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それからさらに数十分が過ぎた頃、ようやく雪乃の身体を照らす灯が毒々しい赤から緑に変わった。
治療室から出てきたたか子の顔は表面的には何の変化も無く、
雪乃は期待と不安と、どちらの態度を取って良いか悩んだ末、腹から声を絞り出した。
「先生ッ、龍麻は……龍麻は治ったんだよなッ!?」
「……」
「……治っては、おらん」
「なッ……」
あまりに率直すぎるたか子の台詞に、言葉を失う。
医者が「治ってはいない」などと口にするということがあっていいのか。
しかし、安易な期待を裏切られたことで、そう激発する気力さえ奪われてしまったようだった。
膝が笑いだし、その場に倒れそうになるのを、たか子を睨みつけることでかろうじて堪える。
たか子は無礼な視線を真っ向から受け止め、わずかにその眠たげな目を細めて続けた。
「わしの経験でも、残された文献にも、盲目者に食われて生き残ったケースはほとんど無いのだ。
施せるだけの手は打っておいたが、助かるかどうかは龍麻次第だ」
「龍麻次第って……」
「今、奴の身体は、それを動かす為の氣がゼロに近い状態になっておる。
それが回復せんとどうにもならん」
雪乃にはたか子の言っていることが半分くらいしか理解できなかったが、
事態が深刻だということは判る。
そうでなければ、とっくにいつもの、あの厭らしい笑いをしているはずだから。
手足の先が痺れを感じるほどに冷え、その冷気が少しずつ全身に回りはじめる。
凍ってしまうことを恐れるように、雪乃は山のようなたか子の巨体を掴んだ。
「先生頼むよッ、オレに出来ることならなんでもするからさ、龍麻を助けてやってくれよッ!」
「残念だが……お前に出来ることは無い」
「そんなッ……なんかあるだろ、輸血とかさ、手拭い替えるとか、なんでもいいんだよ」
ローマ法皇庁に奇跡認定をされるほどの、世界でも有数のヒーラーは、すがりつく雪乃を、
何故かいつものようにすげなくあしらうことはしなかった。
「さっきも言ったが、龍麻の氣は我々が居るのとは別の次元に食われてしまったのだ。
それに龍麻の身体の方が戸惑っていてな、外からの氣を受け付けようとせぬ」
「そンな……」
最悪の想像が襟首を掴む。
かつて調子に乗って何度か口にしたことのある、
「死を覚悟する」と言う台詞がどれほど甘っちょろいものか、
雪乃は細胞の隅々まで思い知らされていた。
自分のことならこうも怖れはしなかったろうが、近しい人が死に瀕するというのは、
想像を超える絶望感をもたらしていた。
冷えきった血液に、たか子の言葉が追い討ちをかける。
「治りはする。ただ、氣の減少によって普通の体力も落ちる。
氣の回復よりも先に体力の衰弱の限界が訪れたら……」
たか子は雪乃を脅すつもりで言った訳ではなかったが、言い終えた直後に後悔していた。
それほどまでに目の前の女の顔色が、まるで倍速の映像を見ているかのように激変してしまったのだ。
この場で倒れないのが不思議なくらい、青を通り越して白くなっている。
全く、他人のことを自分以上に心配するとはな。
たか子はそんな時では無いと知りつつ、表情を晦ませながら、もう忘れかけていた過去に思いを馳せる。
自分の若い頃にも確かにあった、自分よりもかけがえの無い存在があった時期。
今では鼻で笑ってしまうような、しかし決して穢れることのない、純度の高い想い。
思い出したからと言って今更感傷に浸るようなこともなかったが、
気が付けば、雪乃の肩にごつい手を置いていた。
「大丈夫だ。そう簡単に死なせはせんよ」
自分を見上げる瞳の煌きに眩しいものを感じ、いたわるようにそう呟く。
怪訝そうな表情をする雪乃に、笑顔に似たものを一瞬にも満たない間だけひらめかせると、
後はもういつも通り、ぐずる雪乃の声を巨体で跳ね返して彼女を病院から追い出してしまった。
雪乃の姿が見えなくなったのを確かめると、身体を翻して病室に向かう。
あの少女を悲しませないために、やることは山ほどあった。

結局龍麻の顔さえ見ることが出来ずに追い出されてしまった雪乃は、
足がひとりでに動くに任せ、どれだけ汲みだしても尽きることのない後悔の念に溺れていた。
足下からじわじわと侵食し、這い出ることも叶わない沼のように心を呑みこんでいくそれに、
立ち向かう気力さえ起こらない。
放っておいても押し潰されてしまっただろう雪乃を支えていたのは、たか子の言葉だけだった。
死なせは、しない──
たか子の力を知らない雪乃にとって、それは何の根拠もないたわ言にも近かったが、
そう言った時のたか子の表情は信じることが出来た。
ならば、龍麻が戻ってくるまでは──
そして、戻ってきた時の為に──
自分には、するべきことがあるはずだった。

それから毎日、雪乃は学校が終わると脇目もふらず龍麻を見舞った。
と言っても何が出来る訳でもなく、毎日たか子に症状を確認しては鬱陶しがられるだけだったが、
それでも通い続けた。
食事も喉を通らず、血色の良かった顔も、今は青白くなってしまっている。
心配した雛乃が声をかけても、頑なに首を振るだけでほとんど口にしようとはしない。
食べられるはずが無かった。
この日も病室を訪ね、何も変わりが無いことに落胆しながら、
点滴のチューブを差しこまれた龍麻の、額の汗をそっと拭ってやる。
たか子の話では氣の方は既に戻ったという話だったが、
落ちこんだ体力は容易には回復の兆しを見せなかった。
「龍麻……」
名を呼んだところで返事がくるはずも無く、その事実に涙がこぼれそうになる。
それをぎゅっと唇を噛んでこらえ、龍麻に背を向けた。
しかし皮肉なことに、限界が先に訪れたのは雪乃のほうだった。
龍麻の顔を見て、今日も見るだけで部屋を出たところで、
張りつめ、削れていた糸が切れ、その場に崩れ落ちる。
「姉様!」
姉を思いやって廊下で待っていた雛乃が、異変に気付いて立ちあがった。
ドアの前で横たわる姉を抱き起こし、龍麻に続いて姉まで倒れたことに、心臓が止まりそうになる。
しかし、雛乃の悲鳴を聞き付けて歩いてきたたか子は、
抱き起こされる雪乃の顔を一瞥しただけでことも無げに告げた。
「心配するな、ただの疲労だ。
……お前一人で担いで帰るのも無理だろうからな、今日はここに寝かせていけ」
「はい。……ありがとうございます」
「フン。全く迷惑だよ。病院は病人を増やす場所ではないのにな」
鼻を鳴らし、殊更足音を響かせて去っていくたか子に雛乃は深々と頭を下げ、
舞子に手伝ってもらって姉を病室のベッドに運んだ。
本当は付き添って泊まっていきたかったが、多分たか子はそれを許してくれないだろうと考え、
肩まで布団をかけてやっただけで自分を無理やり満足させる。
すると、看護婦らしく、雪乃の隣に並んで眠る龍麻におかしな所が無いか確かめていた舞子が、
急に口を開いた。
「龍麻くん〜、もうすぐ目覚ますと思うよォ〜」
「本当ですか!?」
舞子の言葉をほとんど聞き流していた雛乃だったが、今の一言は聞き捨てならなかった。
豹変した雛乃の剣幕に怯えながらも舞子は頷く。
「うんッ。龍麻くんの周りに〜、ぽかぽかさんが見えるもン〜。
それにね〜、先生ももうそろそろだって言ってたの、舞子聞いちゃったもンッ」
ぽかぽかさんが何のことかは解らないが、たか子がそう言ったのなら間違いないだろう。
雛乃は逸る鼓動を抑え、その時が来るのを待つ為に病室を後にした。



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