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「空気が、とても澄んだ感じがするわね」
葵の声に作り物めいた明るさがあったことに気づいた者は、誰もいなかった。
まさかこうして歩いている間に、彼女が人生で初めてのとても重要な時間を過ごし、
しかも満足いく結果が得られなくて不機嫌なのだ、などと誰が知りようがあるだろうか。
本心から怒っているわけではない──
龍麻の肝心な時の意気地のなさは充分に知っているし、
そもそもこちらから水を向けてやらないとデートにすら誘わない男なのだから、
とっさに与えられた機会を生かすなどという手腕に期待するほうが無理なのだ。
だから葵は、龍麻が思っているほど怒っているわけではなかったし、
まだ一週間あるのだから、それまでは待ってやる──
それでも誘ってこなかったら何か考えなければならないが──つもりだった。
ただ少し反省させる必要もあったので、あえて龍麻にしばらくの間話しかけないことにしたのだった。
「もう冬だもんね。あ、そうだ、鍋いつやろうか、ひーちゃん」
親友のそんな複雑な、もしかしたらシンプルな事情など知る由もない、
知っていたら葵を応援しただろうが──小蒔は、
自分で言った冬という言葉にごく自然な連想をして、
二人が冷戦状態に突入しているとも知らず、葵から受け取った話を龍麻に振った。
「そうだね」
振られた龍麻はひどく適当に答える。
どうやら以前にそんな話をしたことを、小蒔は忘れていなかったらしいが、
今の龍麻の耳は、頭の左右についているただの穴にしか過ぎなかった。
意味も内容も脳で変換されず、反射で答えているだけだ。
京一の財布を取り返すことなど綺麗さっぱり忘れ去って、
龍麻は自分の犯した致命的な失策を振りかえるのに必死だった。
葵が怒っているのは解る。
クリスマスまではもう一週間と迫っており、教室でもそこかしこでその話題があがっている。
誰を誘った、誰に誘われた──
受験を控えた学生の態度とも思えないが、高校三年生というのは、
最も細かなスケールの定規で見ても子供から大人へと変わる時期なのだから、
ある程度は仕方がないのかもしれなかった。
葵は表面的にはクリスマスを期待する素振りをみせていない。
既に他に誰か先約があるのかというとそうでもないらしく、
彼女と十二月二十四日の夜を過ごす権利を与えられているのは今のところ龍麻だけのようで、
その果報者としては彼女をがっかりさせるわけにはいかない。
と言ってももちろん確定ではないので、まずは約束を取りつけなければならない。
その数少ない交渉の機会がたった今訪れたわけで、
そこでそもそも交渉のテーブルを用意することさえ出来なかったのだから、
葵が愛想を尽かすのも当然なのだ。
自分自身に幻滅し、一歩ごとに底無しに気分が沈んでいく龍麻だった。
まるで生気のない龍麻の声を、小蒔は一度聞き過ごしてしまった。
龍麻と知り合って半年を数えるが、こんなぞんざいな応対をされたのは初めてで、
驚いて龍麻の顔を見る。
そしてそこにあった、死んだ魚のような目をしている龍麻にまた驚いて、今度は葵を見た。
「さっき……なんかあったの? ひーちゃん変だよ」
「何もないわ……どうしたのかしら」
演劇部顔負けの演技を友人がしているなどと夢にも思わず、小蒔は首を傾げるしかなかった。
その友人は、内心で軽く眉をひそめていた。
龍麻の状態がこのまま続けば、いずれ友人達にも不審がられる。
とぼけるのは簡単だが、今から花札をするというのにこんな精神状態では負けるだけだろう。
そうなると話がまたややこしくなりそうなので、仕方なく葵は龍麻への制裁を止めることにした。
「ね、龍麻くん、大丈夫?」
それに対する龍麻の反応ときたら、声をかけた当人も思わず一歩さがりたくなるものだった。
土気色だった顔が、一瞬の半分の時間でコスモスの花畑のようになって、
餌を前にした犬の尻尾のように激しく振られる。
その変わりよう、あるいは不気味さは小蒔も感じ取ったようで、親友の喉が鳴る音を葵は聞いた。
「いいよ、鍋でしょ、いつでもやろう。なんなら冬休み中毎日しようか」
「そ、それはちょっと」
明らかに引いている小蒔にも構わず、嬉しそうに京一と醍醐のところに行った龍麻は、
親しげに京一の肩を抱いて気味悪がられていた。
「……葵も大変だね」
何かを察したのか、小蒔が同情するように言う。
それに葵は、何も答えなかった。
「な、鍋やろうぜ、鍋」
葵達から数歩先行した所では──もしかしたら葵達が数歩下がったのかもしれない──、
龍麻の場違いなほど陽気な声がしていた。
後ろで何が起こったかなどと露知らない京一は龍麻に、ある意味律儀に付き合っている。
「てめェら、随分とまたあったかそうな話しやがって。
俺は身も心も財布の中身も激寒だってのによ。
ちくしょう、授業中に何回くしゃみしたと思ってやがる」
しかし勝手なことばかり言う京一になど誰も耳を貸さず、
龍麻の鍋パーティーの誘いにも応じる者も、誰もいなかった。
龍麻達が新宿駅の構内を通り抜けて歌舞伎町へ出ようとすると、
人込みの中から彼らを呼び止める声があった。
「なンだ、緋勇サン達じゃねェか」
「あ、雨紋クン」
気さくに手を上げたのは、龍麻達の一年後輩に当たる、渋谷区神代高校の雨紋雷人だった。
目立つ逆立てた金髪は相変わらずで、濃い青色の制服にとても良く映えている。
手ぶらなのが違和感を抱かせるほど常にどちらかは持っている、
槍かギターを今日は両方とも持っていない雨紋に、早速京一が噛みついた。
「なんでお前がこんなトコにいんだよ」
「オレ様も聞いていいか? どうしてアンタはそんなバカな格好してんだ」
「ぐッ……」
先輩に対してとはとても思えない態度で京一をやりこめた雨紋は、龍麻にも同じ調子で話しかけてきた。
「これからラーメン屋にでも行くのか? ほとんど狂だからな、アンタ達は」
「なんだよッ、あそこのラーメンは美味しいんだぞ」
ラーメン屋の店主に代わって弁護を始める小蒔は、口と脳と胃が直結しているようで、
ラーメンの話をしているうちに食べたくなってきたらしい。
「だいたい雨紋クンは何ラーメンが好きなのさ。
塩ラーメンを食べてないのにラーメンを語ったらいけないんだぞ」
すっかり熱く語る小蒔は、葵に袖を引っ張られてようやく脱線に気づいたようだ。
「あれ? ボク達ラーメン屋行くんだっけ」
苦笑する雨紋に、同じ種類の笑みを浮かべて龍麻は訊ねた。
「けど珍しいな、お前が新宿(に来るなんて」
「ちょっと待ち合わせしててな。もう来ると思うンだけどよ」
「誰? ボク達の知ってるヒト?」
口を挟んだ小蒔に頷いた雨紋は、そのまま目線を彼女の頭上に合わせた。
「ああ。ッと、来たな」
目だけを上に向けた小蒔は、それだけでは足りないことを知り、身体ごと後ろを向ける。
そこには端正な顔立ちをした小蒔と同年代の男性がいた。
「あれ、如月クンじゃない」
雨紋の待ち合わせの相手は、龍麻達の友人でもある如月翡翠だった。
如月もここに龍麻達がいることに驚いたようで、切れ長の目がわずかに開いている。
それでも整った眉目は全く崩れておらず、さぞ学校では人気があるものと思われた。
「やぁ、君達も一緒だったのか。久しぶりだね」
「珍しい組み合わせだな。これからどこかへ行くのか」
軽く手を挙げる如月に、一同の興味を代表して醍醐が訊ねると、応じたのは雨紋だった。
「なに、オレ様お気に入りの槍があるんだけどよ、柄がちょっと劣化して(きてるンで
如月サンに新調してもらったのさ」
「ちょうど穂先の使えない槍が蔵にあったからね。
代はいいと言ったんだが、夕飯を奢ると言って雨紋(が聞かなくてね」
如月の口調は落ち着き払っているが、雨紋の誘いを拒まずに、
わざわざ北区から新宿区まで出てきている辺り、案外交友関係を大切にしているようだ。
意外なところで生まれていた縁(に龍麻が感慨を抱いていると、
そうでもないらしい京一が、棘(を含んだ声で言った。
「夕飯……新宿……まさかてめェ、ラーメン屋に行くつもりじゃねェだろうな」
「悪いかよ。如月サンはまだあそこを知らねェって言うからな、ぜひ教えようと思ってよ」
雨紋は龍麻達も愛用しているラーメン屋に如月を連れていくつもりらしい。
覚えている限り、雨紋は一度しか連れていっていないはずだが、よほど気に入ったのだろうか。
確かにあそこは美味いけどな、と龍麻が小蒔と同じことを思っていると、
その小蒔がおかしそうに言った。
「雨紋クン、如月クンにはちゃんとサン(ってつけるんだ」
対する雨紋の答えは明快そのものだった。
「当たり前だろ、なンてったって如月サンは忍者だぜ、ニンジャ!!
凄ぇよな、やっぱ子供の頃から草飛び越えたりしてたンだろ!?」
「しない……」
新宿駅の中で、大声で、しかもバンドをやっているせいか良く通る声の雨紋に、
忍者と連呼されて如月の眉がひくついている。
だが雨紋は一向に構わず、如月を尊敬しているような、そうでないようなことを言った。
「じゃあアレだよな、ニンとかござるとか言うんだろ」
「言わない。どうも君は僕に対して誤解があるようだ。一度話し合う必要があるな」
如月は強い口調で雨紋をたしなめたが、どうも半分も雨紋には伝わっていないようだった。
龍麻達が笑うのを必死に堪えていると、如月がひとつ咳払いをして向き直る。
「ところで君達は? ラーメン屋かい?」
一体俺達はラーメン屋にしか行かないとでも思っているのだろうか、
と如月から憮然を伝染(された龍麻に代わって説明したのは醍醐だった。
「いや、昨日、京一が歌舞伎町で制服を巻き上げられてな、取り返しに行くんだ」
「もしかして、花札でか?」
「知ってるのか」
意外にも、雨紋は京一が敗れた賭博師のことを知っているようだった。
「神代高(のヤツも何人かやられててな、そのウチオレ様が出向こうと思ってたンだ。
けど、アンタ達が行ってくれンなら都合がいい。きっちりシメてきてくれよ」
そう、京一にではなく龍麻に対して言い、雨紋は手を挙げて立ち去ろうとする。
すると、こちらに近づいてくる一組の男女に彼は気付いた。
「京一先輩ッ!」
嬉しそうに京一の名を呼ぶその声の主を、雨紋は知らなかったが、龍麻達は知っていた。
呼ばれた京一が振り向くと、そこには彼の一番弟子である霧島諸羽と、
彼がボディーガード兼恋人未満を務めている舞園さやかがいた。
「おい、ありゃ舞園さやかじゃねェのか」
「ああ」
小声で訊ねる雨紋に、芸能人と知り合いだという微かな優越感を込めて頷いた龍麻は、
簡単に初対面の四人をそれぞれ紹介した。
「こっちが霧島諸羽に、舞園さやか」
「初めまして、霧島君にさやかさん。こんな所で会えるなんて光栄だよ」
人好きのする微笑を浮かべ、礼儀正しく挨拶する如月に、諸羽とさやかも頭を下げる。
如月の態度は反感を持ちようもないもので、彼らはごく自然に打ち解けたようだ。
しかし、彼らの挨拶を聞いていた京一が、驚いたように如月に訊ねた。
「光栄って……お前、さやかちゃんのこと知ってるのかよ」
「ああ、最近テレビに良く出ているだろう」
「お前ん家(、テレビあったのかよ」
「……」
如月がむっとしたのも無理はない──と、
このままでは純真な二人が如月にいらぬ先入観を抱いてしまいかねないので、
龍麻は横から注釈を加えてやることにした。
「こっちが雨紋雷人に、如月翡翠。如月は骨董品屋をやってるんだ」
それは必ずしも正しい説明とは言えなかったが、二人はなんとなく納得したようだ。
それに例え如月がテレビもないほど貧しい生活を送っていたとしても、
初対面でそんな事情を詮索するのは極めて失礼だと、
京一などより余程良識のある諸羽はわきまえているようで、
彼は節度ある沈黙を選んでくれたようだった。
ここで雨紋が、先ほどさやかを紹介するときに龍麻が見せたものと同じ、
そしてそれよりもずっと人懐っこい表情で初対面の後輩に話しかけた。
「それだけじゃねェぜ、なンとこの人はに」
如月の行動は素早かった。
電光石火の動きで雨紋と諸羽の間に割って立ち、二人の会話を遮る。
忍者というのは忍んでいるから忍者なのであって、
世の中全てが正体を知っている忍者など既に忍者ではないのだ。
しかしバンドをしていて目立つことに関しては如月の対極にいる雨紋は、
事あるたびに言いふらそうとする。
「に……なんですか?」
「い、いや、日本的な骨董品店をやっているんだ。良かったら今度遊びに来てくれよ」
それはいい訳というにはあまりに苦しく、小蒔などは吹き出しそうになって葵の影に隠れてしまった。
しかし純真な諸羽は、不自然な台詞にも疑うことなく感激すらしたようだった。
「はいッ、同じ高校生なのにお店を経営しているなんて凄いです、ぜひ今度おじゃまさせてもらいますッ」
はきはきと答える諸羽を見ていると、寒さを忘れてしまいそうで、自然と顔が綻ぶ龍麻達だった。
一通り挨拶を済ませたところで、改めて京一が後輩に話しかける。
「元気そうだな、諸羽。それにさやかちゃんも」
「京一先輩も、皆さんもお変わりなく」
やはり礼儀正しい諸羽は無難にそう答えたが、
今の京一を見てお変わりなく、などと言うほうがおかしい。
奇異な視線を隠しきれていない諸羽に、小蒔が遠慮する必要はない、と笑い飛ばした。
「京一だけは変わってるけどね」
「京一先輩……どうしたんですか? そんな格好で。寒くないんですか」
「い、いや、こりゃその……修行、そうだ修行でよ。心頭滅却すればなんとやらって言うじゃねェか」
一途な後輩に格好悪いところを見せたくないのか、京一は必死にごまかそうとするが、
ごまかしようのないものが口から飛び出してしまった。
「へッくしッ!!」
「京一先輩、僕のブレザー着てください。今脱ぎますから」
諸羽は冗談なのか本気なのか、本当にブレザーを脱ぎ始める。
世間広しといえども、馬鹿にここまで親切にしてやる人間もそうはいないだろう。
それがかえって京一には堪えたらしく、真神から新宿駅(まで、
真冬に半袖という珍奇なものを見る何本もの視線にも平然としていた男は、
初めて心底情けなさそうな顔をした。
「いいんだって霧島クン。京一は好きでやってるんだから。ね、京一」
「……」
「そうだ霧島、京一(がこんな格好をしているのは全て自業自得なんだ。
お前が気に病むことはないんだぞ」
小蒔と醍醐がいたわるように諸羽に言い、素直な諸羽は聞きいれつつ心配そうに京一を見る。
雨紋などは早くも二人の関係を見抜いたのかにやついた顔をしており、
京一は態度の悪い後輩をひと睨みして話題を変えた。
「それより今日はどうしたんだよ。買い物か何かか」
「いえ、これから収録なんです。東口のスタジオで番組の公開録画があって」
「何ぃッ! おい龍麻、ちょっと覗いていこうぜ」
「その格好がテレビに映ってもいいならな」
「ぐッ……」
痛い所を抉られ、苦悶する京一に、
新たに知り合いになった四人を含めた龍麻達はひとしきり笑ったのだった。
笑いを収めた諸羽が、腕時計を見る。
「あ、さやかちゃん、そろそろ行かないと」
「ホントだわ、それじゃ皆さん、私達は失礼させてもらいますね」
さやかはプロの芸能人であり、時間に遅れることは許されない。
それでも別れ難そうな彼女に、龍麻はまた近いうちラーメンでも食べよう、と言って二人を送り出した。
去りかけた諸羽が足を止め、ためらいがちに振りかえる。
「あ、あの、緋勇先輩」
「ん?」
「京一先輩のこと、よろしくお願いしますッ!!」
全く諸羽は、京一などには過ぎた後輩だった。
力強く頷く龍麻に安心したのか、諸羽は駆け足で先に行ったさやかを追う。
中学高校と部活に入っておらず、先輩後輩という関係を未経験な龍麻は、
やや大げさとも言える感慨を抱いて諸羽を見送った。
その背後から、彼が後顧を託された男がぼやくのが聞こえてくる。
「くそッ、さやかちゃんの生ステージ……」
次に諸羽に会った時は、真剣に京一についていくのは考え直させようと誓った龍麻だった。
「京一って本当に馬鹿だったんだな。同情するぜ、緋勇サン」
「それじゃ、また」
雨紋と如月も去っていく。
彼らとも別れた龍麻達は、いよいよ京一の財布を取り戻すため、
薄暗くなり始めた歌舞伎町へと乗りこむことにしたのだった。
夜になると活気が灯る街、歌舞伎町。
雑多な種類の欲望がそこかしこで羽根を広げて人々を誘惑する、
全国でも屈指の歓楽街は、龍麻達にはまだ少々早い世界だった。
居心地悪そうに葵と身を寄り添わせて歩く小蒔が、嫌悪を滲ませて呟く。
「歌舞伎町ってあんまり夜通ったことないけど、随分イカガワシイ雰囲気だね」
「あぁ、高校生が、それも制服で彷徨(くような場所ではないな。なあ、京一」
醍醐の説教は正論だが、今更そんなことを言われて反省する京一ではない。
常識人ぶったことを言う友人に、鼻を鳴らしてみせた京一は、
それでも女性二人に対してはそれなりの気遣いを見せた。
「いいんだよ、男(は。美里と小蒔はあんま離れるんじゃねェぞ。
タチの悪いのがごろごろしてるからな、この辺は」
「そりゃ考え過ぎじゃない?」
話しながら角を曲がり、路地裏に入る。
いきなり喧騒が遠ざかったために、小蒔の声はひどく大きく聞こえた。
自分の声の大きさに驚いて小蒔が口を抑えると、闇の中から静かな反応が返ってくる。
「そうでもないさ。僕や、僕に狙われるような輩が闇にいくらでも潜んでいる街だよ、歌舞伎町(は」
とっさに身構える龍麻達だったが、声の主は知った顔だった。
「壬生……」
ポケットに片手を入れたまま、滑るように現れたのは壬生紅葉(だった。
この男と、この男が属する拳武館高校と、龍麻達は以前闘ったことがある。
それは後に拳武館の内部分裂によってもたらされた、
いわばとばっちりのようなものだと判明はし、
自身も騙されていた壬生は身体を張って龍麻を救ってくれたのだが、
暗殺を生業とする彼に友好を感じることは出来ず、
また壬生の方も馴れ合いを好まない性格らしく、関係は疎遠とならざるを得なかった。
お互いにやましいところはないものの、彼が歌舞伎町(にいる理由を思い浮かべると、
龍麻はどうしても雨紋や諸羽に対するような笑顔は作れない。
それは仲間達も同様らしく、壬生を見る目には薄いためらいがある。
止める立場になどないと判っていても、人殺しを堂々と謳(われては良い気分にはなれないのだ。
「仕事……か?」
控えめに訊ねる、そんな龍麻達の態度を察したのか、壬生は口の端に苦笑めいたものをひらめかせた。
「そう顔をしかめないでくれ。今日は何も殺しに来た訳じゃない。
暗殺にも方法はいくつかあってね、人の生命を奪うだけが方法じゃないのさ」
どういうことか龍麻が問うと、壬生は背後にある華やかな扉の一つを視線で示した。
「例えばそこの高級クラブで国民の税金を湯水のように使い、
私腹を肥やし、女を囲う薄汚い政治家がいるとする。彼は僕達(の手にかかれば、
二度と政界には戻れないだろう。それどころか、その後の生活すら保証されない」
つまり暗殺には生命を奪う文字通りの殺人と、社会的な立場を抹殺するものとの二種類があり、
今夜行うのは後者の方だ──そう説明した壬生は、
今日は殺人ではないと聞いて安堵を浮かべる龍麻達に、口調を変えて付け加えた。
「この前の一件で副館長派は手足をもがれたも同然。
結果的には君達のおかげで膿(を取り除けたようなものさ」
龍麻達は振りかかる火の粉を払っただけであり、拳武館の内紛を解決しようとした訳ではない。
だから礼を言われても、あいまいに頷くしかなかった。
壬生も儀礼的に言っただけのようで、それ以上は何も言わない。
歌舞伎町という街には似つかわしくない、ぎこちない沈黙が束の間流れたが、
それを振り払うように壬生は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「それじゃ、僕はもう行くよ。標的が出てくるのを待つには、ここは目立ちすぎる」
「ああ……邪魔して悪かったな」
「いや、声をかけたのは僕の方だ。仕事の前だというのにどうも緊張感が足りないな──それじゃ」
彼が去って嬉しいとまでは思わなかったが、龍麻が安堵したのは事実だった。
どうも壬生と相対していると、いつ斬りかかられるか判らないような緊張感を抱いてしまう。
それは自分だけの感覚ではないらしく、壬生の後ろ姿が完全に見えなくなったところで、
小蒔が大きく息を吐き出し、苦笑いした。
「なんか緊張しちゃうね、壬生クンと話してると」
醍醐が頷き、葵も否定してはいないところを見ると同じ感想らしい。
「でもよ、黙って隠れてりゃ俺達ゃ気づかなかったのによ、
わざわざ向こうから話しかけてくるってこたぁ、案外俺達のこと気に入ったのかもよ」
言われてみればそうかも知れないが、不思議なのは壬生を庇うような京一の台詞だった。
「ん? あぁ、一応壬生(には藤咲を助けてもらってるからな」
なるほど、と龍麻は納得したが、納得だけでは終わらない人物が一人いた。
「そういやあれからさ、藤咲サンと会ったりしたの?」
京一の前に回りこんだ小蒔は、好奇心も露にそう訊ねた。
「あ? 会ってねェよ」
「そうなんだ。ボクはまたてっきり仲良くなってるもんだと思ってたけど」
短く答える京一に、小蒔はいかにも彼女らしく、直球で再び訊いた。
「何言ってやがる。お前の想像するようなこたァねェんだよ」
「あれ? ボクが何考えてるかわかるの?」
鮮やかに切り返され、京一は言葉を詰まらせている。
にわかに面白くなってきた展開に、残りの三人も聞き耳を立てていたが、
京一はそれ以上話を発展させるつもりはないらしく、猫でも追い払うように手を振った。
「いいんだよンな話は。ほれ行くぞ、龍麻」
そう言ってさっさと歩いていく京一に、龍麻達はついていかず顔を寄せた。
「なんッか怪しいよね」
「そうね」
「どうかなぁ、俺はその線はないと思うんだけど」
「うむ……」
夜の街にも鮮やかに浮かび上がっている白いシャツにちらちらと視線を投げながら、
四人はこの世で最も盛り上がる話に花を咲かせる。
仲間の恋愛話は花札などよりよほど楽しく、
場所さえあれば一時間でも話していられそうだったが、
あいにく十二月の屋外、それも歌舞伎町界隈ではそういうわけにはいかなかった。
「何してやがる、とっとと行くぞッ!」
十メートルほど離れたところから呼ぶ京一に、龍麻達は小さく笑いあって彼の後を追った。
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