<<話選択へ
<<陰陽師 3へ 陰陽師 5へ>>


 京一の案内によって、龍麻達は歌舞伎町の中を進んでいた。
けたたましいほどのネオンが並ぶ表通りから一本入ると、
途端に灯りは薄れ、代わりにいかがわしさが満ちている空間が姿を現す。
華やかな空虚さとは異なる、数多の欲望が息を潜めてとぐろを巻いているような雰囲気に、
葵と小蒔は無口になり、心持ち間隔を詰めていた。
どう見てもこんな場所にはふさわしくない彼女達を隠すように、龍麻と醍醐は壁を作る。
見るからに怪しい店の何軒かの前に立つ男、あるいは女達は、
龍麻達が女性連れであっても、また学生服を着ていても構わず声をかけようとしてきたが、
醍醐の巨躯と、鋭い龍麻の眼光に口を開けたまま凍りついていた。
もちろん彼らになど構わず、龍麻達は早足で通り過ぎる。
いるだけで精神を消耗してしまいそうな魔窟に、龍麻がまだなのかと声をあげようとすると、
京一が立ち止まって前方を木刀で指し示した。
「……ッと、居やがった。逃げもしねェで堂々とやってやがる、いい度胸じゃねェか──おいッ!」
 早くも声を荒げて京一が詰め寄ると、仲間同士で勝負していた男達は顔を上げた。
そのうちの一人、周りの連中とは同じ制服を着ていながらも、
全く気配が異なる男が、居並ぶ龍麻達を見て唇を曲げる。
「やれやれ、今日はまた随分と大人数おおぜいでのお越しじゃねェか。
花札バクチで負けたら次は腕ずくって魂胆かい? 俺はどっちでも構わねェがな」
「冗談じゃねェ、花札で負けたケリは花札でつけてやるぜ、このイカサマ野郎ッ!!」
 京一の剣幕は大変なもので、傍観している龍麻はこれでは勝てないだろう、
と勝負事の基本を解っていない友人を嘆いた。
対照的に京一と勝負したと思われる男は、憎いほどの冷静さを保っている。
「おいおい、てめェの運のなさを棚に上げてイカサマ呼ばわりか?
この千代田ちよだ皇神すめがみ村雨むらさめ 祇孔しこう
生まれてこの方勝負で手加減とサマだけはしたことねェのが誇りよ」
 村雨と名乗った男は、眼光に凄みを効かせて言った。
確かに村雨は賭博師ギャンブラーとしての矜持を持っているようで、
賭博という行為自体はともかく、イカサマやごまかしの類はしない男のようだった。
「随分大きく出たな、村雨とやら。お前が京一相手にイカサマをしたかどうかは判らん──が、
今日は無理だと思ってもらおうか」
「ヘッ、望むところよ。だが今日は少しヤバい匂いがしやがるんだ」
「ヤバい匂い? なんだ、もう臆病風か?」
「そうじゃねェ、警察サツの手入れがありそうな予感がしやがる」
 挑発する京一にも、全く乗ってこない。
龍麻は本物の博打ばくちを見たことはないが、村雨と名乗った男は根っからの賭博師であるようだった。
引き際と、お上に対する嗅覚が鋭いのは、裏の世界に生きる者として必須の条件だろう。
「だから一発勝負と洒落こまねェか。
俺が負ければそいつの身ぐるみ一式と昨日の賭け金、倍にして返してやる。だがアンタが負けたら」
「俺が負けたら?」
 半袖姿の京一を、観察するような視線で一撫でした村雨は、その視線を京一の後方に移した。
そこには、事の成り行きを面白そうに見ていた小蒔と、軽く眉をひそめ続けている葵がいた。
「そうだな、そこの姉さん二人……こっちにもらおうか」
 偉そうに京一を批判したばかりの、龍麻が冷静さを失う。
龍麻だけでない、醍醐も、そして突然当事者にされた葵と小蒔も動揺し、
あるいは怒り、一瞬にして同じ舞台に引き摺り出されてしまった。
「……!! てめェ……」
 葵と小蒔を危機に晒すことは、友人達の赫怒かくどを招く、
極めて危険な行為であると知っている京一は、
特に早くも怒気を噴きあがらせている龍麻を牽制するように前に立つ。
喧嘩になって負けるなどとは思わないが、この街で警察沙汰になるのはさすがにまずい。
だが目の前の、村雨と名乗った男は、更に京一達を挑発してきた。
「それくらいのスリルがねェと燃えねェだろ? 蓬莱寺京一よぉ」
「てめェ……どうして俺の名を」
「てめェだけじゃねェ、緋勇龍麻、醍醐雄矢、美里葵、桜井小蒔。どうだ、間違ってねェだろ」
 警戒心が上回り、龍麻達は村雨への怒りをひとまず押し殺した。
だがそれは消え去ったわけではもちろんなく、激発の時を待って牙を研ぐ。
龍麻と京一と醍醐、この三人が揃えば、鬼の胴体ですら貫き通す牙を生み出すだろうが、
村雨は体重を移し、いつでも殴りかかれる体勢を整える龍麻にも萎縮したりはしなかった。
 二人に較べ、ゆっくりと氣を練り始めた醍醐が指を鳴らす。
彼が一番練氣が遅いのは、ぎりぎりまで二人を制止しなければという意識と、
巨躯に宿る、龍麻を上回る膨大な氣は纏めあげるのに時間を要するからだが、
一度氣を解き放った時の醍醐は龍麻や京一を上回る危険な存在と化す。
 じりじりと内圧を高めていく白虎の氣を、今はまだ抑えつつ醍醐は訊ねた。
「貴様……やはり事件に関係する者か」
「事件……? なんだそりゃ」
「ふざけるな、転校生が行方不明になっている事件のことだッ!」
 とぼけようとする村雨に、早くも臨界点に達しかけている京一が荒々しく叫んだ。
「ああ、あれか」
 しかし村雨は、新宿界隈の不良なら震えあがるような京一の剣幕も、
まさにのらりくらりといった感じでかわす。
「ま、あると言えばあり、なしと言えばなし。だがよ緋勇、アンタに用があるのは事実だ」
「やっぱり最初からひーちゃんを狙ってたんじゃないかッ!」
 小蒔が叫ぶと、呼応するように男達に剣呑な雰囲気が宿る。
いくら裏路地とはいえ、歌舞伎町で喧嘩などしては逃げるのも大変であるし、
何より葵と小蒔をこんなことに巻き込むわけにはいかない。
小蒔を抑えた龍麻は、木箱をひっくり返しただけの簡素な椅子に座った。
「俺に用があるって言ったな」
「ああ。あんたが緋勇龍麻ならな」
 どこまでも人を食った反応しか返さない村雨であるが、京一とのやり取りを見ていて
これも駆け引きなのだと心得ている龍麻は激発したりはしなかった。
龍麻が我を忘れるのは、仲間が危険に晒された時だ。
だからぬけぬけと葵と小蒔を賭けようとした目の前の男に、龍麻は好意など到底持てなかったが、
無言でポケットから財布を取り出して放った。
「美里さんと桜井さんを賭けの対象になんて出来ない。
代わりに俺の全財産を賭ける。それじゃ駄目か」
 全財産、といっても誇れるほど入ってはいない。
これはあくまでも、己の大切なものを賭けるという意思表示なのだ。
それは村雨にも解っているらしく、賭博師は満足げに頷いた。
「もちろん構わねェさ。──よし、始めるか」
 学帽を目深に被りなおした村雨は、指に遊ばせていた花札を鮮やかな手つきで切り、二人の間に置いた。
「親を決めるか……一枚引きな」
 龍麻は山札から一枚めくった。
描かれているのは桜……三月だ。
こいこいでは早い月を引いた方が親となれる決まりだから、ほぼ龍麻の親は決まりで、
後ろで見ている京一が既に勝利を得たように喜んだ。
しかし、その笑顔も、村雨が札をめくったことでたちまち凍りつく。
口角を吊り上げてめくった札に描かれていたのは松……一月だったのだ。
 花札は先攻となる親が有利なゲームだ。
今回のような一回勝負の場合、その有利さは計り知れない。
逆に言えば、龍麻は相当な不利を背負わされたことになる。
それは村雨が一枚目を切り出した時に、早くも証明された。
 村雨はごく自然な動作で手札を切り出した。
何気ないその動きだけで、彼がこのギャンブルを数え切れないほど経験しているのが判る。
武道と違い、ギャンブルに型があるわけではないが、それくらい村雨の動作は馴染んでいた。
 村雨が切り出した札は、桐だった。
そしてめくった札は坊主。
「お、おいッ!」
 京一は思わず叫んでいた。
わずか一巡目で、もう三光という役のひとつ手前まで揃ってしまったのだ。
ゲームなのだからこういうこともあるのだろうが、
京一は前日嫌と言うほどこの役を見せられており、悪夢の再来を思わずにはいられなかったのだ。
龍麻も声にこそ出さないものの、眉をひそめる。
村雨の動きは逐一見ていたが、イカサマはしておらず、純粋に運が良かっただけのようだ。
しかし運だろうと、あるいは龍麻にも見破れなかったほどのイカサマだろうと、
始めて数秒で窮地に追い込まれたことに変わりはない。
にやりと笑う村雨に向かって、龍麻は一枚目を切り出した。
札は牡丹だ。
「ヘッ、青短狙いか」
 村雨の読みは当たっていたが、龍麻はいちいち答えず、無言で山札をめくった。
山札には短冊が描かれているものの、場札に同じ絵柄のものはなく、このまま場に出すしかない。
これで次の村雨の番に、彼が短冊を取ってしまったらほとんど敗北が決定してしまっていたが、
村雨もその札は持っていないようだった。
そして彼自身の狙う三光の残り一枚も、手札にはないらしく関係ない札を切る。
村雨がめくった山札には、三枚目の青い短冊が描かれていた。
そしてそれを村雨は手札に加えることができない。
「ちッ」
 村雨の舌打ちが響く。
二順目、勢いに任せて札を切ろうとした龍麻は、何か予感めいたものを感じて一呼吸置いた。
花札は手札を切り、山札をめくるだけのゲームであるから、間を置いたところで何が変わるわけでもない。
しかし龍麻は、次の一巡で決着がつくだろうということを直感したのだ。
ここで決められなければ、負ける。
緊張を押し殺し、龍麻は手札を切った。
取るのは青い短冊の一方だ。
山札をめくり、その札で場に出ている三枚目の青短を取らなければならない。
確率は相当低く、むしろ引けない確率の方が圧倒的に高いのだ。
それでも村雨は、次の番になったら三光を完成させる──
龍麻は自身に賭博の才能があるなどと思っていなかったが、何故かこの時はそう確信していた。
 命運を決める山札を取ろうとして、掌が汗ばんでいることに気づき、
龍麻は一度手を戻し、ズボンで拭く。
再び手を伸ばし、決着をつける札をめくる寸前、
今度はちらりと場に置いた自分の財布に目を走らせると、初めて村雨が笑った。
「運否天賦、度胸を決めな」
 もう勝負の行く末を知っているかのような言い種に、
やはりイカサマをしているのではないかと疑った京一が声を上げかける。
しかし、その瞬間龍麻は運命を決する一枚を手に取っていた。
先に自分で確かめることもせず、いきなり場の中央に置く。
「……」
 全員が息を呑んで札を確かめる。
札の表に描かれていたのは、牡丹だった。
「よッしゃッ!!」
 京一が勝鬨かちどきをあげ、醍醐が安堵の息を吐く。
ルールを知らない葵と小蒔も彼らの態度で龍麻が勝ったらしいと知り、喜びの色を見せた。
喜ぶ京一達と、落胆する村雨の仲間達にあって、
当事者の二人だけが石になったように動かなかったが、
やがて村雨が手札を放り出して勝者をたたえた。
「やるじゃねェか」
 その一言によって緊張という呪縛から解かれた龍麻は、不意に寒気を感じた。
勝負の最中は気がつかないでいたが、シャツが汗でびっしょりと濡れていた。
成り行きとはいえ全財産を賭けてしまって、今更ながらすくんでしまったのだ。
額にも滲んでいる汗を腕で拭うと、後ろに気配を感じる。
見れば葵が、自分のハンカチを差し出してくれていた。
「……ありがとう」
 少し迷った後に、龍麻はありがたくハンカチを借りた。
後ろで友人達がどんな表情をしているかと思うと別の嫌な汗が出そうだったが、
葵の前で変な顔も出来ず、努めて無表情で汗を拭く。
 と、村雨がくたびれた帽子をかぶりなおして立ちあがった
「なるほどな。あいつの絵を疑ったわけじゃねェが、まさかこれほどとはな」
 たかが花札の一勝負にしては、随分と大げさで、意味深な台詞だった。
「あいつの絵」とは──
龍麻が訊ねようとすると、京一が先に進み出る。
「何ブツブツ言ってやがる。龍麻に近づこうとした理由を吐いてもらうぜッ……と、
その前に俺の制服を返しやがれ」
「ああ、ほらよ。中身にゃ手を付けてねェぜ」
 村雨は手下に言って京一の制服と財布を返させた。
とりあえず上着だけを羽織り、寒さをしのいだ京一は木刀を収めた袋で地面を叩いた。
「倍返しはどうなったんだよ」
「ああ? ありゃお前が勝負したらの話だろうが」
 ちゃっかりしすぎている京一の要求にも、村雨は平然と答え、京一を鼻白ませた。
その後ろで、小蒔が葵に耳打ちする。
「ねぇ……あんまり陰陽師って感じじゃないね、この人」
「陰陽師……それを知ってんなら話が早ェ」
 それに耳ざとく反応した村雨は、仲間に賭場を片付けるように命じ、自分も帰り支度を始めた。
「だがさっきも言ったようにここはサツの匂いがプンプンしやがる。
そこでだ、明日の一時、日比谷公園まで来てくれねェか」
「なんだそりゃ……用があんのはてめェの方だろうが」
 負けたら話す、という約束だったのだから、京一が怒るのも無理はない。
しかし警察が近くにいる、という村雨の言にも一理ある。
ここは日本でも有数の犯罪の密集地域、歌舞伎町なのだ。
何もなくても警官は巡回しているだろうし、そういうことに対する賭博師ギャンブラーの嗅覚は侮れない。
「違ェねェが、俺ももともと使いでな、ただあんたに危険が迫っていることを伝えに来ただけで、
詳しいことはまだ・・聞いちゃいねェのさ。
逃げバックれる気はさらさらねェ、あんたらの器量次第だ。お前の器量はどうだ、緋勇」
「危険……それじゃやっぱり」
 顔色を変える葵にも、村雨は薄い、挑発的な笑みを浮かべるだけで答えない。
どうやら村雨は本当に何も知らないようで、迫っている危機とやらを知りたければ、
彼の指示に従い、彼に使いを頼んだという人物に会わなければならないようだった。
しばらく考えた龍麻だったが、ここで行かないと言えば、村雨よりも仲間達の方が納得しないだろう。
龍麻は自分よりもむしろ彼らの為に、村雨の提案を受けることにした。
「俺一人で行けばいいのか」
「いや、出来ればアンタらまとめての方がいいな。罠を疑ってんのか?」
「そうじゃない」
 そう答えつつも、理由を言うのにはためらいがある龍麻だった。
しかし、理由の方が決然と言ってのける。
「龍麻君に危険が迫っているのなら、私は行くわ」
「美里さん」
「まさかボクと葵を置いてく気だ、なんて言うんじゃないよね、ひーちゃん」
 言うつもりだった龍麻は、ばつが悪そうに鼻を掻くしかない。
すると村雨が、豪快に笑った。
「なんだ、尻に敷かれてんのか? まぁいいさ、こっちは全員来てくれりゃそれでいい。
幸いもまだあんたが新宿ここにいることには気付いてねェ。
まぁ大丈夫だろうが、一応一人ではあまり出歩くなよ」
 そう言い残して村雨は去っていった。
後に残された龍麻達は、戸惑ったようにお互いの顔を見る。
 京一の制服は取り返し、何も失ってはいない。
しかし、全てが二日前と同じに戻ったというわけではなかった。
「どうすんだよ、龍麻。奴の話を信じるのか」
 財布の中身を念入りに確かめた京一が訊ねた。
村雨の言った通り中身は減っていなかったようで、安堵が言葉の端に滲んでいる。
京一の口調は、行かないと答えればそれで終わってしまうような軽いもので、
つい龍麻は返答に迷ってしまった。
そんな龍麻に決断を促したのは、葵の顔に浮かんだ不安げな表情だった。
恐らく自分よりも自分の身を案じている彼女の、気持ちを無下にすることは出来なかった。
「いや、行くさ。勘だけど、村雨あいつは敵じゃなさそうだ」
「そうか? ま、勘って言われちゃ俺にはどうしようもねェな」
「そうそう、京一の勘よりひーちゃんの勘の方がずっと当てになるもんね」
 すかさず当てこする小蒔を、京一が睨みつける。
「うるせェな……へっくしッ!! おーさぶ、すっかり冷えちまった、ラーメン食って帰ろうぜ」
 明日のことを少し深刻に考えていた龍麻も、その一言で考えるのは止めることにして、
花札勝負で減ってしまった腹を癒すために歩き出した。
財布を取り返した礼としてラーメンを奢るよう、京一に言うだけは言ってみようと思いながら。

 翌日、龍麻達は村雨に言われた通り、日比谷公園に来ていた。
歌舞伎町よりはましだが、重大な話をするような場所とも思えず、
恐らくここからまたどこかへ連れていかれるのだろう。
しかし待ち合わせの相手はまだ現れておらず、
年末も近いというのにうららかな陽射しを浴びていると、
緊張して乗りこんだ龍麻達も気が抜けてしまうというものだった。
「ちっと早すぎたか」
「うん……村雨クンは来てないね」
 周りを見渡してそれらしい人影が全くないことを確かめる京一に、小蒔が答える。
村雨が着ていた皇神学院高校の制服は派手な白で、あれなら遠目からでもすぐにわかるだろう。
 口調からも全く警戒していないのが明らかな二人に代わって、
龍麻は昨日中断した、村雨がここに呼びつけた理由を少し考えていた。
罠ではないだろう──が、昨日の態度からすると完全に友好的というわけでもなさそうだ。
何しろ花札に勝って初めて自分が龍麻に用があると明かしたくらいなのだ。
龍麻が勝負に負けたとしても、言伝ことづてはしただろうが、
その場合京一と龍麻の財布を返したかどうかは怪しい。
おまけに、冗談だとしても葵と小蒔を賭けの景品にしようとした男なのだ。
色々な意味でまだ警戒すべき人物だった。
 同じ思考経路を通っていたのか、醍醐が思い出したように口を開く。
「その村雨なんだがな、昨日奴は千代田皇神の、と名乗っていたのを覚えているか」
「ああ……そういえば」
 それは確かに聞いた覚えがある。
しかし、東京へは春に転校してきた龍麻は、都内の高校の名前などほとんど知らず、
村雨の通っている高校も当然初めて耳にしたのだった。
だから、それがどうかしたのか、と龍麻が目で問うと、
件の事情を思い出した醍醐は丁寧に説明してくれた。
「私立皇神高校と言えば、都内でも屈指の難関校だ。真神うちよりも偏差値は高いだろうし、
それに土地柄、かつての皇族や爵位のあった家系の子弟が多く通う名門だ」
「ええ……幼稚舍から高校まで一貫している学校だったはずよ」
 醍醐と葵の話を聞いて、京一が鼻で笑った。
村雨ヤツが貴族? そりゃいくら何でもねェだろ。な、龍麻」
 京一の言い分はあまりにも見た目だけで判断しているものだったが、
一方では納得してしまうだけの説得力をも持っていて、龍麻は失笑しつつ、つい頷いた。
すると背後から、落ち着き払った皮肉が浴びせられる。
「悪いがあんたほど馬鹿面はしてねェつもりだがな」
 そこにはいつのまに来たのか、村雨が一人で立っていた。
「すごい……時間ぴったりだよ」
 感心する小蒔をよそに、悪口を当人に聞かれた後ろめたさも手伝って京一は早速突っかかる。
「てめェ、本当に皇神なんだろうな」
 ろくな挨拶も交わさないうちに険悪なムードになりかけて、
さすがに龍麻は京一を止めようとしたが、村雨の方が大人なのか、
失礼な言い種にも怒ったりはしなかった。
「似合わねェって言いてェのか? 確かに俺は貴族出じゃねェがな。
ある人の後ろ盾をもらって高校から編入したのさ」
「ある人?」
「ああ。と言っても試験はもちろん受けてるがな。ヘッ、奴がいなきゃ、あんなつまらねェ学校トコ
とうに自主退学やめてるぜ」
「高校からって……ますます頭イイってことじゃない」
 目を丸くする小蒔に、村雨はかぶりを振った。
 その拍子に、昨日は気付かなかった、彼の顎に刻まれた小さな傷跡が龍麻の目に入る。
恐らく喧嘩傷だろうが、村雨にはひどく似つかわしいものだ。
荒事を好む賭博師──それは確かに、進学校や貴族の子弟からは縁遠く、
彼が皇神に呼ばれたというのは、よほどの事情があるのだと思われた。
 龍麻が改めて村雨に興味を抱いた間にも、話は続いている。
「そうじゃねェ。俺が皇神に入れたのは蓬莱寺が負けたのと同じ理由さ」
「……?」
がいいんだよ、俺は」
 一笑に付してもおかしくない、それはたわ言のはずだった。
しかし村雨は冗談を言っているようには見えず、龍麻達も一昨日、
昨日とその強運を実体験しているので笑うことは出来なかった。
 問いかけるように自分に向けられた眼光に、龍麻はわずかに考えてから口を開いた。
「それは、生まれつきのものなのか?」
「さすがに目の付け所が違うな、あんたは」
 当てこするように言った村雨は、さっそく気色ばむ京一を無視して口調を改めた。
「俺の強運の半分は生まれつきだ、皇神に入ったのもそれさ。
だが今年に入ってから、ツキ方が半端じゃなくなった。……わかるか、意味が」
 龍麻達はもちろん知っていた。
この春から自分達を取り巻く環境を一変させた、説明のつかない、
しかし確かに存在するもの・・のことを。



<<話選択へ
<<陰陽師 3へ 陰陽師 5へ>>