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「ふぅ……美里ちゃん、大丈夫よね」
「今は、先生を信じて待つしかないな」
 杏子と題醐の会話を、龍麻は素通りさせていた。
たか子に初めに抱いた嫌悪感は、もうない。
もちろん好色そうなで見られるのは抵抗があるが、
扉を閉める寸前に感じた彼女の氣は本物だった。
以前に受けた葵のそれと似た、しかしより洗練された、膨大な氣。
たか子があの氣を使いこなせるのなら、きっと葵を治してくれるだろう。
 それよりも今龍麻の心にのしかかっているのは、自分に対する不甲斐なさだった。
治療は出来ないとしても、葵の氣の乱れさえ察知出来なかった自分への。
動転していたのは確かだが、葵自身の氣の減少だけでなく、
他者の異質な氣さえ読み取ることが出来なかったのだ。
師に才能があるなどと言われ、氣を理解しているつもりになっていた自分が恥ずかしかった。
 その憤りが、我知らず両の拳を握り締めさせる。
奥歯を軋むほど噛んでも収まらず、遂に身体の表層にまで怒りが形となって現れる寸前、
誰かの手が肩に置かれた。
それは何気なく置かれただけにも関わらず、掌からは友を気遣う、暖かな氣が感じられた。
「まぁ、落ち着けよ、緋勇」
「京一……」
「考えてることは判らねぇでもねぇけどよ、ここでお前が怒ったってどうにもならねぇだろ」
「……そう……だな。悪ぃ」
「別に謝ることもねぇよ。ただ……あんまり一人で背負いこむのは止めとけよ」
 京一はいつもと同じ、真剣さの抜けた態度のままだったが、
龍麻は恥ずかしくて友人の顔を直視出来なかった。
ぶっきらぼうに謝っただけで口を閉ざす龍麻に、その心情を理解した京一は、
気を悪くするでもなく軽く肩を叩いて自分の元居た席に戻る。
そのやり取りを見るでもなく見ていた醍醐が、思い出したように口を開いた。
「……そういえば京一、お前さっき、師匠がどうとか言っていたな」
「あ、それそれ。あたしもちょっと気になってたのよね。ねぇ、詳しく教えてよ」
 思い出さなくても良い物を、と京一は眉を曇らせる。
過去に──特に、その・・過去に触れられるのは、
この悩みなど無いように見える男の好む所では無かった。
「冗談じゃねぇ、お前なんかに話したらあっと言う間に大事おおごとだ。
それに、ンなこたァべらべらと話すことじゃねぇよ。
……大喧嘩して別れてから、もう五年も会ってねぇんだ。今頃どこで野垂れ死んでるか」
「何よ、ケチね」
「へッ、何と言われようとお前だけには絶対教えねぇよ」
 反撃しようとした杏子は、意外に硬い壁の存在を感じて不覚にも口をつぐんでしまった。
龍麻も友人の過去に興味を抱かない訳ではなかったが、
探り出すことを生業とする杏子とは違い、本人が語りたがらない以上、詮索するのは野暮だと心得ていた。
なおしつこく言質を取ろうとする杏子と京一の言い争いを遠くに押しやりながら、
自分の過去に思いを馳せる。
 龍麻の人生が急激な変転を始めたのは、わずか半年ほど前のことだった。
それまでは、産んでくれた両親こそいないものの、
同じだけの愛情を注いでくれる義理の父母に育てられ、何一つ不満の無い生活を送っていた。
それが、高校ニ年のある日
──まだ未来に思いを馳せることもなく、過去の感傷に浸る必要も無い日々。
突然やって来たそれ・・は、幾人かとの別れと出会い、
そして己の持つ宿星さだめと向き合うことを、否応無しに龍麻に迫ってきた。
常人ならば逃げ出すか、殺されるか──到底理解も出来ない非現実を、
驚きながらも受け入れたのは、これもまた宿星の導きとやらなのか。
思わせぶりなことを言って、肝心なことは結局何一つ教えてくれなかった師。
東京に、新宿に行けばわかる──その言葉に従い、真神学園と言う名の高校に転校した途端、
怒涛のように押し寄せてきた怪異の数々。
巻きこまれることは、怖くはない。
巻きこんでしまうことが、怖かった。
龍麻が額の前で組んだ両手に頭を乗せ、自分を押し潰そうとする悔悟の念と戦っていると、
後ろから小突かれた。
「痛たっ」
「だから、お前は考えすぎだってんだよ」
 後ろを見ると、そこにはいつ舌戦を止めたのか、京一が立っていた。
不安を顔から拭えない龍麻に、軽く肩をすくめる。
「……でも」
「別にお前のせいでヘンなコトが起こり始めたってモンでもねぇだろ?
 仮にそうだったとしてもだ、悪いのは自分に溺れる奴等だろうが」
「そうだよ、緋勇クン。そんな風に自分を責めたってしょうがないと思うよ」
 京一と小蒔の言った中身よりも、むしろ表情の方に説得されて、龍麻は軽く頭を振った。
「そうだな。……ありがとう」
「ヘッ、礼なんていいけどよ、どうしてもって言うなら、まぁ味噌ラーメン一杯で手を打つぜ」
「どうして京一はすぐそうやって茶化すのさ」
「小蒔はいらねぇってよ」
「そんなコト言ってないだろッ!」
 口を尖らせる小蒔に失笑を誘われ、龍麻は口元を押さえる。
「わかった、わかったよ」
「あーあ、緋勇君、そんな簡単に約束しちゃうと骨の髄までしゃぶられちゃうわよ」
アン子おまえに言われたくないッ」
 綺麗に声の揃った京一と小蒔に、龍麻は今度こそ笑いを堪えきれず吹き出す。
それを見た皆も笑いだして、一同はしばしの間不安を忘れることが出来たのだった。

 治療が始まってから、一時間が過ぎようとしていた。
一度は治まっていた不安も、隙間からこぼれ出した微粒子が小さな雲を作りはじめている。
その存在に最初に感化されたのは、葵の一番の親友と自らを任じている少女だった。
親指を口にあて、静かな、しかし重い息を吐き出す。
「……ん? どうした、桜井。美里のことなら先生に任せよう」
「……うん。どうしようもないって解ってるんだけどね。
もし、もしこのまま葵が目を覚まさなかったら……ボク、怖いんだ」
「桜井さん……」
「ね、緋勇クン。どうしてこんなことになっちゃったの?
葵が何をしたって言うの!? ……ボク、絶対に許さない。
葵をこんな目に合わせた奴を、絶対に許さないッ!!」
 これまで小蒔の感情をせき止めていた防波堤が、龍麻の一言で欠壊してしまった。
小さな身体を全て使い、満ちてなお尽きることのない怒りを露にする。
龍麻はそれをまともに受ける形になってしまったが、
その中には彼女の葵を思う気持ちが太い芯としてあった為に腹立たしくはなかった。
「落ち着け、桜井! 今、俺達が弱気になってどうする。今は……待とう」
 自分の焦りを封じこめて醍醐が叱り飛ばす。
小蒔がすぐに収まったのは、醍醐の気持ちが伝わったからでもあったが、
龍麻の瞳の中に自分と同じ物を見たからでもあった。
「うん……ごめんね」
「それにしても……結構時間がかかるものだな」
「そうね……あれからもう二時間近くは経っているかしら」
杏子は腕時計をしているにも関わらず、病院の柱に掛けられた時計をしきりに見ている。
そのうち、見る度に位置を変える針にまで悪態をつきそうな様子だったが、
どうやら龍麻達はそれを聞かされる羽目にはならずに済んだようだった。
扉の向こうから、ようやく舞子とたか子が姿を見せたのだ。
「みなさぁ〜ん。院長先生からお話があるので聞いてくださ〜い」
 舞子ののんびりした口調も、龍麻達の焦慮を和らげる効果は無かった。
たか子の姿が見えるや否や、一斉に立ち上がって彼女の許に駆け寄る。
たか子の表情は顔の周りについた脂肪のせいで窺いにくく、
治療が上手く行ったかどうかは彼女の言葉に頼るしかなかった。
「先生。美里さんは」
「そんな必死な顔をするな。……とりあえず、治療は済んだ。
だが──意識が、戻らん」
 ひと息に言い放ったたか子に、周りの空気が凍りつく。
「──!!」
「氣の回復は上手く行った。しかし、覚醒の段階で障害が出ておる。
何かが娘の深層意識を繋ぎとめている」
「そんな……」
「娘の意識は徐波睡眠ノンレムと呼ばれる眠りの最も深い段階レベルで留まっている。
本来なら同じ段階レベルに意識が留まる事などあり得ないのだがな」
「じゃ……じゃあ、先生、葵は……」
 自分の言った台詞の先にあるものを想像してしまい、小蒔の声は震えていた。
しかし、小蒔は声に出したことで逆にある程度は発散されたのだが、
その衝撃を全て体内で受けとめた龍麻はふらつこうとする足を必死に制御しなければならなかった。
そんな龍麻を痛ましげな目で見たたか子は、一瞬のためらいを見せた後、
少年の最も聞きたくない未来を告げる。
「このまま目を覚まさないか、あるいは──衰弱して死ぬこともあり得る」
「そんな……ッ」
 杏子の悲鳴に疎ましげな視線を向けたものの、口に出しては何も言わず、
たか子は若者達にもう一つの未来を示唆した。
「だが、娘の意識を探している者を探し、それを止めさせれば話は別だがな」
「間違いねェな……そいつも、唐栖や雨紋と同じように『力』を持った奴だ」
「うむ」
 短く頷くに留まったが、たか子は内心で驚きを押し殺していた。
……やはり、京一の身体から溢れている氣は、
京一がその力の使い方に目覚めたことを示していたのだ。
それに、この龍麻という少年。
彼が放つ氣は、尋常なものではない。
もしかしたら──
たか子はこの少年が背負っているものを思い、誰にも気付かれないよう厚い唇の間から息をついた。
自分がこの道を選んだのと同様、誰にも替わることの出来ない宿命。
当人は未だ気付いてはいないようだが、それは恐らく、自分が歩んでいる宿命ものよりも遥かに苛酷なものだろう。
道を、誤るんじゃないよ──
たか子はわずかな同情と、それよりは多くの共感をその瞳に浮かべた。
「で……でもさ、なんで葵が」
「……そんなもの、本人に直接聞けばいい」
「緋勇クン……」
 小蒔が思わずぞっとしたほど、龍麻の言葉は凍てついていた。
否、小蒔がぞっとしたのは、その言葉の冷たさよりも、
言葉が凍りつかせたように無表情の顔に対してだった。
しかし、その内側にはマグマに等しい激情が流れており、
ひとたびその氷が割れれば対するものを灼きつくさずにはおかないだろう。
それを直感的に感じ、小蒔はぞっとしたのだ。
「先生、何か手がかりは無いんですか。どんな小さなことでもいい」
 龍麻はそのエネルギーの奔流を、放つべき相手に放つまでは必死に溜めておこうと抑制して訊いた。
抑えられてはいても充分につよさのある視線を、
たか子は逸らしもせず、跳ね返しもせず、ただ受け止める。
まだ多少激しすぎるきらいはあるものの、想いに溢れた良い瞳だった。
「まぁ落ち着け。いいか、送られてくる氣の放射幅と方向を測定した結果、高見沢、地図を」
「はァ〜い。地図地図〜」
「この地図は墨田区の北から北西に位置する地域の地図だが、
氣の送られて来ている方角はこの辺りだ。ここを中心にした半径五百メートルほどに
氣の乱れが測定されておる」
「ここ、白髭しらひげ……公園っていうのかな?」
「墨田か……地理が解んねぇな」
「どうせしらみつぶしに行くしかないんだ。早く行こう」
 龍麻自身は理性を保っているつもりだったが、仲間達には彼の焦りがはっきりと感じとれていた。
しかし、龍麻はそのことにさえ気付かずに一人病院の出口に向かおうとする。
その背中に、間延びした声がかけられた。
それは龍麻の両肩に乗った過剰な使命感をほぐす力があり、龍麻は脱力しながら歩みを止めた。
「良かったら〜、わたしィ、案内しましょうかァ? その辺りは詳しいし〜」
「うん……でも」
 龍麻は言葉を濁したものの、明らかに彼女の同行を歓迎していなかった。
これまでの彼女の言動からすると、気勢を削がれてしまうのではないかと思ったのだ。
すると、眉をくっきりと八の字にしている舞子の横に立ったたか子が、
彼女の肩に肉の厚い手を置いて言った。
「連れて行ってやってくれんか」
「え……?」
高見沢こいつは、こう見えても普通の人間にはないもの・・を持っている。
他人とすぐ仲良くなれるというかなんというか──、まァ、一種のコミュニケーション能力だな。
どの道情報を集めなければならないんだろう?
足手まといにはならんから、連れて行ってやってくれ」
「……判りました。よろしく、高見沢さん」
「舞子でいいよォ〜」
 舞子は今すげなくあしらわれたことも忘れているようで、嬉しそうに龍麻の手を取って飛び跳ねた。
龍麻は関節が外れるのではないかと言うくらい上下する腕の方は見ないようにしながら、
たか子に頭を下げる。
「それじゃ先生、その──原因を取り除いたらまた来ます」
「……ああ、気をつけてな。そうだ、これを持っていけ。精のつく薬だ」
 たか子の掌に乗っていた薬は、一応薬包紙には入っていたものの、
いかにもいかがわしい色が透けて見え、目に染みる臭いを発散していた。
後で──出来れば好意だけ受け取って飲まずに済ませようと考えた龍麻に、
無邪気で無慈悲な声が襲いかかった。
「はい、あ〜ん」
「い、いや、今飲まなくても」
「ダメ〜。効くまで少し時間がかかるから、今飲まないと意味ないよォ〜。
お水持ってきてあげるから、ちょっと待ってて〜」
 こういう時だけ妙に素早い動きで、舞子が水を持ってくる。
進退極まった龍麻は、ままよとばかりに息を止めて一気に粉薬を流し込んだ。
「……!?」
 舌の上をわずかに掠めた粉末は、まるで巨象の群れが行進したかのような触感を残し、
喉を落ちていった。
やっかいなものを押しつけられた胃が物凄い勢いで無責任な身体の持ち主に抗議を始める。
それほどに強烈な味だった。
そのくせ吐き戻しそうになる訳でもなく、内臓に巣を張るかのように染み渡っていく。
こんなに奇怪なものを口にしたのは、初めての経験だった。
「イヒヒ、どうだい? わし謹製の薬は」
「あ、ありがとうございます」
 龍麻が口を開いた時、皆が一歩退いたのは、瘴気めいたものが吐き出されるのを見たからだろうか。
自分でもどこから出ているのかわからない声を聞きながら、
その実全身で粉末と戦っている龍麻を、たか子は見透かしたように笑った
「お前は礼儀正しい子だねぇ、ますます気にいったよ。今度は一人で遊びにおいで」
「……は、はい」
 猫撫で声──これほどこの表現が似合わないのも珍しい──で龍麻に別れを告げたたか子は、
来た時と同じように、小蒔の髪を小刻みに揺らして去っていった。
ようやく回復した龍麻は、口直し、とばかりに踊るショートカットを眺める。
少し遅れてその視線に気付いた小蒔は、龍麻の異様な形相に驚いてしまった。
「どしたの? 緋勇クン」
「え、あ、いや、なんでもない」
「? ヘンなの」
「よし、それじゃ墨田区に行くとすっか」
 たか子の姿が完全に見えなくなったのを確かめてから、京一が皆の方に向き直った。
どうやらこれまで借りてきた猫のように大人しかった分を取り戻そうとでもしているらしく、
妙に張りきっている。
そのことについては何も言わずに龍麻が行こうとすると、
当然のように共に行こうとする新聞部の部長を、剣道部の部長が止めた。
「アン子、お前はここに残れ。もし俺達が戻ってこなかった時、警察に連絡するんだ」
「何言ってるのよ、あたしも行くわよ!」
 前回──渋谷の街で起きた異変の時も、なんだかんだ言われてのけ者にされ、
スクープをものに出来なかったのだ。
ここで引き下がったらジャーナリストの名折れと、杏子は絶対に引き下がろうとしなかった。
その根性は見上げたものではあるが、夢を操るという得体の知れない『力』が相手では、
杏子を連れて行くのはあまりに危険過ぎた。
「遠野さん、美里さんの所にいてあげてくれないかな」
「緋勇君……」
「今度は絶対ちゃんと説明するから」
「そうそう。人には役割ってモンがあるだろ?
俺達が身体張って闘う。お前はその頭で、ペンで闘うんだ」
 それは京一にしては随分上出来な説得で、杏子は鳩が豆鉄砲を食らったような表情で京一を見返した。
もし同じ事を龍麻が言っても、聞き入れなかっただろう。
それほど意外な男の、意外過ぎる言葉だった。
「上手いこと言って……解ったわよ。あたしはここに残るわ。
その代わり緋勇君、絶対よ。絶対ネタ掴んで来てよね」
「わかったよ」
 もちろん、龍麻は「ネタ」を放置する気など微塵もなかった。
龍麻は聖人君子などではないから、悪意に対してはそれ相応の報いを与えることに、
なんのためらいもなかったのだ。
小さく、しかし鋭く頷いた龍麻は、先頭に立って歩き出す。
その背中から伸びる影は、もうじき背丈を追い越そうとしていた。
 暗くなってしまうと相手の居場所を探すのも難しくなるし、
その相手と闘うことになれば更に辛くなる。
完全に夜になってしまう前に、せめて相手だけでも探しておかなければならず、
龍麻達はやや急ぎ足で墨田区へと向かおうとしていた。
しかし、そんな焦慮をものともしない声が、一行の一番新しい知人の口から発せられた。
「え〜とッ、京一くんと醍醐くんと龍麻くん、そちらのあなたのお名前は〜?」
「そういえばまだ言ってなかったね。ボクは桜井小蒔」
「わあッ、ぴったりのお名前〜。短い髪もすごくお似合い〜ッ」
「あ、ありがと……」
「男らしいって感じで憧れちゃう〜ッ」
「……喧嘩売ってんの?」
 あまりにもあっけらかんと言われた小蒔が反応したのは、二秒ほど目をしばたたかせた後だった。
もともとやや吊りあがりがちの眉が、傍目にわかるほど跳ねあがっている。
「……桜井さん」
「う、うん……悪気の無いのは判ってるんだけどね、つい」
 頬を引きつらせた小蒔は、賢明にも気にしないことにしたようだ。
軽く頭を振ると、舞子から距離を置くように大股で歩き始めた。
 その後姿を追って歩き出した龍麻を、呼びとめる声があった。
か弱く、耳に届く前に力尽きてしまいそうな声。
名前を呼ばれては立ち止まらない訳にはいかず、苛立ちを隠しきれずに振り向く。
「あッ……緋勇さん。偶然ですね」
「……君は」
 龍麻の声は、驚きよりも不審の方が強かった。
確かに、もう一度出会えればいい、という思いは心のどこかにあった。
しかし、こんな場所で、こんな時に出会う偶然など、龍麻は信じていなかった。
それなのに。
今は文字通り一刻を争う時だというのに、奇妙な昂揚が龍麻の全身を包んでいた。
その昂揚に抗えないまま少女の方を向く。
そこに居たのは、先日渋谷の交差点でぶつかった少女だった。
龍麻の脳裏に、その時の記憶が甦る。
息遣いさえ聞こえてきそうな鮮明な記憶。
「良かった。覚えててくれたんですね」
 覚える?
否、覚えてなどいない。
一度会ったきりのこの少女のことを、龍麻は記憶の無い程の幼い頃に死別した両親よりも知っていた・・・・・
何故、と考える前に、少女が微笑んだ。
少しかげりを帯びた、儚げな笑顔に、動悸が早くなる。
この感覚を、龍麻は以前に一度だけ味わったことがあった。
思春期、と言う言葉を自覚した、甘酸っぱい思い出。
しかし今目の前の少女に抱いている感覚は、ただただ甘いだけだった。
自分も、友人も、何もかも捨てても構わないと思えるような、危険な甘さ。
「おい、何してんだ」
 うるさい。
全く正当な友人の呼びかけを、龍麻は脳から排除していた。
目の前の少女の全てを見逃すまいと、全霊を傾ける。
そんな視線を知ってか知らずか、少女は龍麻の背後で呼びかける京一に愛想良く笑った。
「こんにちは。緋勇さんのお友達ですか?」
「あ、あァ……なんだ、知り合いか?」
 龍麻が答える前に、少女が口を挟む。
「恋人」と言われても今の龍麻は否定しなかったかもしれないが、
少女は殊勝にも、龍麻との関係を謙虚に説明した。
「いえ……私が勝手にそう思ってるだけです。ごめんなさい、引きとめたりして」
「ふーん……おい、急ごうぜ緋勇。悪いけど、また今度な」
「はッ、はい。……あの、緋勇さん。私、比良坂ひらさか 紗夜さよって言います。
また今度──こんな風に、偶然に出会えたらいいですね」
 偶然に──
そう微笑んで去って行く少女に、龍麻は戦慄していた。
さっきまで甘ったるい感情の海にその身を沈めていたのに、
今、その海がいきなり氷点下の海に変わったかのような寒気に支配されていた。
何故かは解らない。
しかし、自分の直感が間違っているとは思えなかった。
「……可愛い子だったな。おい緋勇、いつのまにあんな子と知り合ったんだよ」
 京一の声が、龍麻を現実に引き戻す。
やっかみと少しの嫌味が入っているそれは、冷えた心を温める一杯のココアに等しかった。
龍麻はゆっくり喉を動かし、声帯が自分の物であることを確かめる。
昔読んで貰った童話のように、今去って行った少女が実は魔女で、
声を奪われてしまったのではないかという錯覚に包まれていたのだ。
「龍麻くんって〜、女の子の友達が多いのね〜」
「そ、そうかな? 別に普通だと思うけど」
 舞子の問いとも言えない問いに答えることで、
龍麻は自分が完全に元の世界に戻ってきたと安心することが出来た。
その安堵も束の間、今度は鞭で打ったような声が龍麻を責める。
「緋勇クン! 何やってんのさ、早く行くよ!」
「ご、ごめん」
「緋勇、事は一刻を争うんだ。油を売っている暇は無いぞ」
「ああ、すまない」
 叱られたことにありがたみさえ感じた龍麻だった。
どんな理由にせよ葵のことを一時的に失念してしまったのは確かで、頬を赤くして再び歩き始める。
この時にはもう、彼女の──比良坂紗夜のことなど頭から追い出していた。
そのはずだった。



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