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 田中が勝算の源を見抜かれた時点で勝負はついており、劉という援軍を得たこともあって、
龍麻達は田中や怨霊達をさしたる苦労もなく倒した。
あっけなさすぎて拍子抜けするくらいであったが、
田中という安直な偽名を用いる辺り、格が高い魔物ではないのかもしれない。
とにかく全員怪我もなく済んだのだから、それにこしたことはないはずだった。
「どうやら片付いたみてェだな。さァて劉、なんでお前がこんな所にいんのか、じっくり──」
 木刀を収めた京一が、都合が良過ぎる現れ方をした劉に対する質問を再開しようとする。
しかし、さっきまでそこにいたはずの劉の姿を探して辺りを見渡すと、
劉は既に遠く離れつつあるところだった。
「おい、どこ行くんだお前はッ!」
「えッ? い、いや、アンタらも無事やったことやし、わいはそろそろおいとましようかと」
「待てコラッ! ……逃げやがった……なんなんだ、あいつは」
 止める暇もなく走っていってしまった劉に、京一は音高く舌打ちした。
龍麻も彼の態度には不審を抱いていたが、本人に逃げられてしまってはどうしようもない。
──逃げる? どこへ?
そもそも、彼はどうやってこの結界の中へと入ってきたのだろうか。
龍山の話では、龍麻達が来ることは道心も何らかの形で把握しているようで、
だから導かれたのかもしれない。
しかし劉は、一体どうやって入り、どうやって出ていくのだろう。
可能性は二つ、劉が道心を上回るほどの術者である場合と、結界を通り抜ける方法を知っている場合だ。
 前者である可能性もなくはない。
劉は氣を用いるのに長けており、龍麻と同じか、もしかしたらそれ以上に操れるかもしれない。
それに加えて彼が何かの術を知っていたとしたら、この結界を破れてもおかしくはないだろう。
しかし、劉は逃げる時に何かの術を使った気配はない。
そうなると可能性が高いのは後者の方──龍麻がそこまで考えを進めた時、葵の呟きが聞こえてきた。
「名前を言っていたら今頃私達も、この方陣の中を永遠に彷徨さまよう怨霊と化していたかもしれないのね」
 葵は誰にともなく呟く。
龍麻が頷きかけると、突然すぐ近くから知らない声が聞こえてきた。
「ちッ、やっぱりそうだったかよ」
 声のした後ろを見れば、貧相な一人の老人が立っていた。
いくら霧の中とは言え、こんなに近くに近づいていたのに誰も気づかなかった。
新たな敵か──しかし、老人が口にしたのは、龍麻達の知っている人物の名だった。
「龍山の老いぼれめ、余計な入れ知恵しやがって」
「なんだこのジジイは」
 率直すぎることを言う京一に龍麻は失笑しかけたが、
醍醐が彼をたしなめたので笑いを無理やり飲みこんだ。
「待て、京一。もしかして、道心先生じゃありませんか」
「判りきったことを聞くんじゃねェよ」
 老人はあっさりと頷いてみせた。
この老人が、龍麻達が捜していた楢崎道心だというのだ。
 老人は龍山と同じ口髭を伸ばしているが、こちらは手入れもされておらず、
ただ伸ばしているだけといった感じで、美髯とはとても言い難い。
服はところどころがほつれ、ぼろぼろになっていて、ほとんど浮浪者といった風采だ。
否、この服装で東京の街を歩いていたら、誰だって浮浪者だと思うだろう。
身なりに執着しない、というのはあまりに好意的な見方で、
単に着るものがないと解釈されて当然の格好だった。
おまけにどこで手に入れたのか、やたら大きなサングラスを鼻梁に乗せていて、
またそれが絶望的に似合っておらず、ただうさんくささだけが際立つ結果となっていた。
「そうじゃなけりゃ、このおれの張った方陣の中を自在に歩けるわきゃねェだろ」
「この酒くせェジジイが道心だとォ!? さすがは破戒僧じゃねェか」
「餓鬼が、知った風な口を利くんじゃねェよ」
 道心は京一を睨みつけたが、怒ったわけでもなさそうだった。
龍麻達五人をじろりと眺めると、面白くもなさそうに顎をしゃくる。
「それよりもおめェら、おれを探しにきたんだろうが。ついてきな」
 どこへ行くんだ、と言いかけた京一を無視して道心は歩き始める。
仕方なく龍麻達も後を追ったが、道心は老人とは思えないほど足が速かった。
それどころか、異変に気づいた龍麻達が小走りで追いかけても、彼との距離は全く縮まらない。
道心はのんびりと歩いているだけだというのに、だ。
「なんだあのジジイ……どうなってやがんだ」
「それに変だよ、さっきからおじいちゃん真っ直ぐにしか歩いてないけど、
中央公園ってこんなに真っ直ぐ歩けないはずだよ」
「そうね……でも見失ってしまったら大変よ、頑張って追いつきましょう」
 京一と小蒔に、葵が応じている間にもペースはどんどん速くなっている。
それなのに道心の姿は、今や米粒ほどになってしまっていた。
「……待った」
 全力疾走に移ろうとする仲間達を、龍麻は制した。
「なんだよ。財布でも落としたのか」
 京一の軽口に応じず、立ち止まった彼らに背後を示してみせる。
「こっちから行こう」
「おい、どういうこった」
「多分このまま歩いても追いつけない」
 理を持って説明する自信は龍麻にもなかったので、それきり口を閉ざし、
自ら道心が歩き去ったのとは正反対の方向に歩き出した。
「なるほど……何かの術がかけられているということか」
 龍麻の考えを理解した醍醐が、途方に暮れる京一に説明してみせる。
それを聞いても京一は半信半疑だったが、龍麻は一人で行ってしまうので急いで後を追いかけた。
葵と小蒔も後に続く。
 龍麻の、ほとんど突拍子もないと言える考えが当たっているかどうかは、すぐに答えが出た。
「ふん、さすがに見破ったかよ」
 龍麻が歩き出して数歩も行かないうちに、霧の向こうから人影が現れる。
それはまさしく、今は反対方向にいるはずの道心だったのだ。
「どういうつもりだジジイ、俺達を騙しやがって」
 あのままついていっていたら、永遠に会えなかったかもしれない。
その行きつく果ては葵の言ったように今倒した妖魔であると思うと、
京一が激昂するのも無理はなかった。
「目で見えるものばかり追いかけるからよ」
 しかし道心はそううそぶき、京一を全く相手にしなかった。
どうやら一癖も二癖もある老人のようで、底意地の悪い、と龍山が彼を評した言葉を龍麻は思い出す。
これは、中々素直に話を聞かせてくれるとも思えない──
内心で覚悟する龍麻だったが、小蒔は別にそんな印象を受けていないのか、
人懐っこく道心に話しかけていた。
「おじいちゃん、本当に中央公園ここに住んでるの?」
「あァ、そうよ。家や仕事なんて新宿ここじゃあさして重要なもんじゃねェ。
この街にはありとあらゆるもんがあふれてやがるからな。
おまけにこの街の人間はものを捨てるのが大好きときやがる。
まだ使えるもんを捨て、まだ食えるもんを捨て、おかげでこっちは大助かりだがな」
 道心の声にはたっぷりと毒が含まれていて、それは次の一言からも明らかだった。
「こんなもんが……あいつが命を賭しても護りたかったもんなのかね」
 あいつ──それはきっと、父親である弦麻のことだ。
道心は、東京がこうなると判っていたら父親に手を貸さなかっただろうか。
父は、東京がこうなると判っていたら命を捨ててまで柳生という男を封印しようとは思わなかっただろうか。
そして、自分は。
自分は、確かに道心の言うことにも一理ある今の東京を、護りたいと思っているのだろうか。
答えは、決まっている。
護りたい。
いかに道心の言う通り人心は汚れ、欲望に塗れた街であったとしても、
それでも龍麻はこの街が、そしてここに住む人々が好きだった。
学校の友人、出会った仲間、そして、葵──
彼らが住む街を、龍麻は本心から護りたいと願っていた。
 都庁の方を見て呟いた道心は、視線を龍麻達の方に戻して続ける。
「まァそんなこたァどうでもいいさ。それよりおめェら、どこのモンだ?」
「は?」
 まるで極道ヤクザの組を訊くような言い方に、醍醐が戸惑った声を上げる。
すると道心は、苛立ったように再度訊いた。
「学校だよ、学校」
「全員同じ……真神ですが」
「あァ、そうかい」
 訊いた癖に、道心は答えにさしたる興味はないようだった。
さしもの醍醐もムッとした表情を浮かべるが、
京一や龍麻よりも忍耐力において優っている巨漢は丁寧にそれを消した。
 今度は道心は、龍麻に顔を向ける。
「お前が……龍麻か。大きく……なったな」
 一瞬、道心の声に慈愛が宿った。
 彼もまた、父と自分を知っている者なのだ。
龍麻は敬意を込めて頷いた。
昨日龍山には聞き損ねてしまったが、父親と、知っていたら母親のことを聞かせて欲しく、
用事が済んだら、一人残ってでもそうしようと思っていた。
「それにしても龍麻よ、まさかおめェまで真神にいるとはな。
星の巡りとはつくづく恐ろしいもんだと痛感させられるぜ」
「どういうことですか? 真神学園あそこには……何かあるんですか?」
「いずれわかるさ」
 韜晦とうかいした道心は、穏やかに語りかける。
「それよりも龍麻よ、龍山のじじいがおれを訪ねろと言ったかよ」
「ええ」
「おれに助けてもらえってか?」
 老人の言葉に含まれた毒に、とっさに龍麻は反応出来なかった。
それほど道心は劇的に変貌し、小さな眼から瘴気めいたものを放っている。
鼻白む龍麻に、一層醜怪な顔になった道心は、いやらしく笑い出した。
「こいつは気分がいいな。え、どうだ、助けて欲しいかよ、ひよっこが」
 酒臭い息を吐き出し、笑い、酒をあおる。
醍醐や葵でさえ眉をひそめずにはいられなかった道心の態度は、龍麻に昨日の厭な記憶を甦らせた。
一方では宿命と言い、全てを知った風な顔をしながら当事者である龍麻達には説明せず、
闘いを半ば強制しながら、一方ではこのように煽ってみせる──
急速に膨れる怒りに、道心が油を注ぐ。
「弦麻の息子だから助けてやってくれとでも龍山の爺に言付ことづかってきたかよ」
 昨日、龍山に対しては抑えてみせた感情を、今、龍麻は抑えられなかった。
なまじ一度は敬意をもって接しようとしただけに、その反動は大きく、
それはもちろん道心の言動にも原因があるのだが、龍麻は氣において手加減はしながらも、
拳においては本気で道心に殴りかかった。
「龍麻ッ!」
 止める間もない友人の蛮行に京一達は驚く。
確かに道心の言動は鼻持ちならなかったが、理性も常識も持ち合わせているはずの龍麻が、
こんなにもあっさりと怒りを爆発させるなどとは思っていなかったのだ。
 哄笑していた道心に、龍麻が肉迫する。
はやさといい体重の乗せ方といい、これまで闘ってきた敵に対するものと同じ龍麻の攻撃に、
道心は全く無防備だった。
まさか龍麻は殺しはしないだろうが、骨の何本かは間違いなく折れるだろう。
そして道心の年齢では、それが致命傷ともなりかねない。
 四人の中でもっとも早く反応したのは醍醐だったが、
それでも道心に向けて重心を移すのが精一杯だった。
 小柄な道心の身体が、龍麻のかげに入る。
既に固められている龍麻の拳は、容赦なく道心の腹に突き刺さるだろう。
もしかしたら道心は吹き飛ばされてしまうかもしれないと醍醐は思ったが、
その瞬間は永遠に訪れなかった。
 龍麻の動きが、突然止まる。
あまりにも不自然な止まり方に、醍醐は時間が止まったのかと思ったほどだった。
 やや遅れて、こちらは龍麻の方を止めようとした京一だったが、
急停止した友人に驚き、自分も止まった。
「血の気の多いところがまだ餓鬼だな」
 道心の挑発に対する龍麻の反論はない。
それどころか反撃も、一度退さがって身を立てなおす素振りも見せない。
不審に思った京一は回りこみ、何が起こっているのか確かめようとした。
 道心は龍麻の腹に右の掌底を当て、左手は二本の指で喉元を突いているだけだ。
喉に若干めりこんでいる指が動きを封じているとしても、全身を縛り付けるなど不可能なはずだ。
このみすぼらしい老人がどのような力を持っているのか、
判断に迷った京一だったが、とにかく龍麻を救おうと思い、道心の肩に手を置いた。
「おいジジイッ、龍麻を放しやがれッ!!」
 ほとんど骨だけの腕は、簡単に引き剥がせるはずだった。
しかし京一が触れた肩は鋼のように硬く、引き剥がすどころか掴むことすら困難だった。
「どうだ、苦しいか。吐き出そうとするんじゃねェ、身体の奥に押しこめ。
てめェの中にあるチャクラを意識し、そこを循環させるんだ」
 老人の声は悪意があるものの、それだけではない。
京一はかつて、これと似たような声を聞いていたことがあった。
事あるたびに説教しようとし、肝心の剣技はほとんど教えてくれなかった彼の師が、
いつもこんな喋り方をしていたのだ。
 ということは、どうやら道心は龍麻と闘っているのではなく、何か教えているようだ。
しかし京一が見ている間にも龍麻の顔はいかにも苦しそうに青ざめていき、
両腕が力を失って垂れ下がるに至り、ついに決断した。
「ジジイ……ッ」
 京一が道心の肩に手をかけた、まさにその時だった。
道心がおもむろに龍麻の喉に突きたてていた指を離す。
その瞬間、龍麻から爆発的な氣が立ち上り、危うく京一は弾き飛ばされそうになってしまうところだった。
「龍麻……?」
 他人である京一が判るくらいだから、自身の身体に起こった変化に龍麻が気づいていないはずがない。
 身体が軽い。
いつもは使う分をその都度練っていた氣が、まるで巨大な塊のように身体の中にある印象だ。
腕を振っただけで拳の先からほとばしりそうな氣は、
鉄板ですら撃ち抜ける、と自惚れさせてしまうほど練れていた。
「ふん、ほとんど我流でそんだけ氣を使いこなすのはさすがだが、
才能に溺れて鍛錬が足りねェ辺り、まだまだ餓鬼だな」
「どういうことですか」
 自分の掌を呆然と見つめている龍麻と、その龍麻をやはり呆然と見ている京一に代わり、醍醐が訊ねる。
自分の倍ほども上背のある巨漢を面白くもなさそうに見やり、
道心は左手に持った瓢箪ひょうたんあおった。
「こいつはな、おめェらやおれと違って氣をいくらでも使える……それこそ無尽蔵にな」
「無尽蔵……ですか」
 白虎の宿星を持つ醍醐は、己の裡に眠る獣を呼び覚ますと氣が増大するのを感じる。
今のところその状態で限界を感じたことはないが、
氣というものが己の呼吸や感情の総量に大きく左右されるというのはなんとなく掴んでいた。
つまり氣とは裡から生み出すものであり、当然有限だと思っていたのだ。
「それがこの餓鬼の素質ってことよ。
だがこいつはそれにかまけててめェの中で氣を増幅させる方法を知らずにいやがった。
だからちょいと教えてやったのよ」
 誇るでもなく説明する道心に、醍醐は感銘を受けたように頷く。
 しかし、手助けをしてもらった形になる龍麻の方は、道心に感謝する気はなかった。
彼に使い方を教えられた氣でさっそく意趣返しをしてやるつもりで拳を固める。
すると道心が、機先を制するように手にした瓢箪を呷った。
「けッ、思いつめたをしやがって。
前に来た女もそうだが、もうちっと余裕を持てねェか」
「前に来た女……? こんなジジイに女なんて会いに来んのかよ」
 醍醐に目配せして龍麻を抑えさせた京一は、
彼の気を逸らすために仕方なく男の、それも老人に自ら話を振った。
 大きくしゃっくりをした道心は、もともと小さな目を更に細める。
「るぽないたあとか言ったか、ありゃあイイ女だった」
「るぽないたあ? 変な名前だな、外人か?」
「京一くん、きっとルポライターじゃないかしら」
 葵の指摘に、京一はわざとらしく咳払いをした。
素で勘違いしていたのだが、龍麻が小さく笑うのが聞こえたので思いきり睨みつけてやった。
だがどうやら激発はひとまず止んだようで、京一は安心もするのだった。
「でもよ、ルポライターっていやぁ絵莉ちゃんくらいじゃねェのか」
「うん……おじいちゃん、そのヒト天野絵莉さんって名前じゃなかった?」
 今のところもっともこの偏屈な老人に敵愾心を抱いていない小蒔が問うと、
道心は興醒めしたように頷いた。
「なんだ、お前らの知り合いかよ」
 フリーのルポライターであり、
この東京まちを護るために情報面から龍麻達を支援してくれている天野絵莉。
どういった情報源を辿って探し当てたのかは解らないが、彼女も道心に会っていたのだ。
それはつまり、この老人が極めて重要な何かを知っているということに他ならない。
彼女の取材能力は高く、無駄足を踏むようなことは恐らくないだろうから。
 おとなしくはなったものの、積極的に道心と口を利く気にはなれないらしく、
無言のままの龍麻に代わって醍醐が訊ねる。
「天野さんは何を訊ねられたんですか?」
「おう……それよ。あの女、深夜をまわったってのに一人木陰に突っ立っていやがったからよ、
こっちから声をかけてやったのよ。そしたらどこで何を聞きつけてきたのか知らねェが、
いきなり『東京を護っているものは何ですか?』ときやがった」
 龍麻を軽くあしらったこの豪胆な老人でさえ、
絵莉の質問には相当驚いたらしく、口調が若干変わっている。
それほど彼女の問いは核心をいていたのだ。
「東京を護っているもの……ですか?」
「おう、それから、『江戸時代から続いている東京を守護する『力』は、
今もその効力を保っているのですか』だとよ。どうよ、おめェらがおれに聞きてェ事と同じだろうが」
「はい」
 素直に頷く醍醐に気を良くしたのか、道心は饒舌じょうぜつに語り始めた。
「長い間東京が超自然的に守護されてきたのは事実さ。
そしてこの東京を護っているものの正体、そいつは──『言霊ことだま』さ」



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