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煙草を三分の二ほど吸った千鶴は、残りを灰皿に押しつけると手を打ち鳴らした。
「さぁ、そろそろ働いてもらうわよ。ゲラが来るまでまだ三十分くらいあるわね。それじゃ、貴女、名前は?」
「あッ、深舟……さゆりです」
「そう。それじゃ深舟、あんたは校正をやってもらうから。机はあそこ」
千鶴が指さした机には、サグラダ・ファミリアのように奇跡的なバランスで書類の塔ができあがっていた。
一目見て危機を覚えたさゆりは、瞬間的に反応した。
「東摩君の方が先輩だから先にあの場所を使うといいわ」
「は?」
何言ってやがるこの女、という生地に片づけるのが嫌なだけだろうが、という具を挟み、
寝言は寝てから言え、というソースを塗って一品仕上げた感情を、
「は」の一文字に込めて龍介はテーブルに並べた。
むろん賛同者を期待してのことだったが、思惑は外れ、千鶴は頷くと別の机をさゆりに示した。
「ちょっ……」
「何?」
「……いえ……」
これが大人になるということなのだと龍介は心で泣いた。
引き下がった、あるいは大人になったと思いこんでいる龍介には目もくれず、
さゆりはこの場の上位者と話を続ける。
「それで、校正って何をすれば」
「何? 学校新聞とか作ったことはないの? 仕方ないわね」
新しい煙草に火を点けて千鶴は説明をはじめた。
「校正は原稿と仮刷り――本番の印刷前に擦った物を見て、
誤植とかをチェックする作業の事よ。誤植だけじゃなくて文字数が溢れている箇所や
レイアウトが崩れている箇所もチェックするように」
「わかったわ」
本当にわかったのか、とツッコミたくなる龍介だが、
歯切れの良い返事は千鶴のお気に召したらしく、彼女は満足げに頷いた。
それから龍介に顔を向け、厳しい口調で言う。
「東摩君。あなたもよ。ウチは見てのとおり零細だからじっくり研修させる余裕なんてないの。
新米だからってミスは許さないわよ」
「は、はい」
生唾を飲み下しながら龍介は頷いた。
どうもさゆりと待遇が違うような気がするが、不満に感じる余裕すらない。
ここは学校の教室ではなく大人の社会の一部なのだとあらためて思う龍介だった。
さらに千鶴は指示を下す。
「まだ時間はあるわね。今のうちに支我と東摩君は買い出しに行ってきて」
さゆりが鋭く反応し、ついて行きたそうな素振りを見せたが、千鶴は冷淡に無視した。
支我もさゆりには一顧だにせず龍介に短く「よし、行こう」とだけ告げて
さっさと編集部を出ていったので、慌てて龍介も後を追った。
支我が口を開いたのはビルを出てからだ。
「買い出しって言うのは霊具のことなんだ。昨日結構使ったからな、ストックを補充しておかないと」
色々あった編集部内の出来事には一切触れず、これからの説明をはじめたのは、
龍介にはずいぶん大人びた態度に見えた。
学ぶべきところは学ぼう、と思いつつ、支我はあの女にそこまで被害を被っていないから
こういう態度が取れるのだと思いもする。
「使ったって、塩のことか?」
「それだけじゃないけどな」
「ああいうのってそんなコンビニで売ってるような塩でいいのか!?
もっとこうほら、偉い密教僧が祈祷したやつとか、チベットの秘術を施したやつとか」
霊とはもっと遠く離れた世界の存在だと思っていたのだが、
まさかコンビニで売っているもので撃退できてしまうとは。
龍介はからかわれているのかと思ったが、支我は至って真面目だった。
「そういうのも使うときは使うけどな。そもそも東摩、どうして幽霊に塩が効くのか知っているか?」
「え? ……そういえば知らないな」
「科学的には塩はマイナス電荷を持つ物質で、霊が苦手とする」
「へえ」
この返事もやはり、霊とは科学と対極にあるものだと思っていたので、
いきなりマイナス電荷などと言われて面食らったのを無難にやり過ごしたにすぎない。
とにかく今は、知識を蓄えなければならないようだった。
「他には塩を採らなければ人間は死んでしまう。つまり、生命の象徴でもあるんだ。
それに、塩には保存や殺菌の効果がある。だから古来から塩には神秘的な力があると信じられてきたんだ」
「なるほど……」
「ちなみに、夕隙社が使う最も効果が高い清め塩は盛り塩二箇所分、十グラムで十万円だ」
「そんなにすんのかよ」
「これを使ったのは俺も一度しかない」
「やっぱり凄い霊だったのか」
「……また機会があったら話すよ。店に着いた」
支我が示したのはビルの一階に入っている至って普通のコンビニだった。
看板には「4−B」と書いてあって、大手のチェーンではないようだが、二十三区内には何軒かあるらしい。
支我に続いて店に入った龍介は、置いてある品物をいくつかチェックしてみたが、
雑誌や飲み物、お菓子など他のコンビニと大差なかった。
本当にこんな普通の塩で効くのか、と四角い紙箱に入った塩を龍介が手にとって眺めていると、
カウンターの方から声が聞こえる。
「おッ、支我さんじゃないッすか、いらっしゃいッ」
ずいぶんと大きな声はそれほど広くもない店中に響き渡った。
全ての客にこの調子だとしたら、結構な数の客が二度は来ないのではないか。
そう龍介は思ってしまった。
「おッ、こちら新人さんすか」
「あぁ、今日からウチで働く東摩龍介です」
「東摩さんッすね!! 自分は二四田天超ッす!」
「え、あ……よろしく」
聞かれてもいないのに店長と名乗る彼にますます龍介は引いていく。
彼の誤解を解いたのは支我だった。
「彼は苗字が二四田で名前が天超なんだ」
「え、そうなんだ」
「そうッす!! 天超店長だとうっとうしいッすから、苗字の二四田の方で呼んでくださいッす!」
コンビニの店員の名前を呼ぶことはあまりないと思ったが、
彼の声の大きさに負けて素直に頷く龍介だった。
塩の他に煮干しやら青のりやら、本当に効果があるのか疑わしい霊具の数々を買いこんだ
二人はコンビニを後にする。
店を出て扉が閉まったところで、見計らっていたかのように電話が鳴った。
標準設定のベル音で、龍介のものではない。
「ん? ちょっと待ってくれ、電話だ」
支我が道の端に寄り、スマートフォンを取りだす。
龍介は少し離れた場所で彼を待った。
「支我です。……はい、はい。わかりました、現場に向かいます」
通話は短く、終えた支我は自分から龍介の方に近づいた。
「たった今新しい依頼があったそうだ」
「……!」
「中野区にあるマンションに、若い女の霊が出るらしい。
まずは調査ということで、俺とお前、それに萌市で行くことになった」
支我の説明によると中野よりも新中野の方が近いそうで、JRではなく地下鉄で向かうことになった。
編集部ではなく、駅の方に進路を変更して二人は歩きはじめる。
「霊退治の依頼ってそんなにしょっちゅうあるもんなのか」
だとすれば龍介の認識は甘かったことになる。
幽霊に困らされている人の数など多いはずがなく、せいぜい月に一件程度だと思っていたのだ。
「そうだな、ウチはまず掲示板に相談の形で書いてもらう。これが月に百件程度。
大半は冷やかしや思いこみだが、十件程度は本物の霊障と思われるものがある。
そこからは社長が依頼人と接触して、実際に依頼にまで辿りつくのは五件といったところだな」
「へえ」
月に五件でもかなりの量だと龍介には思われる。
雑誌を作りながら週に一回以上は霊退治に出動するというのは、想像していたよりハードかもしれない。
とはいえ、未知への好奇心にあふれる龍介は、早く霊退治をしてみたいと不安より期待の方が勝るのだった。
新中野についた龍介と支我は現場に向かう。
依頼人の自宅ということで駅からやや離れたところにあるマンションは、
夕隙社の入っているビルほどではないものの、オートロックがないあたり、そんなに新しくはなさそうだった。
マンションの前に一組の男女が立っている。
遠目から見ただけで、龍介と支我は揃って絶句した。
男の方はありふれたチェックのシャツだったのだが、女の方が見覚えのありすぎるセーラー服を着ていたのだ。
彼女は二人を見つけると、手を振るどころか軽く睨みつけてきた。
「遅かったじゃない。道草食ってたんじゃないでしょうね」
「深舟ッ!」
「霊が出たんでしょ? 夕隙社の一員として調査に参加するのは当たり前じゃない」
本当に可愛くない女だと龍介は思い、支我も龍介ほどではないが同じ感想を抱いたようだ。
もともと表情豊かな男ではないが、萌市を見る顔は冷たさすら感じさせた。
「萌市が連れてきたのか?」
「み、深舟氏に脅されて仕方なく」
「脅してなんてないわよ。浅間君の荷物が多くて大変そうだから手伝ってあげただけよ」
萌市の足下に置かれている大きめのリュックを見て、龍介が言った。
「その割にお前何にも持ってないよな」
「聞いてください東摩氏、深舟氏は僕の研究成果を弄んだんですッ!」
「別に私は怪しい科学に興味がないだけよ」
泣きついてくる萌市も面倒くさいが、どちらの肩を持つかと言われれば間違いなく彼だ。
龍介は萌市に確認を取るように、その実さゆりを当てこするつもりで言った。
「調査に必要な機材なんだろ? 粗末に扱っていいもんじゃないよな」
この程度の挑発でもすぐに怒ると思われたさゆりは、無言であらぬ方を向いただけだった。
反応したのは萌市の方で、喜色を露わにして何度も頷いた。
「いずれ編集部の地下にある僕の工房で、境界科学の未来について語り合いましょうッ」
具体的に日時を決める羽目になったら危険だったが、良いタイミングで支我が話を進めてくれた。
「仕方ない、今日は深舟も同行するんだ。浅間、依頼人の情報を」
「はい。依頼人は二十四歳の男性、職業は公務員。
中野区のマンションで独り暮らしをしています。結婚歴はありません」
このあたりは基本的な情報で、さほど意味はない。
重要なのはここから先で、萌市は軽く咳払いをして続けた。
「霊の出現が最初に確認されたのは三日前の午前二時。依頼人は午前零時に帰宅、一時に就寝。
それから約一時間後、肌寒さと異臭に目を覚ますと、ベッドの横に女が立っていたそうです。
女はしばらく依頼人を無言のまま凝視した後、文字通り煙のように消えたとか。
以来毎日同じ時刻に女の霊が現れているそうです」
「なるほど、気温の低下に異臭――霊の出現する兆候で間違いないな」
「ええ。科学的に考えても、依頼人が目撃したのは霊だと思って間違いないでしょう」
支我と萌市の会話に、さゆりが割りこんだ。
「気温の低下に異臭って何よ」
「霊が出現する前には気温が急激に低下して、硫黄の臭いがするんです。
家電の中にはプラス電荷を発生させるものもありますが、
霊の出現によって電荷量が一時的に変化するため出現が分かるというわけです」
萌市は基本的に人がよいのか、それとも説明したがる癖を持つのか、さゆりにも親切に教えてやった。
さゆりは説明されたからといって礼をいうわけでなく、龍介は苛立つ。
彼の内心などさゆりは知る由もなく、また、知ったところで歯牙にもかけなかっただろう。
「僕が研究している境界科学もそうですが、世界的に霊についての研究は進んでいます。
今では、霊にも人間や動物と同じように習性や同行に法則があるとも言われています」
「そろそろ依頼人との約束の時間だ」
萌市の説明が終わったところで、腕時計を見て支我が言った。
「まず、依頼人が目撃したのが本当に霊なのか。霊だとしたら、なぜ出現したのか。
その原因を調査するのが俺達の仕事だ」
たとえこの場で霊の出現が確認できたとしても、絶対に戦ってはいけない。
特にこの点を支我は念を押した。
「でも、襲ってきたらどうするんだ?」
「逃げるんだ」
支我の返答は明確だった。
「霊が視えたとしても、それだけで勝てるわけじゃない。
どれほど弱そうな霊でも、どんな特殊な力を持っているかはわからない。
事前の準備をして、知恵を絞り、霊よりも賢く立ち回らなければならないのさ」
「わかったよ」
龍介は一応は納得した顔をしているが、本心からではないのは明白だ。
だから支我は、これからもことある度に諫めるつもりだった。
同じ過ちを、繰り返さないために。
口調を変えて、支我は三人に指示を出した。
「俺はマンションの周囲を調べてくる。三人は依頼人から話を聞いてくれ」
「わかったわ」
いつのまにかさゆりがリーダー格となりおおせたらしい。
一抹の不安を抱きつつ、支我はひとまず彼らと別行動をとった。
支我の予感は的中し、龍介と萌市の陣頭に立って依頼人宅のチャイムを押したのはさゆりだった。
これについては萌市も龍介も呼び鈴を押すのを嫌がったので、渋々ながら彼女の指揮権を認めたことになる。
間を置かず開いたドアから姿を見せたのは、スーツを着た若者だった。
きちんと髭を剃り、コロンの匂いをかすかに漂わせた、整った眉目の持ち主だ。
ドアを開けたら三人も立っていたことに驚いたようだったが、
落ちついた態度で龍介達を邪険に扱ったりはしなかった。
「夕隙社と申しますが、真鍋漁作さんですか? 私達に依頼をされた」
「あッ、ああ……そうだけど、君たちが本当に?」
「はい。本当に霊が出現したのかどうか、お話を伺わせていただけますか」
そして、深舟さゆりの応対に瑕疵は全くなく、彼女はあっという間に立場を確立させてしまった。
龍介とさゆりはまだ名刺をもらっていないので、萌市が出す。
名刺を受け取った真鍋漁作は、一文字ずつ確認するように目を通した。
「株式会社 夕隙社……確かに、連絡先はあっているな。しかし……大丈夫なのかい?」
三人のうち二人は学生服を着ていて、真鍋が疑うのも当然だった。
露骨に探る目つきの真鍋に、リュックサックから何かを取りだした萌市が進みでた。
「これはEMF探知機と言いまして、霊の存在を探知する装置です」
スイッチを入れる。
すると、いきなり甲高い音と共に針が振れた。
「反応があります……!」
「ま、まさか霊が居るっていうのかい!?」
それまで落ちついていた真鍋が取り乱したのも無理はないところだが、
対照的に萌市は落ち着き払っていた。
「いえ……反応があったのはこれですね」
ラジコンの操作機に似た機械を、家のあちらこちらに向けていた萌市は、やがて壁の下の方を指さした。
そこには使われていないコンセントがあり、緑色の粘液状のもので汚れていた。
「なんだい、これは」
「霊の残滓です」
「残滓?」
「はい。霊は人間が足跡や指紋を残すのと同じように、出現の痕跡を残します。
その一つがこの残滓です。東摩氏も深舟氏もよく見ておいてください」
真鍋だけでなく、龍介とさゆりも争うようにコンセントに顔を近づける。
さゆりは龍介の肩に顔を乗せるようにして覗きこみ、女の子らしい香りが龍介の鼻腔をくすぐった。
断固として拒むべきか、性格は悪くても香りに罪はないとすべきか、
全く関係ない葛藤をする龍介に、さゆりが囁いた。
「舐めてみたら」
「なんでそんなことしなきゃいけないんだよ」
「昨日舐めたじゃない」
「あれは塩だろ」
「判ったのは舐めたからでしょ。あんな床に落ちてたものを舐められるくらいなんだから、これくらい楽勝でしょ」
指で掬って舐めるフリをして不意打ちでこいつに舐めさせてやろうか。
不穏なことを考える龍介に、萌市が穏やかに告げた。
「舐めるのは止めた方がいいと思いますよ。残滓はどのような物質で構成されているか、
まだ解明されていません。人体にどんな悪影響があるか分かりませんから」
「ほれみろ」
龍介は勝ち誇ったが、さゆりは無視してさっさと身体を起こしていた。
仕方なく龍介も立ちあがった。
「霊の痕跡だなんて……それじゃあれは、やっぱり本物の霊だって言うのか……!?」
「現れた霊に心当たりはありますか?」
うめく真鍋に萌市が問いかける。
だが、青ざめた顔に信じられないといった表情を浮かべる真鍋は、答えようとはしなかった。
「困りましたねえ。話してくれないと、僕たちも動きようがないのですが」
「……そんなはずは……しかし……」
再度の質問にもしきりに首を振りながらも応じない。
相手は成人であり、強い態度に出るわけにもいかず困る三人に、外から現れた救世主は車椅子に乗っていた。
「自分の知っている人間が霊となり人を襲っている。その事実を認めるのが怖い――そういうことですか?」
「支我君」
「名前を出したら、あなたの知っている人物が霊になっているのだと認めなければならない」
支我の指摘に真鍋は、単純な計算ミスを教師に指摘された生徒のようにうなだれた。
「数日前からこの周辺で女性が襲われる事件が何件か発生しているそうです。
警察は通り魔の犯行だと考えているようですが、襲われた女性は皆犯人を見ていない。
また、彼女たちの中には寒気と異臭を感じたと証言している者もいる」
わずかな時間でこれだけ調べたのはさすがとしか言いようがない。
龍介は感嘆の眼差しで支我を見た。
「真鍋さん。おそらくあなたは、人が襲われているのを知って、俺達に除霊の依頼をしてきた……
自分の知っている人間が、これ以上人を襲うのを止めるために」
支我の結論は決定的に真鍋の肺腑を貫いたらしく、拳を握りしめ、肩を震わせた彼は、ついに重い口を開いた。
「彼女は……僕の婚約者だ」
「え……?」
「その霊は、死んだ僕の婚約者に間違いない」
真鍋の声は金属塊のように重かった。
龍介とさゆりは期せずして同時に後悔し、萌市もやや気まずそうな顔をした。
支我だけが、少なくとも表向きは一切の感情を見せなかった。
閉ざしていた門を開いた真鍋は、全てを語り始めた。
「二週間前に彼女は自宅の階段で足を踏み外して、打ち所が悪く、そのまま……」
さゆりが顔をそむける。
真鍋の話に耳を傾けながら、龍介はこれまでの彼女とは違う一面を見た気がして、
さゆりをしばらくの間見つめていた。
「葬儀を行い、火葬した日の夜、彼女が現れたんだ」
世界が暗灰色に染まり、身体が鉛のように重い。
食事も眠る気力もなく、自分の家に戻った真鍋は、ありうべからざるものを見た。
「ゆ……裕子ッ。お前、死んだはずじゃッ!?」
「戻ってきたの……漁ちゃんが心配で」
「戻ってきたって……」
「漁ちゃんはあたしだけのもの。他の女には渡さない。ずっと、あたしを……あたしだけを愛して……」
煙のように消えた彼女を、真鍋はいつまでも見ていた。
彼女が生き返ったわけではないのはわかっていた。
人の魂は死してなお、四十九日は現世に留まるという。
きっと彼女は四十九日後には成仏してしまう。
だがそれまでは彼女に会えると、この時真鍋は彼女の幽霊をむしろ歓迎した。
「それから彼女は毎日現れるようになった。現れるだけなら構わなかったけど、
マンションの管理人、近所の主婦、果てはコンビニの女の子まで、
僕が接した女性を片っ端から襲いはじめたんだ」
「なんで、そんな……」
首を傾げるさゆりに答えたのは支我と萌市だった。
「おそらく、彼女の真鍋さんに対する気持ちが強すぎたんだろう」
「霊には我々生身の人間のような理性や道徳といったものはありません。
生前に抱いていた想い、死の間際に閃いた記憶に囚われ、ただそれだけを糧に行動します」
人の思考と霊の行動という両面から、真鍋の婚約者が悪霊となってしまった理由を説明されたさゆりは、
方向を変えて彼らに訊ねた。
「襲うのを止めさせるわけにはいかないの? 除霊ができるって言うんなら、話だって通じるんじゃないの?」
「残念ながら難しいだろうな。もともと彼女には純粋な想いがあった。
だが死んでしまったことでその純粋さが仇となり、真鍋さんに近づく全ての女性を排除しようという
一念に今は凝り固まってしまっている。……斃すしかないだろうな」
斃す、という言葉にさゆりはさらに他の方法がないか訊こうとしたが、
支我はそれよりも早く事務的な口調で真鍋に言った。
「霊の出現は午前二時頃ですか?」
「あ、あァ……そのくらいだと思う」
「わかりました。真鍋さん、今日は俺達がここに泊まって除霊をしますから、
真鍋さんはどこかに避難してください」
「僕も立ち会うわけにはいかないだろうか」
真鍋の願いは当然であると思われたが、支我の口調は変わらなかった。
「申し訳ありませんが、霊を刺激する可能性がありますので」
「……わかった」
「それでは、俺達は一度夕隙社に戻って準備を整えます」
支我は言い、車椅子の向きを変えて去っていく。
萌市が後を追い、残されたさゆりは真鍋に何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わず、
頭を小さく下げると小走りに二人を追った。
最後に残った龍介も、さゆりより少しだけ深く頭を下げると、三人の後を追いかけた。
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