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「……っていう話なんだけど」
「それ本当に刑事なの? そんな奇妙な事件、ニュースで見てないわよ」
 さゆりの指摘に龍介は、彼に警察手帳を見せてもらっていないことに気づいた。
伊久がカマをかけ、自称刑事がやられた顔をしたのでうかつにも信じてしまったが、確かに証拠はないのだ。
膨らむ狼狽を押し殺して龍介は反論した。
「でも、そんな嘘をついて何のトクがあるんだ?」
「知らないわよ。私が言いたいのは、『全てを疑ってかかれ』っていうのがオカルト界隈の常識でしょ」
「む……」
 さゆりの言う通りだった。
UFOが呼べる、超能力が使えるといった取材依頼は夕隙社に毎日押し寄せてきている。
それらの大半は自己顕示欲が強いだけの偽者であり、龍介達の取材はほとんどが彼らの嘘を暴くことに
費やされていると言っても過言ではないのだ。
龍介も経験が浅い割に、やれ紙面は四ページ以上確保して欲しい、
写真はこれを使って欲しいだの要求ばかりする自称UFOコンタクティーや、
謝礼は十万円以上、それも前払いを要求したスプーン曲げができると言い張る自称超能力者に辟易させられたことがある。
それなのに刑事と言われて確認もしなかったのは、失態と言われても仕方なかった。
「そうだな……ちょっと待ってくれ」
 ノートパソコンを開いた支我が、何やら操作を始めた。
三人がなんとはなしに黙る中、彼は数分も経たないうちに何かを見つけだしたようだった。
「女性の変死事件というのが何件か引っかかるな」
「変死って、どんな?」
「詳しくは載っていないが、独り暮らしの女性が自宅で何者かに襲われて殺されている。
女性が何者かと言い争う声を聞いた人間はおらず、警察は交友関係を慎重に捜査している、だそうだ」
「偶然じゃないの?」
 懐疑的なさゆりに、支我は落ちついて答えた。
「その可能性も充分ある。だが、偶然としたら殺人鬼が何人か居ることになるし、
それに、どの事件もほとんど同じ記事なんだ。ここにあるだけで五件、犯行時間が深夜というのも共通している。
そして、東摩と楓が会った刑事が本物なら、それらは未解決ということになる」
「それは……そうだけど」
 一旦口をつぐんださゆりは、すぐに反論した。
「でも、犯人が人間なら、私達の出番はないでしょ?」
「そうだな、人間なら……な」
「支我君は何か思いついたの?」
 支我は頭を振った。
「いや、これだけでは情報が少なすぎる。だが確かに、俺達の出番ではなさそうだな。
警察が捜査している事件に関わるのは、リスクが大きすぎる」
「ねえ、さゆりちゃん達ってオカルトの出版社でアルバイトしてるんだよね?
なんだかさっきから殺人事件とか捜査とか、凄い言葉ばっかりなんだけど」
 さゆりと支我は部外者がいたことを思いだし、慌てて正体の隠滅を図った。
「いや、職業病かな。奇妙な、とか不思議な、という枕詞を聞くと、記事にならないかと反応してしまうんだ」
「そうよ、東摩君が変なことを言うから悪いのよ」
 悪者にされた龍介だが、彼らの努力を無にするわけにもいかず、曖昧に笑っておいた。
それに支我の言う通り、刑事の方から接触してこないかぎり、自分たちが関わることはなさそうでもあり、
龍介は、自分から持ち出した話を記憶の倉庫の隅っこに追いやると、秋葉原の休日を堪能したのだった。

 翌日、学校が終わると龍介とさゆりと支我の三人は揃って夕隙社に向かった。
同じクラスながら別々にアルバイト先に行くこともある三人だが、今日は校了日が近いので揃っての出勤だった。
 ところが、扉を開けると彼らを出迎えたのは編集長である伏頼千鶴ではなく、同僚の浅間萌市だった。
彼も編集部員だから居るのはおかしくないが、どうも妙なテンションだ。
「お待ちしておりました、マスター!」
 マスターというのは萌市が龍介を呼ぶ際の人称だ。
恥ずかしいのでやんわりと止めるよう頼んでみても、「いえいえ、東摩氏は僕のマスターですから」
などと意味不明な理由で却下され、慣らされてしまった次第だ。
彼が自分をマスターと呼ぶたびに支我とさゆりが無表情になるのが、龍介にはたまらなく辛かった。
「待ってたって、今日は何かあったっけ?」
「今日こそは夕隙社の科学技術部門総帥たる、この浅間萌市が執り行う、崇高な実験の日なのです」
 両手を掲げる萌市は明らかに酔っている。
「なんなのよ、さっさと校了作業を始めるんじゃないの? 実験なんてしてる場合?」
 細い身体に自信を詰めこんだ萌市の態度に、さゆりと支我も無視できぬものを感じたようだ。
三人の聴衆を前にした萌市は、宣教師のように語り始めた。
「ふっふっふ……この実験は、人類の歴史を覆すことになるかもしれないのです。無知蒙昧な輩の批判や嫉妬など怖れるに足らず」
「で、今日はどんな爆発をさせるつもりなのよ」
 萌市は少なくとも夕隙社内で実験で爆発をさせたことはなく、さゆりの一言は素人の実験に対する偏見に過ぎない。
しかし、怖れるに足らず、といったそばからいたく傷ついた萌市は、さゆりではなく隣の龍介に語りかけた。
「……マスター、今日の実験は我々夕隙社にとっても大きな意味を持ちます」
 大上段に構えた宣告に、遅まきながら龍介もさゆりと意見を同じくした。
龍介は彼専用の武器――青白く発光する、伸縮式の対霊用必殺剣ゴースト・バスターを作ってもらった恩があるから、
萌市の研究に対する批判はあまりしたくない。
しかし、何をするかよりも先に意義を語る実験にロクなものはないと、頭の各所で警報が鳴り始める。
口実を設けて逃げるべきだ――だが、理性は本能に勝り、機先を制して逃げ出せたところを、
見捨てるのは気の毒だとためらってしまう。
 数秒のチャンスはもろくも潰え、怪しく眼を光らせた萌市は、
アイドルについて語るときと同じくらい朗々とした声で演説を始めた。
「夕隙社の使命は都市にはびこる霊を撃退し、苦しむ人々を救うことである。そうですね?」
「あ、ああ、たぶん」
 彼らの社長に訊いたら即答で違うと言うだろう。
霊を撃退し、苦しむ人々を救い、がっぽり儲ける。
それこそが夕隙社の社是であり、ゴースト・イズ・マネーという、とても対外的には言えないような社訓が堂々と
社長である伏頼千鶴のデスクの背後に額入りで掲げられているのだ。
龍介よりも古株である萌市は当然それを知っているはずなのだが、彼の理想は千鶴よりも崇高なのだろうか。
千鶴は出払っているので、彼女の意見を聞くことはできなかった。
「しかし! 我々は日々霊を撃退している一方で、霊の本質についてはほとんど何も知らないのです!」
 言っていることは正しい。
だが、興奮して眼を爛々と輝かせながら近づいてくる萌市に、さゆりは一歩、龍介は半歩後ずさる。
「それはそうかもしれないけど」
 勢いを止めようと龍介は試みたが、焼け石にかけた水は魚を利しただけだった。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからずと言います。霊の本質を知れば、
夕隙社は若さゆえの過ちを認める必要もなくなり、偉大な勝利に一歩近づくのですッ!!」
「それで、具体的に何をするのよ」
 過剰な修飾にたまりかねて口を挟んださゆりに、萌市は我が意を得たりとばかりに答えた。
「僕たちの手で、霊を作りだすんです」
「……はあ。二分も無駄にしちゃったわ、東摩君、仕事を始めましょ」
 黒髪が揺れるほど大きなため息をついたさゆりは同僚を促し、龍介も頷く。
 二人の態度にも萌市は落ち着き払って眼鏡のブリッジを押し上げた。
「フフフ、僕も危険性は十分承知しています。ですから、いきなり霊を作りだすのではなくて、
まずは生霊を引きずり出してみようと思いましてね」
「生霊!? ……って、生きた霊のこと?」
「そうです。 生霊……つまり、生命体から抜け出た霊。
すべての生命体にはエーテル体をはじめとする幾つかの生体エネルギーが流れ、
肉体はそれに覆われているというのが現在の学会で主流となっている考えです。
なかでもエーテル体はちょうど肉体と重なりあって、それより少し大きく広がったエネルギーでして、
一般に言われるオーラとはこのエーテル体のことなのです。病気になるときなど、まずエーテル体が傷つき、
その後肉体の同じ箇所が病に冒されるというくらいで、つまり、それだけ肉体と密接に繋がっているわけです。
そして、肉体から離脱したエーテル体などの霊魂を生霊と呼ぶのです」
 萌市の説明はヒートアップしていく。
荒げた呼吸に薄気味の悪さを、その場にいる全員が抱いたが、萌市は怪しいボックスを目の前に置いて自信満々だった。
「エーテル体を引き剥がすだけのエネルギーを確保するのが難関でしたが、ついに完成しました。後はスイッチを押すだけです」
「待ちなさいよ、エーテル体って要は魂みたいなものでしょう?
そんなものを引きずり出して、戻れなくなったらどうするのよ。知り合いを除霊するなんて嫌よ、私」
 さゆりが心配しているのか酷いことを言っているのか、龍介には判らない。
おそらく前者であると良いなあ、と一応願っておいた。
「実験の安全は保証します! それに過去、同様の実験を行った研究者もいますし」
「シャルル・ロベール・リシェだろ?」
「さすが支我氏! ご存じでしたか」
「誰よ、それ」
 さゆりの求めに応じて支我は説明をする。
支我も萌市を止めたいのか止める気はないのか判らない。
知識をひけらかしたいだけでは多分ない、と龍介は信じた。
「フランスの生理学者であり、著名な心霊現象の研究者だ。ノーベル生理学賞と医学賞の受賞者でもある」
「ノーベル賞……!? 心霊現象の研究者がノーベル賞を取ったの?」
「ああ。シャルルはアレルギー研究の父と呼ばれる存在で、アナフィラキシーショックの研究でノーベル賞を取っている」
「アナフィラキシーショックって、アレルギー反応を起こして急激に血圧が下がるってやつでしょ?
すっごく有名じゃない。そんな人が心霊現象も?」
「そうだ。アレルギー研究にいそしむ傍ら、心霊現象の仕組みも解明すべく尽力した。
心霊現象研究協会――SPRの会長もつとめたほどだ。
彼はアナフィラキシーの名付け親であると同時に、エクトプラズムの名付け親でもある。
シャルルは当時もてはやされていたイタリア人霊媒師、エウサビア・パラディーノを調査するうちに、
エーテル体を物質化させる、半物質と考えられる物を発見したんだ。それがエクトプラズム外の物質だったというわけだ。
以降、シャルルはエクトプラズムを生成する実験を何度も行ったとされている」
「僕も彼の実験を参考に装置を組み立てたんです」
 結局、萌市の実験は行われることになってしまった。
「マスターはこの赤外線カメラでエクトプラズムを撮影してください。
スイッチを押した瞬間、僕の身体からエクトプラズムが噴きだすはずですから。
シャッターチャンスを逃さないでくださいよ」
 龍介の手にカメラを押しつけた萌市は、思い切りも良くスイッチを押した。
「さァッ、行きますよ!! 出でよ、我がエクトプラズムゥウッ!」
 唸りを立てて装置が稼働を始める。
 装置に備えつけられた計器を見ながら、萌市は最高潮のテンションで叫んだ。
「よし、いいぞッ! エーテル体が感応している、ここまでは予想通りだ!」
 赤外線モードの薄緑色の画面を通して萌市を見ている龍介には、まだ何の変化も捉えられない。
それでもシャッターチャンスを逃すまいと緊張の面持ちで画面を覗いていた。
「なッ……電圧が安定しない!? 馬鹿な、そんなはずは……」
 突如として萌市の態度が一変する。
画面を見て集中している龍介は、彼の狼狽に気づかず、横にいたさゆりと支我が気づいた時には、
もう事態は収拾がつかなくなるところまで来ていた。
「まずい、負荷が予想以上に……!」
 パン、という小さな音と同時に、室内の空気が一瞬だけ変わる。
驚いたさゆりが龍介にぶつかってきて、カメラを落とすまいと四苦八苦した龍介がなんとか持ちこたえたところで、
萌市の実験は終了となったのだった。
「三人とも、怪我はないか」
「俺は大丈夫」
「私もよ」
 支我の問いに龍介とさゆりからは返事があったが、萌市は呆然と装置を見つめている。
「なぜ……理論は完璧だったはずなのに……」
「怪我がなかったのなら、またやり直せばいいさ」
 支我は慰め、装置を片づけさせて校了作業を始めようとした。
 伏頼千鶴が戻ってきたのは、そのときだった。
「あら、皆揃ってるのね。感心感心、それじゃ早速仕事を始めてもらいましょうか」
 勤勉な若者達に上昇した千鶴の機嫌が、急降下するまでにはデスクまでの数歩を必要としただけだった。
 真っ黒なモニター画面を見た千鶴は、一言も発さずに萌市の前に置かれている装置を見やって言った。
「編集部内のパソコンが全部クラッシュしてるんだけど、萌市、あんた心当たりは!?」
「……あります……」
「どうすんのよ、校了日は明後日でしょ!?」
「ひぃィッ、すみませんッ!! この始末はつけますからァァッッ!!」
「期限は今日いっぱいよ。明日の朝一で使えなかったらその時は……解ってるでしょうね?」
「はッ、はいィィィィ、ただちに復旧を開始しますゥゥ」
 文字通りに脱兎の如く飛び上がった萌市は、環境修復のために慌ただしく動き始めた。
支我も応援に入るが、コンピュータの知識がない龍介とさゆりは手持ち無沙汰でいるしかなかった。
普段はただの会話でさえ角突き合わせずにいられない二人も、なんとなくデスクに身をかがめ、小声で話す。
「ねえ、もしかして明日は徹夜じゃないでしょうね。嫌よ、私」
「俺だって嫌だよ」
 龍介の場合徹夜自体はそれほど嫌でもないが、仕事に忙殺されるのはさすがに望まない。
「どうして無謀な実験をする前に止めなかったのよ」
「お前だって止められただろ」
「あんたの方が仲が良いんだから、友達を心配するべきでしょ」
 さらに龍介が言い返そうとすると、中年男性の声に遮られた。
「夕隙社というのはここでいいのかな?」
 聞き慣れない男に龍介は顔を上げる。
 編集部の入り口に、数日前に見た刑事が立っていた。
同じコートを着ているので見間違いようがない。
さゆりとの不毛な舌戦を中断して龍介は立ちあがった。
「刑事さん」
「ああ、君か」
 刑事は儀礼的に手を挙げる。
色めき立ったのは事情を知らない他の面々で、特に千鶴は入り口を塞ぐように刑事に相対した。
「警告なしにガサ入れって訳? いい度胸じゃない。言っておくけどそう簡単には吐かないわよ」
「何か誤解しているようだが、君たちを調べに来た訳じゃない」
「あら、そうなの? これは失礼」
「あるいは、何かやましいことでもあるのか?」
「何をおっしゃいます。私達は極めて健全な出版社ですわ」
 上手から下手へと一瞬で変貌を遂げた千鶴に、部下達は声も出なかった。
唯一異なったのは刑事で、こういった手合いには慣れているのか、表面的には一切反応を示さない。
「俺は警視庁捜査一課の田宮だ」
「捜査一課……強行犯係ですか?」
「ああ。実は今、とある殺人事件を追っているんだが、これが奇妙な事件でね。
そこの彼には先日簡単に話をしたが、彼女は今日は居ないのか?」
「ええ」
 田宮は女性を示す代名詞として彼女を使ったに過ぎず、龍介も正しく理解していた。
誤解したのは龍介の上司で、三流ゴシップ紙の編集長めいた視線で彼を一撫でする。
「あら、彼女だなんて隅に置けないわね。でも深舟の前でそんな話をしてしまっていいのかしら?」
「どうしてそこで私が出てくるんですか?」
「別に他意はないわよ」
 学校の教室レベルの会話は、刑事が苛立たしげに頭を掻いたことで中断された。
「昨日新たな事件が発生してね。もうなりふり構っていられないんだ」
「よろしければ、お話をお聞かせ願えますかしら?」
 田宮は頷き、彼が直面している怪事件を語り始めた。
「……昨日のことだ。練馬区のマンションの一室で、二十代の女性の遺体が発見された。
死因は失血死だ。そして遺体は、両目がくり抜かれていた」
 龍介とさゆりは同時に息を呑んだ。
さゆりはさらに半歩よろめき、龍介がとっさに支えようとする。
さゆりが踏みとどまったので、龍介の腕が彼女の肩を抱こうとする形になってしまったが、
それに気づいてもさゆりは何も言わなかった。
「物音を聞きつけた管理人……正確には、管理人が直接聞いたのではなくて隣人の通報を受けたんだが、
駆けつけたところ、室内に彼女が倒れていたそうだ。
その時すでに彼女の両目は失われていた。物音がしてから管理人が部屋に入るまで、およそ五分。
ドアにも外に通じる窓にも鍵がかかっていて、人の出入りした形跡はなかった。
そして、室内に落ちていた皮膚片をDNA鑑定した結果、交際相手のものと判明した」
「つまりその部屋には交際相手以外出入りしていなかったというわけですね」
「じゃあ交際相手が犯人というわけ?」
 それならばわざわざこんなところに来る必要はないと眉で言外に告げた田宮は手帳を取り出し、ページをめくりながら言った。
「彼以外に容疑者は見あたらない。だが、部屋に彼の足跡はなく、そして、彼にはアリバイがあった。
事件当夜、彼は現場から約十キロ離れた板橋区のホテルに滞在していたんだ。
ホテルの出入り口には監視カメラが設置されているが、事件当夜の映像をチェックしたところ、
容疑者は映っていなかった。それどころか、遺体が発見されたのとほぼ同時刻に、
ご丁寧にもルームサービスを利用している。彼がずっと部屋にいたと、従業員も証言しているんだ」
「窓や非常階段から外に出た可能性は?」
「当然調べたさ。窓ははめ殺しで加工された形跡も見あたらない。
非常階段を使う際には非常ベルが鳴るそうだが、その夜は鳴っていないと記録に残っている」
 手帳をしまった田宮は、若者達ではなく千鶴を見据えて肩をすくめた。
「正直な話お手上げでね。たまたまマジックをしていた、楓君と、この……東摩君だったか? に会って話を聞いたというわけだ」
 話を聞き終えた千鶴は、煙草を取りだしたが、まだ火は点けない。
「もう一度確認させて頂きますわ。犯人は痕跡を残さず部屋に出入りしたり、換気口など狭いところから侵入したという、
困難ではあっても常識の枠内で犯行を行った形跡はない――と現在の捜査では判断されているわけですわね?」
 千鶴は彼がここに来た意義を確認したに過ぎない。
だが、田宮刑事はいかにも渋々と頷いた。
「承知しました。では、常識外が専門の我が社の考えをお伝えしますわ」
 手にした煙草に火を点けた千鶴は、部下の一人に訊ねた。
「この容疑者が犯人だとして、支我、あんたならどんな可能性を考える?」
「テレポーテーション、ドッペルゲンガーに幽体離脱あたりを」
「そうね、そんなところね。テレポーテーションは瞬間移動と訳される通り、
瞬時に別の場所に移動する超能力です。世界各地で現象例が報告されていますが、
今のところ、任意で好きな場所に移動できたという報告はありません」
 千鶴の解説は淀みない。
「次にドッペルゲンガー……バイロケーションと言ったりもしますが、
これは同じ人物が複数の場所で同時に目撃される現象を指します。
これも自在に起こせるという研究結果は未だなく、そもそも現象の定義が、
その人本人が瞬間移動して複数居るように見えたのか、それとも本当にその人が二人存在したのか、
あるいは幽体離脱に近い状態で、当人のアストラル体のようなものであるのか、それさえはっきりしていないのです。
今回の事件においては、テレポーテーションか霊体か、で考えれば良いと思いますわ」
「幽体離脱なんて、本当に可能なんですか?」
 さゆりの問いに、千鶴は短くなった煙草を灰皿に押しつけて答えた。
「方法は昔から研究されているわ。十九世紀末、ウィリアム・ウィン・ウェスコット主導の下、
『英国薔薇十字協会』」会長のウィリアム・ロバート・ウッドマン、ならびに天才魔術師マグレガー・メイザースらによって
イギリスで設立されたフリーメーソン系魔術結社『黄金の夜明け団』は、インド由来の『タットワの技法』を駆使して
アストラル段階と呼ばれる霊魂を肉体から分離させる方法、つまり幽体離脱の方法について研究していたわ」
「何だか凄そうですけど、でもそれは百年以上前の話ですよね?」
「実験は最近も行われているわ。アメリカの東部、ヴァージニア州にモンロー研究所というのがあるのだけれど、
そこは一九七〇年代にロバート・モンローという学者が発見した、
『ヘミシンク』という技術で体外離脱を実現する方法を研究しているのよ。
モンローは音響の研究を重ねるうちに体外離脱を度々経験するようになって、
その経験を元に『ヘミシンク』技術を確立したの。『ヘミシンク』の原理はバイノーラルビートという音響技術に基づいているわ。
左右の脳に別々の周波数の音を聴かせることによって、低周波の音波を意図的に発生させ、その結果、
変性意識状態を作りだすことで体外離脱を促す仕組みよ。
モンロー研究所では今もヘミシンク・セミナーが行われているし、『ヘミシンク』状態を作りだすための音源も発売されているわ」
 千鶴の長広舌を聞き終えたさゆりは、もっともらしく頷いてから言った。
「東摩君、わかった?」
「へ?」
 最初のテレポーテーションやらドッペルゲンガーあたりまではなんとか理解できたが、
そこで精神が遊離してしまった龍介は、さゆりの不意打ちに反撃さえできなかった。
 不勉強な部下を千鶴は軽く見やったが、説教は後回しにして、オカルト雑誌の編集長たるだけの知識を披露した。
「とにかく、絵空事のお話ではないって事ね。もっと最近では、そうね……二〇〇二年には『ネイチャー』に論文が掲載されたわ。
脳の『右角状回』を電気刺激することにより体外離脱体験が起きた、というものね。
これをきっかけに体外離脱は脳の機能によるものという仮説が一気に脚光を浴びたわ。
そして、二〇〇七年にはスウェーデン・カロリンスカ研究所のグループによって、
幽体離脱同様の体験を引き起こす脳の領域を特定したとする研究結果も発表された。だけど……」
 ここでこれまで黙って聞いていた支我が口を開いた。
「ネイチャーの論文に関するニュースなら、僕も何かで読みましたよ。そのスウェーデンの研究に関しても。
でもあれらは結局、脳のとある部位に刺激を与えることで、幽体離脱によく似た『錯覚』を引き起こすという実験だったのでは?」
「そうとも言い切れないわ。臨死体験における幽体離脱現象については、
単なる錯誤や錯覚では説明のつかない体験が数多く報告されているし、それ故に『脳内現象説』だけでは説明がつかない
という指摘も、各方面から出されているのが現状よ。空中から自分の肉体を見下ろす体験や、
遠く離れた場所のものを正確に把握する能力の実在を、『錯覚』の一言で片づけていいのかしら?
私はこう考えているわ。脳内には肉体と霊魂とを結合する部位があるんじゃないかって。
肉体と霊魂の統合を、オンしたりオフしたりすることが可能な領域が脳に備わっている、とすれば……?」
「だとすれば、脳に電気刺激を与えることで、幽体離脱現象を自在にコントロールすることが可能になりますね」
 編集部内には現在、コンピュータの復旧をしている萌市を含めて六人が居るが、議論は千鶴と支我の間だけで交わされていた。
 ほとんど外国語に等しい会話を辛抱強く聞いていた田宮刑事の忍耐は賞賛に値しただろう。
二人の会話が途切れた絶妙のタイミングで、彼はそれでも冷静に告げた。
「盛りあがっているところすまないが、さっきから何の話をしているのか、さっぱりなんだが」
「要するに、犯人は幽体離脱することで、離れた場所にいる女性を殺したのかもしれない、ということですわ」
「そんな、馬鹿な……」
「これがいわゆる霊能力者でなければできない、というのなら仰るとおり馬鹿な話でしょう。
しかし、特殊な機械を用いて人為的に幽体離脱を起こせる可能性がある。となれば話は別。違いますか?」
 田宮の顔が一瞬で引き締まる。
霊能力だの超能力だのでは彼の出る幕はなかったが、物証があるとなれば、事態は彼の領分となる。
「……実は、不可解な事件が起こったのは今回が初めてじゃないんだ。
このところ、若い女性の変死体が相次いで発見されていてね。いずれの遺体も身体の一部を持ち去られているんだ。
なにしろ犯行の手がかりが見つけられない状態なので、発表すればパニックになると思ってまだ公表はしていないが」
 支我が腕を組んで言った。
「しかし、犯人が幽体離脱可能なのだとしたら、犯行を証明するのは限りなく困難ですね」
「そうとも限らないわ。私の推測が正しければ、幽体離脱をするための機械を犯人は持っているでしょうし、
それで幽体離脱が再現できれば、犯行の証明になるでしょう?
そして犯人が一時的にでも霊になったのなら、霊は現場に痕跡を残していくでしょ?
痕跡を辿ることで、犯人を突き止めることも可能だと思うわ」
 千鶴は田宮に向き直る。
「田宮刑事。霊の痕跡を調査するために、被害者の家と参考人が事件発生当時利用していたというホテルを
調べてみたいのですが」
「殺人現場に一般市民を、それも未成年を連れていけと言うのか? 犯人が様子を見に来るかもしれないんだぞ」
 もしこの子供達に何かあれば、責任問題では済まなくなる。
難色を示す田宮に、しかし千鶴は動じなかった。
「だとしたら余計、私達が行った方が良いと思いますわ。普通の犯人なら田宮刑事の仰るとおりでしょう。
でも相手は幽体離脱を行える可能性があります。私達が居なければ危険だと思いませんか?」
 む、む、と唸った田宮は、提案を渋々承諾した。
「……仕方ないな。だが、被害者宅に入るのは必要最低限の人数にして、調査する時間も可能な限り短くしてくれ」
 彼の出した条件は当然であり、今度は千鶴が軽く眉を寄せて思案する。
そこに、復旧作業をしながら、聞き耳をずっと立てていた萌市がやって来た。
「ま、待ってください、僕も調査に参加させてくださいッ!」
「……あんた、復旧は?」
「こんなにも知的好奇心をそそられる事件が起こっているというのに、指を咥えてみていられますかッ!
徹夜でも何でもしますから、どうか、どうかッ!!」
 業務に支障を来しまくっている萌市を参加させるのは教育面から良くない。
一方で警察に対して貸しを作れるのは大きい。
両者を天秤にかけた千鶴は、グラム単位の微妙な結果を慎重に見極めてから結論を下した。
「駄目よ」
「そ、そんなァッ」
 雑巾を絞ったような悲鳴を萌市は放ったが、千鶴は聞く耳を持たなかった。
「支我、あんたは萌市に代わってコンピュータの復旧をしなさい。
それから萌市、あんたは大至急ヘミシンクについて調べて、幽体離脱装置を開発しなさい」
「……!! は、はいッ!! ただちにッ!!」
 しおれたもやしのようだった萌市は、日光を一身に浴びた向日葵さながらに背を伸ばすと、
階下にある自分のラボへとすっ飛んでいった。
「大丈夫なのかね?」
「ええ。彼は信用できますわ」
 刑事が来る前に装置をひとつ壊したばかりだとはおくびにも出さず断言した千鶴は、残る二人にも指示を与えた。
「東摩に深舟。あんた達は田宮刑事について被害者宅とホテルを調べなさい。どんな小さな痕跡も見逃すんじゃないわよ。
それと、犯人はいつ、どのように出現するか分らないわ。くれぐれも注意するのよ」
 千鶴の警告に頷いた龍介とさゆりは、慌ただしく準備を始めた。



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