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 四つの丘の模型は、手を伸ばせば届く位置にある。
洗濯をするのに触る必要はなかったが、この誘惑をはねのけるのは、
財布に紙幣が入っているのに王華に寄らない以上に難しい。
龍麻がこの禁断の、しかし気づかれる可能性はまずない行為を思いとどまれたのは、
触ったら歯止めが効かなくなるだろうという未来予想のためだった。
龍麻は自分が健全な男子ではあっても変態ではないと信じていて、それはだいたい正しい。
だがこの数分は神も見落とす逢魔が時であり、理性を保たなければどのような変生が訪れるかもわからない。
一度奈落に落ちたならば這いあがるのは無理なのだから、と龍麻は己を説き伏せ、
ついに一切洗濯機の中に手を突っこむことなく準備を終えたのだった。
 洗濯開始ボタンが最終戦争を引き起こすボタンのごとき力強さで押されたのは、単に押す側の事情で、
もちろん、洗濯機が発奮していつもより百倍丁寧に洗うということはない。
むしろ持ち主の興奮をたしなめるように、淡々と与えられた仕事を始めた。
うなり音が龍麻には嬉々としているように聞こえたのはまだしも、
中で回転して二人とくんずほぐれつになっている自分の下着と意識を交換したいなどと思ったのは、
頭がおかしなことになっていると言われても仕方のないところだ。
煩悩を断ち切るためにも、龍麻は力強い足取りで浴室へと入っていった。
一日中座禅でも組んで瞑想に耽っていたいところをねじ伏せて、
それでも普段よりかなり時間をかけてシャワーを浴びた。
「ひーちゃんって結構お風呂長いんだね」
 小蒔の一言に悪意などあるはずがないのはわかっていても、
洗面所から出てきた龍麻は冷たいナイフで心臓を刺された気分に、寸時とはいえ陥った。
「そ、そうかな、普通だと思うけど」
 二人が座っているところに自分も腰を下ろす。
時計を見ると確かにいつもの三倍以上の時間が過ぎていて、
それがすなわち煩悩を醒ますのに必要な時間というわけだった。
「飲み物取ってくるよ」
 時間についてこれ以上話題が続くのを避けようと、龍麻は台所に立つ。
ジュースの買い置きはなかったので、麦茶しか冷たい飲み物はなく、
それを三人分用意して居間に戻った。
その際に、あらためて龍麻は二人に素早く視線を走らせる。
 二人は服が乾くまでの間、龍麻のTシャツを借りていた。
短パンも貸したので大変なことにはなっていないが、
Tシャツのサイズが大きいので、なんとなくTシャツだけを着ているように見える。
葵と小蒔が自分のTシャツを素肌にまとっているだけでも龍麻には変程度危険なのに、
二人の健康的な太股が、相当の部分露わになっていて、
両方の合わせ技で大変危険なことになっていて、それが龍麻を死の三歩くらい手前まで招き寄せていた。
 自分の家の中で目のやり場を失い、龍麻は途方に暮れる。
龍麻の正面には葵、右手には小蒔が座っていて、残る逃げ場は左しかない。
しかし、そちらを向けば二人に対してそっぽを向くことになり、
どちらを選んでも地獄で、ならばよりましな地獄に堕ちよう、と龍麻は覚悟を決めた。
「男のコの部屋って初めて入ったけど、案外キレイなんだね」
「本当ね。緋勇君は綺麗好きだとは思っていたけれど」
 褒めそやす二人に愛想笑いで応じながら、龍麻の眼球は居場所を得られない。
風呂上がりでほんのりと苺クリームの色をした頬もさることながら、
二人の胸の辺りに、なにやらよからぬ想像がたくましくなってしまう皺の寄り方をしている部分があって、
とてもではないが視線を固定できないのだ。
 目まぐるしく動く眼球に同調するように、頭の中では高速で分析が始まっている。
さっき洗濯機の中にあったブラジャーがワープでもしなければ、
二人は直接Tシャツを着ているはずだ。
ということはあの皺の向こうには想像通りのものがあるはずで、
それはクラスで休み時間に男同士でする下卑た会話の中だけに存在する幻だった。
 出された結論に慄きながら、龍麻は空間を切り裂くように視線を疾らせる。
四つの皺を一気に、次の瞬間に死んでも悔いを残さぬよう真摯に。
「はー、でもいいねひーちゃん、一人暮らしなんて」
 あぐらを掻いて後ろに手をつく小蒔は、見られたことに、
というよりもそれ自体に気づいていないようで、
軽く胸を反らせた、龍麻の努力も水泡に帰すような無防備な姿勢だ。
「そんなことないよ、飯とか洗濯は自分でしなきゃならないし」
 罠かと疑いつつ顔を見ながら話しても、小蒔は深く頷いて、まるで動じるところはない。
「あー、そっか。んじゃ葵、ひーちゃんにご飯作ってあげたら?」
 しかも季節外れのサンタクロースかというくらいに嬉しい提案をしてくれて、
つい龍麻は唾を飲みこんでしまった。
「えッ!? わ、私は、あの……緋勇君が、よければ……」
 そして葵までもが信じられない返事をしてくれる。
これが気色の悪い魚人どもを倒した褒美だというのなら、世界の果てまで奴らを狩りに行っても構わない。
「お、俺は、その……お願いします」
「決まったね、その時はボクも呼んでよね」
 ちゃっかりおこぼれに預る小蒔に、心からの笑顔で応える龍麻だった。
 具体的にいつ、とは決めなかったものの、葵が約束を違えるはずがない。
その日は朝から腹を減らしておこう、いや念を入れて前日から断食するべきかも、
と遙かな未来に思いを馳せる龍麻の耳に、洗濯終了を告げるブザーの音が聞こえる。
「洗濯終わったみたいだよ、ひーちゃん」
 小蒔に言われずとも、龍麻には当然わかっていた。
なんといっても龍麻は、週に二回くらいしか動かさないとしても、この洗濯機の持ち主なのだ。
すぐに動かなかったのは、洗濯が終わったという意味のその先・・・を、二人に知って欲しかったからだ。
「乾燥機って私、使ったことがないのだけれど、自動で始まるものなのかしら」
 さすが葵は一回で答えにかなり近づいた。
ただ、惜しむらくはどう見ても機械は別々になっているのだから、
自動で洗濯物が移動するわけはないと気づいて欲しかった。
 そう、洗った衣服を乾かすには、洗濯機から乾燥機に移さないとならない。
それは人力で行うしかないのであり、つまり、下着の身命を預るということなのだ。
葵にせよ小蒔にせよ、そこのところがちゃんと判っているのか確認するまでは、うかつには動けなかった。
せっかく葵の手料理という望外の幸運を手に入れたのに、いきなり台無しにしてしまうわけにはいかない。
「……」
 だが、二人ともそれ以上は何も言わず、怪訝そうに見るばかりで、
訊くべきか訊かざるべきか、龍麻は葛藤した。
こんなに葛藤するのは『力』に目ざめたとき以来で、しかも度合いは現在の方がはるかに深い。
女の子のブラとパンティを触っていいのかいけないのか。
それは大いに検討するべきテーマではあったが、そう長い時間迷ってもいられない。
 意を決して龍麻は立ちあがり、少しゆっくりと洗面所へと向かった。
扉に手をかけても、二人は何も言わない。
再び訪れようとしている幸運は今日のトータルで計り知れず、
反動で今後大変な目に遭ってしまうかもしれないが、龍麻は楽園の中へと躍りこんだ。
 龍麻にとってこの文明の箱は、パンドラのそれに等しかった。
中に入っているのは希望、しかしその奥には絶望が詰まっているかもしれない。
蓋に手をかけた龍麻は、本当に開けてしまって良いのか、なおためらう。
葵でも小蒔でもどちらでもいい、一言声をかけてくれれば、今ならまだ引き返せるのだ。
 龍麻はむしろすがる気持ちで彼女たちが気づくのを願ったが、
洗濯機の蓋を掴んでも、ついに福音はもたらされなかった。
これはもう運命なのだ、と自らに言い聞かせ、無用な気合いと共に蓋を開けた龍麻は、
眼を限界まで見開いて中を覗きこんだ。
 攪拌された洗濯物が、ほどよく絡みあっている。
自分の下着はどうでもよいとして、女性二人分の制服と下着は、
夜に咲く白い花のように龍麻の眼を否応なしに惹きつけた。
 葵と小蒔が着たとは信じられないほどくたくたになった制服は、
さすがに龍麻を興奮させたりはしないが、それでも、袖や裾に入った赤いラインが、
二人の肢体をおぼろげながらイメージさせて、毎日学校で見ているものだというのに、
まるで別のものに見え、なんとなく唾を飲み下させる。
 そして、下着の方だ。
二組四枚の下着は黄金色に輝いてすらいるようで、見るだけで血流が勢いを増す。
さっき一生記憶に残るよう刻みつけたオレンジと白の色彩は、
今度は色覚に異常をもたらすくらいに鮮やかに網膜を灼いた。
 やる気のありすぎるクレーンゲームのように、槽の中に手をがっちりと突っこんだまま龍麻は思う。
さっき、洗濯を始める前に触らなくて良かったと。
もしあの時触っていたら、きっと平静を保てなくて二人に気づかれていただろうと。
ただのポリエステルとナイロンの集合体は、それほど龍麻に感動を与えていた。
 男にとって永遠に征服すべき対象である丘の模倣をしっかり握りしめ、
龍麻は洗濯物を乾燥機へと移す。
適当に掴んで放りこむなどということはせず、数回に分けて、
神に供物を捧げるようにうやうやしく頭上の箱に入れていった。
おかげでひとくちにブラジャーと言っても結構形が違うことを知る龍麻だった。
たとえば小蒔のそれよりも葵の方が全体的に大きく、それは胸の大きさが違うからだと思っていたのだが、
良く見れば小蒔の方は半球部分の布地がさらに半分と少しくらいしかない。
これを、彼女たちはどんな風に着けるのだろう――
うっかり考えて龍麻は、慌てて心臓を上から押さえた。
すぐに二人のところに戻るというのに、危険すぎる想像は身を滅ぼしかねない。
手にした金貨だけでも充分幸福になれるはずで、度を過ぎた欲を抱いてはいけないのだ。
乾燥機のスイッチを押した龍麻は、深呼吸を二度、頬を一度張ってから再び居間へと戻った。
「……」
 龍麻が座った途端、二人は話を止めて龍麻を見つめる。
大きな瞳にずいぶん近い距離から見つめられたとはいっても、
それほどやわではない龍麻の心臓がパニックに陥った蛙のように飛び跳ねたのは、
心にやましいものを抱えこんでいるという理由の方が大きかった。
「な、なに、何か変かな」
「……ひーちゃんてさ、おっきいんだね」
「え!?」
 何が、どこが、どれが。
二人に見せてはいけない、いや見て欲しくないといったら嘘になるけれど、
とにかく下半身に備わっているややこしい物体を見せつけてしまったのかと狼狽する。
それは間違いなく変態と呼ばれる道への第一歩にして最終歩であり、
龍麻は自分の股間がそんなことになっていないのを確かめた上で、
無実を証明する方法などないのだと絶望に駆られた。
「京一や醍醐クンと一緒だとわかんないけどさ、ひーちゃんもかなりおっきいんだね」
 小蒔が身長のことを言っているのだと気づくまで、三秒程度必要だった。
悪気はないとはいえ、なんという紛らわしい言い方をするのだろうか。
理不尽な怒りを打ち消すように、龍麻は笑った。
「は、はは、そうかな、俺はあと五センチくらいあると嬉しいんだけど」
「うーん……葵はどう?」
「え? そ、そうね、もう充分だと思うけれど……」
「だよねえ。あんまり身長差があるのも、ねえ」
 恋人候補として品定めしているかのような小蒔の発言に対して葵も頷いているのが気にはなったが、
危地を脱した龍麻は深く考えないことにした。
 文字通りに龍麻が一息ついたところで、洗面所からブザーの音がする。
「乾いたみたいだ」
「あ、待って」
 洗濯物を取りに行こうとする龍麻を、小蒔が呼びとめた。
「ボク達が取ってくるよ、エヘヘッ、ボク達の下着だし」
「あ……うん」
 小蒔の言い分はごもっともではあるが、なぜ今になって言うのかと龍麻は疑問に思う。
二人には悪いが、似たのを並べて間違い探しをしても絶対に見分ける自信があるくらい、
散々に見て触った後なのだ。
今更エッチだのスケベだの言われても困る、と不安を募らせる龍麻に、
小蒔はそういった意図は微塵も感じさせない笑顔を浮かべた。
「それでね、ボクたちが着替えてる間、ひーちゃんには目隠しして欲しいんだ」
「いいけど……ここで着替えるの?」
 浴室とか、あるいは龍麻が外に出る、という方法もある。
それは念には念を入れたいとしても、目隠しを強いるのは少し変だと思わないでもない。
しかしこの数時間、龍麻の精神は度重なる異性からの侵略に防戦一方で、
そうした細やかな指摘をする余裕はなく、さっさとにじり寄ってきた小蒔に
半強制的に従わされてしまうのだった。
「あの……ごめんなさい、緋勇君」
「え? 美里さんが謝ることなんてないよ、そりゃ不安だもんね」
 Tシャツを着た葵を、龍麻は一瞬だけ見て目を逸らす。
葵がTシャツ――それも、龍麻のものだ――を着ている姿は確かに目の毒であり、
こんなのを凝視していたら良からぬ気持ちにならないとも限らない。
今でさえ一瞬だけ見た葵の胸に、やはりあるまじき突起を発見し、
それだけで苦しくなるほど動悸が上がっているのだ。
つまり小蒔の提案は正しいわけで、これはやむを得ない措置なのだ、と龍麻は納得した。
「お願い、ひーちゃん……目、閉じて」
 小蒔に言われて龍麻は素直に目を閉じる。
目隠しくらい自分でもできる、と思ったが、間近にあった小蒔の笑顔と、
彼女から漂ってくる風呂上がりのいい匂いは、龍麻の諸々を封じこめつつあった。
 小蒔は手際よくタオルを巻きつける。
その際に小蒔の身体が少なからず触れたが、それくらいは役得だろうと龍麻は指摘もしなかった。
ただ、なぜか小蒔は後ろに回りこまず、正面から手を伸ばして縛ろうとするので、
刺激としては少し過剰になってしまい、息を止め、唾を飲み下す必要があった。
こんな状況では、いまさら指摘もできない。
閃く言い訳に理性を同意させつつ、龍麻は折に触れて、というより触れっぱなしの小蒔の感触を堪能した。
「どう、ひーちゃん、見える?」
「見えない」
「ホントかな?」
 小蒔は笑っているから、疑ってはいないのだろう。
龍麻がそう思っていると、いきなり口に何かが当たった。
当たったというか触ったというか、あまりに短い時間のことで何が何だかわからない。
ただ、これまで食べるなり飲むなりで触れた、いずれのものとも違う感触は、
思考を麻痺させるだけの衝撃をもたらしていた。
麻痺する寸前に誰かの息のようなものがかかったような気がしたのは、だから錯覚なのだろう。
もし錯覚でないとしたら、唇に直接息がかかるということは、
その直後に唇に触れたのは息を吹きだしたものだということになる。
そんな馬鹿な――まっさきに想像して即座に打ち消した、夢のようなできごとであるわけはないのだ。
 眼を奪われ、唇にセンサーの異常を検知した龍麻が思考に混乱をきたしていると、いきなり手が握られる。
ほどなくまず左の手首に、次いで右側にも、金属音と共に重みが加わった。
とっさに手を動かそうとして、さっきとは別の金属音が響く。
そして手は予期したようには全く動かず、たぶん数センチずれただけで、
反対側から引っ張られているように感じられれた。
「何……したの?」
「うん……あのね、ひーちゃんはそんなことしないって信じてるけど、
でもやっぱり男の子でしょ? もし、もし変な気起こしたら、ボクと葵じゃどうにもできないじゃない。
だからね、ホントに悪いと思ってるけど、ちょっと動けないようにさせてもらったんだ」
「そ……そう」
 そんなに信用されていないのか、という落胆や、どうして拘束する道具、たぶん手錠だろう、
を小蒔は持っているのだろう、という疑問は当然龍麻の脳裏に浮かんだ。
浮かんだけれど、両肩に手を置いていやに身体を密着させ、耳元で囁く小蒔の声のくすぐったさと、
背後から、やはり妙に身体を意識させる近さで、反対側の耳から、
「本当にごめんなさい、私達が着替え終わったらすぐに外すから、少しだけ我慢してもらえないかしら」
 と妙に掠れている葵の声が両側から頭の中に入ってきて、思考を司る部分を甘く、
柔らかく包みこんでしまい、そんな疑問などあっという間にとろけてしまっていた。
「あ、ああ、平気だよ、いきなりでちょっとびっくりしただけだから」
 女性二人に挟まれるなど生まれて初めての龍麻は、
もう興奮の許容量など振り切れてしまい、わけがわからなくなっている。
自分の部屋でどんな理由があっても自由を完全に奪われるというのがどれほど異常なのか、
まともに考える力もなく、五感にまとわりつく小蒔と葵の成分を少しでも感じとろうと、
ただそれだけに夢中になっていた。
「じゃ、早く着替えちゃおう、葵」
「ええ」
 二人が遠ざかっていく。
残念だ、と思う龍麻の鼻腔を、まだ色濃く漂う二人の残り香がくすぐった。
たちまち龍麻の五感は、奪われているものも含めて縛りつけられてしまう。
さりげなく膝を立て、放っておくとすぐに緩む口を閉じ、龍麻は無関心を装った。



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