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雪乃は、夢を見ていた。
どこまでも青一色の空、地平の果てまで広がる草原。
純白のサマードレスを纏い、同じ色の小さな帽子をかぶって、幼子のように手を広げて走っている。
走るのが楽しい訳ではない。
走っているところを見せるのが楽しいのだ。
立ち止まり、後ろからのんびり歩いてくるシルエットに大きく手を振る。
その時、心地良い、爽やかな花の香りを乗せた清涼な風が、小さな悪戯を仕掛けた。
ドレスの裾が翻り、慌てて押さえる。
顔を上げると、目の前にあんなに遠くにいたはずの彼が立っていて、
自分の身体をふわりと持ち上げた。
帽子を飛ばされないよう抑えながら、幾度もワルツを踊る。
そこまでは良かったが、少しはしゃぎ過ぎたのか、雪乃を降ろす時にバランスを崩してしまった。
よろけ、それを雪乃が慌てて支えようとした時、花の海に倒れこんでしまう。
柔らかな衝撃のあと、雪乃はしっかりと抱きとめてくれたお礼をするために、
花の海に身体を沈めた──
場面が変わった。
丘の上で、二人は座って弁当を食べている。
初めて他人の為に作った食事。
それはお世辞にも美しい、とは言えないものだったし、
きっと味もそれに準ずるものだったろうが、彼は喜んで食べてくれた。
食べ終えた彼にかいがいしくお茶を差し出すと、頬にご飯粒が付いているのに気付き、
早鐘を打ちはじめる心臓をなだめながら手を伸ばす。
指先が頬に触れると、彼は雷に撃たれたように動きを止め、黙って俯いてしまった。
沈黙が流れるが、それはけっして疎ましいものではない。
その証拠に、やがて彼は深呼吸をひとつすると、同じように手を伸ばし、頬に触れてくる。
大きくて、暖かい手。
触れられることに幸せを感じて、軽く頭を傾げる。
すると、少しずつ彼の顔が近づいてきて──
あァ……そうか。
オレは、アイツじゃなくて、雛乃に嫉妬してたんだな。
龍麻の腕の中で微笑む自分をどこか頭上から見ていた雪乃は、
ようやく抱えていた痛みの正体を知って大きく頷いた。
よりにもよって怒りなどと勘違いしていた自分が恥ずかしく、
そして、龍麻をこんな状況にしてしまった自分に改めて腹が立つ。
治ってくれたら、謝らなければいけないから。
だから、早く目を覚まして。
雪乃はただひたすらに、強く、そう願った。
頬に熱い物が触れた。
目を開くとそこには、夢と同じ顔が、自分を心配そうに覗きこんでいた。
顔色ははっきりと悪かったものの、瞳の輝きは夢と同じ、意志に満ちている。
「たつ……ま……?」
「良かった……」
そう呟いたきり、龍麻は声を詰まらせる。
少し遅れて、また熱い液体が頬に跳ねた。
液体の正体を知って、雪乃はその源に触れ、自分の為に零された滴を指先に染みこませる。
「龍麻……くん……」
「え……? ……あ、ご、ごめん。格好悪いな、俺」
龍麻は乱暴に手で目をこすったが、逆にそれが弾みになって涙をあふれさせてしまい、
雪乃にこれ以上涙をかけてしまわないよう顔をそむけ、そのまま嗚咽混じりに呟く。
「目が覚めたらさ、お前が隣で寝てて……顔色も悪かったし、なんかあったのかと思って……」
龍麻の声に雪乃は頬に手をやり、そこが濡れていることを確かめると、
こみ上げてくる衝動に耐えながら龍麻に手を重ねた。
驚いた龍麻が振り向くと、安心させるように笑顔を浮かべる。
「わたしは……なんともないの。ちょっと疲れただけだから。龍麻くんはもう……平気なの?」
「あぁ……なんとか、生きてるみたいだ」
それまでの快活な笑みではない、わずかながら母性さえ感じさせる穏やかな微笑みと、
急に「龍麻くん」などと呼ばれたことで、龍麻はどんな表情をして良いか困っていたようだったが、
雪乃にはもう見えていなかった。
「良かった……良かったよ、龍麻くん……」
龍麻の首にしがみついてそう言うのがやっとで、後は声にならない。
「ど、どうしたんだよ」
「わたし……ううん、なんでもない。……龍麻くんが良くなって、本当に、嬉しいの」
回復した、といっても寝たきりで事情もさっぱり判らない龍麻だったが、
雪乃が喜んでくれているのは間違いなかったから、尋ねるのは後回しにすることにした。
「……俺さ」
しがみつく雪乃の背中にそっと腕を回し、自分にも言い聞かせるように言葉を選ぶ。
「俺さ、寝てる時、雪乃の声が聞こえたんだ。
その時はなんだか解らなかったけど、もしかしたらあれ、
死ぬ時に呼ばれて引き返すってやつだったのかもな」
それは冗談にしても気が利いていなかったし、真実だったのだから余計に始末が悪かった。
死、と言う言葉がキーワードになって、雪乃は号泣をはじめてしまう。
「う……うわあぁぁっ、ごめん……ごめん、なさい……」
「いや、俺は礼を言ってるつもり……なんだけど……」
「違うの……わたし……わたしのせいで龍麻くんが死にそうになって……」
「あ……俺、本当に死にそうになってたのか。でも雪乃のせいじゃないだろ」
「ううん……」
雪乃はそう答えたきり泣くのを止めず、困った龍麻は別の方向からなだめてみる。
「でもさ、助かったのも雪乃のおかげだから……ありがとな」
その一言が最後のとどめになり、雪乃は赤ん坊のように、ただ泣くために泣きはじめてしまった。
龍麻もとうとう諦め、好きなだけ泣かせてやることにする。
人が泣くのを見るのは、決して気持ちの良いことではないはずだったが、
どういうわけか今は、もう少しこのままでもいいと思っていた。
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