』を用いたのかは解らないが、見るも無惨な姿だった。
「お前──!」
「いかん、毒素が抜けきらぬうちに結界を出ては」
駆け寄った京一が諸羽を抱き起こす。
薄目を開けた諸羽は弱々しく微笑むと、うわ言のように呟いた。
「学校へ……学校へ行かなくちゃ……さやかちゃんが……
帯脇が……さやかちゃんを……京一……先……輩……」
「おい、霧島ッ!」
再び気を失った諸羽に、たか子の表情が変わる。
「まずいな、無理に動いたせいで症状が急激に悪化しておる。高見沢、集中治療室の準備だ」
「は〜いッ」
たか子と舞子が慌しく動き始める。
何も出来ないまま、彼女達を黙って見ていた京一は、意を決したように立ちあがった。
「先生、俺達ゃ行くぜ。……そいつのこと」
「任せておけ、京一」
「頼んだぜ、俺の一番弟子だからよ」
そう言って京一は木刀を掴み、駆け出していく。
たか子に頭を下げ、諸羽の治療を頼んだ龍麻達も、すぐに彼の後を追って走り出した。
文京区にある鳳銘高校に乗りこんだ龍麻達は、
あまりにも簡単に侵入を果たせたことに疑問を抱いていた。
一応中に入るための言い訳も用意していたのだが、
誰に呼びとめられることもなく簡単に校舎に入れてしまったのだ。
放課後とは言え、あまりにも人のいない校舎を、
さやかを探して歩いていた小蒔が沈黙に耐えかねて口を開く。
「静かだね……誰もいないみたい」
「ええ……何か、嫌な気配がするわ。さっき病院で感じたのと、似ている……」
葵は目を閉じ、何かを探るように集中していた。
しかし病院で龍麻達の前に現れた蛇の気配は、
この近くに確実に存在はしてもその出所までを突きとめることは出来なかった。
不気味な静けさに、油断なく周囲を見渡していた小蒔は、角を曲がったところで
前方の人影に気付いて慌てて龍麻達を押し留める。
「あ、ねぇ、誰かいるよ。声かけてみよっか」
「でも、無断で入ってきてるから……」
葵の台詞にも一理ある。
少し考えた龍麻は、やはり自分達から近づくのは危険だと考え、
気づかれないよう階段を上がることにした。
帯脇がここの生徒である以上、彼を殴り飛ばしに来ている自分達は異分子でしかない。
藪を突ついて蛇を出すこともないと思われたのだ。
人目を避け、足音も殺して龍麻達は階段を上がっていく。
先頭を歩いていた小蒔は、二階へ上りきろうとする寸前、
影から飛び出してきた人影と思いきりぶつかってしまった。
「きゃあッ!!」
バランスを崩した小蒔は、危うく階下へ転落しそうになってしまい、醍醐に慌てて受けとめられる。
照れ笑いをした小蒔だったが、悲鳴を上げたのは彼女ではなかった。
階段の上で怯えきった顔をしていた少女は、ぶつかった相手が昨日知り合ったばかりの小蒔だと知ると、
ほとんど泣き出しそうな安堵の表情を見せた。
「皆さん……」
「さやかちゃん! 良かった、無事だったんだ」
よほど怖かったのだろう、さやかは喉の奥から搾り出すような声しか出せず、
龍麻達に周りを囲まれた今でも後ろを振り返っている。
「皆さん……来てくださったんですね。霧島くんがお休みで、皆の様子がおかしくって、
私、私……もうダメだって……」
「ヘヘッ、もう大丈夫だぜ、俺達が来たからにはよ」
見栄を切る京一に一人格好はつけさせない、と龍麻が口を挟もうとすると、
ごつい力で腕を引っ張られた。
ここには自分達しかいないというのに、紫暮は何を警戒してか、
京一達から距離を置いて龍麻にのみ話しかける。
「おい、緋勇。あれは……舞園さやかじゃないのか」
「そうだけど……お前知ってんのかよ」
ごつい力とごつい体格に似合わず、蚊の鳴くような声で訊ねた紫暮は、
龍麻が答えると今度はその両肩を力強く揺さぶった。
「何ィッ!! お前、いつ知り合ったんだッ!!」
「い、いつって……昨日かな」
握り潰されそうな勢いに顔をしかめ、龍麻はようやく声を振り絞る。
それは紫暮が龍麻を襲っているようにも見え、気づいたさやかが恐る恐る声をかけてきた。
「あの……緋勇さん、こちらの方は」
「あ、ああ、えっと」
「自分は鎧扇寺学園高校三年、紫暮兵庫でありますッ!!
以前からさやかさんのファンでありましたッ!!」
直前まで首を絞めていた腕も真っ直ぐに、紫暮は諸羽もかくやという直立不動で答える。
いきなり放り出された龍麻はバランスを崩し、危うく小蒔の二の舞になってしまうところだった。
しかし紫暮はお構いなしで、さやかに対して世慣れぬ少年のように緊張し、
本物のアイドルに出会えた感激を巨躯から発散していた。
彼の意外過ぎる趣味に驚いた龍麻だったが、
場所も状況もわきまえず声を張り上げる紫暮を、さすがにたしなめようとする。
「ケケケッ、かくれんぼの次は鬼ごっこかァ? 帯脇サンが屋上でお待ちかねだぜェ」
しかし時既に遅かったようで、紫暮の声を聞きつけて、帯脇の手下と思われる不良達が現れた。
彼らは龍麻達の人数に驚いたようだが、帯脇の方をより恐れているのか、
逃げ出したりはせずにさやかを屋上に連れていこうとする。
もちろん龍麻達の目的も帯脇を倒すことであったから、
彼らの命令に従わなければならないという怒りはあったものの、
それは暴発させるべき時まで溜めておこう、と屋上へと向かった。
階段を上りながら、醍醐が口を開く。
「しかし……妙だと思わんか? これだけ騒いでいるのに、誰も聞きつけてこない」
「皆様子がおかしいんです。先生も、警備員さんも、まるで──何かに取り憑かれているみたいで」
醍醐の疑問も、さやかの指摘も気になるところだったが、
京一は全く気にしていないようだった。
それら全てを解決する方法があるのだから、そうすればいい。
そう言わんばかりの表情で階上を見上げる。
「どっちにしても俺はヤツをブチのめさねェと気が済まねェ。行くぜッ!」
逸る血気を抑えようともせず、京一は屋上へと続く階段を駆け上っていった。
屋上に出る扉を蹴り飛ばして開けた京一は、荒ぶる心もそのままに帯脇を探した。
「どこだ帯脇、出てきやがれッ!!」
沈み始めた太陽が、赤く風景を染め上げる。
朱と黒が色濃くコントラストを成す屋上の、最も昏い部分に帯脇はいた。
「何勝ち誇ってんだよ、雑魚どもがァ」
影を取りこんだかのような、人型の闇が嘲る。
頭の中央に縦にのみ生えている緑色の髪と、不気味に光る細い目だけがその中に浮き上がって見えた。
「野暮なヤツらだぜ、まったくよォ。俺様とさやかはこれからお楽しみだってのに。
予定が狂っちまった、こんなことならお前らも殺っとけば良かったぜェ」
「てめェ──」
怒りに言葉を遮られ、それ以上を口に出来ない京一に、
帯脇は爬虫類じみた目を一層細めて続ける。
「さやかのコトを馴れ馴れしく口にする他の奴らや霧島っちゃんみてェによ」
「霧島……くん? 霧島くんに何かしたの!?」
霧島を襲ったことを示唆する帯脇の台詞に、さやかの顔色が変わった。
すると帯脇は、その怯えが愉しくてたまらない、というように薄く笑ってみせる。
「そんな顔すんなよォ、さやか。俺様はただ俺達の仲を邪魔する虫けらを叩き潰しただけだぜ?」
「そんなの嘘! 霧島くんは私のことを護ってくれるって言ったもの。
辛い時も、悲しい時も、いつも側にいてくれるって約束したもの」
帯脇の恫喝など、さやかは全く信じていなかった。
諸羽と交わした約束が、どれほど幼く、絵空事のようなものでも、
諸羽は絶対に守ってくれるとさやかは信じていた。
だから、さやかは帯脇を信じない。
彼の言葉を信じてしまうことは、自分と諸羽を裏切ることであったから。
頑なに首を振るさやかに、帯脇はねっとりとした声で諭す。
それは、獲物を呑みこんだ蛇がもうお前には逃げ場が無いのだ、と語っているかのようだった。
「さやかァ……おめェ、まだわかんねェのかよ、今ごろヤツはもうくたばってんだぜェ」
「ふざけたコト言ってんじゃねェぜ、クズが」
木刀を抜き放った京一が、ゆっくりと構えながら告げる。
「あァん?」
「あいつには今新宿一の名医がついてんだ、死ぬはずがねェよ」
きっぱりと言いきり、顔を輝かせるさやかに横目で頷いてみせた京一は、
じりじりと間合いを詰めた。
身体から発せられる氣は鋭く、近寄っただけで切り裂かれそうなほどで、
それは帯脇ですらもわずかに怯ませたようだった。
「それよりてめェがくたばる心配をした方がいいんじゃねェのか?
俺のカワイイ弟分を可愛がってくれてよ、礼はきっちりしねェとな。なァ、帯脇──ッ!!」
「けッ、調子に乗りやがって。まァいい、とりあえずてめェらは消えろ。
その後で霧島ももう一度殺りゃあいいだけよ。
俺様とさやかの邪魔をする奴は全員死ねやッ!!」
帯脇の合図に合わせ、十人ほどの手下が囲むように現れる。
帯脇は京一に任せ、龍麻達は散開して不良達を相手取った。
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