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二人の装着しているインカムに、支我からの声が聞こえてくる。
「二人とも、待たせたな。後片づけをして撤収しよう」
「そうね」
勢いよく立ちあがったさゆりが、急に身震いした。
「寒いわね……まだ霊の影響があるのかしら」
「何しろ数が多かったからな、そうかもしれない」
相槌を打つ龍介の横で、ノートパソコンを再び起動した支我が、
画面に表示された温度の数値を見て眉を曇らせた。
「温度マイナス六、七……まだ低下中だ。これは普通じゃない」
「どういう事……? まさか、霊がいるの?」
「その可能性が高い。温度の低下が尋常じゃない、気をつけろ……
今までに例のない強力な霊の可能性がある」
顔をしかめて立ちあがった龍介は、寒気が強くなっていく場所――
すなわち、悪霊の発生源である、汚水が一時的に貯められる場所へと向かった。
さゆりと支我も後に続く。
三人共の吐く息が白くなり、さゆりはずっと身震いをするようになる。
わずか数十歩の間に、これほど急激に気温が低下するのは、初めてだった。
開けた空間に着いた龍介が、下を見る。
貯水槽と思しき空間に、巨大な霊がいた。
直径で三メートルは優に超える、いびつな球状をした霊は、
向こう側の空間が透けて見えないほど濃い、苔に似た緑色をしている。
その表面には腕未満の、枝のような何かが生じては消え、消えては生じていた。
さらに、別の場所には大きな泡が弾け、その後には人の顔めいた隆起が生まれている。
冒涜的ともいえる、生理的な嫌悪感をかきたてるものがそこにはあった。
通常、霊はほとんどの人間には視えないが、この霊はもしかしたら、
多くの人間に視えてしまうかもしれない、異常な気配がある。
慄きつつさゆりが発した声が震えていたのは、寒さのせいだけではなかった。
「な、何これ……これも霊なの……!?」
「おそらく、偽の東摩が言っていた、複数の霊の集合体だろう」
「集合体だなんて……本当にありえたの?」
「欲望や未練を残して死んだ者が霊になるが、年月が経つと次第に自我を失って
欲望や未練だけに執着する存在になる。そして、似た欲望や未練を持つ霊が集合し、
巨大化するケースは過去数例確認されている」
支我の声は冷静さを失っていないが、額には汗が滲んでいる。
龍介は黙したまま、二人の会話を聞いていた。
「まさか、これが目的だったの……? こんな怪物を生み出すことが?」
「さあな。……それよりも、一度後退して態勢を立て直そう。俺達だけではとても対処できない」
支我の提案は妥当であり、さゆりは頷いて後退しようとした。
「いつまでも見てたってしょうがないでしょ。支我君の言うとおり、一度後退しましょう」
「……あいつ、こっちを見てる」
「え?」
さゆりは目を細めて龍介が指差す先を視た。
そこに眼球らしきものはない。
龍介の気のせいではないかと訝しんだとき、球体から蝸牛の眼のように柱が突き出て、
その先端にある眼球がさゆりを睨んだ。
「きゃッ……!」
生気はなく、意思も感じられない。
映すもの全てを憎む、ただ邪悪な眼球に睨まれて、瞬間的な立ちくらみを起こした
さゆりは危うく転落しそうになった。
「危ねぇッ!」
とっさに龍介がさゆりを抱きとめる。
よほど怖かったのか、さゆりは龍介を強く掴んだまま離さなかった。
さゆりを庇うように眼との間に立ち、龍介は告げた。
「こんな奴外に出したら大変なことになっちまうぜ!
萌市を呼んでくれ、あいつの武器じゃないと倒せねえ。それまで何とか時間を稼ぐ」
「どんなに急いでも三十分はかかる。武器のチャージも切れているし、疲れているその身体では無理だ」
「武器は予備の鉄パイプがあっただろ。なんとかするさ」
根拠のない断言に支我は即答しなかった。
あの悪霊の危険性は全く未知で、龍介一人に立ち向かわせるのは危険極まりない。
かといって、悪霊を地上に出してしまえば、確かに被害は想像もつかない。
自分の主張を通すか、龍介の提案を呑むか、支我は迷った。
「……萌市か。緊急事態が発生した。すぐに荒川区に来てほしいんだが、何分で来られる?」
萌市が一時間以上かかるようなら、一度退く。
そう決めて萌市に連絡をとったところ、萌市はちょうど撤収して戻るところであり、
すぐに移動を始められるという。
遅くても四十五分以内には向かえるということで、支我は決断した。
「三十分だ。三十分だけ時間を稼いでくれ」
「ああ、わかった」
「……本当にやるの? あの霊は普通じゃないわよ」
まだ服を掴んだまま、さゆりが囁く。
言い方が挑戦的でなく、龍介を案じるようなものだったので、龍介も反発はしなかった。
「危ないから、二人は離れててくれ」
言いおいて龍介は階段を駆け下りていった。
下の階は寒さと硫黄臭が一層強くなっていたが、それだけではなかった。
さゆりをよろめかせた、邪悪な気配が霊から強烈に放たれていて、
龍介でさえ平衡感覚を失いそうになる。
霊が動きだす前に、龍介は床の四隅に清めの塩と霊封じの札を置いた。
どちらも霊験あらたかなものではなく、気休め程度でしかないが、効いてくれれば儲けものだ。
それらの処置を施してから、龍介は集合霊に近づいた。
霊は球体を保っていたが、それは全体としてという意味であって、
球体の表面は泡ぶくのようなものが生じ、弾け、
あるいは人の顔やら手めいたものが突きだしては消え、一瞬たりとも同じ形をしてはいない。
視ているだけでも気分が悪くなる、濁った緑色の集合霊は、龍介が近づくと、
さゆりを萎縮させたものと同じ触眼を本体から数本生やして反応した。
龍介は鉄パイプを構える。
この大型の悪霊に対して、五十センチほどの長さしかない鉄パイプはいかにも頼りなく思えたが、
今はとにかくこの武器で立ち向かうしかない。
目の前の霊から元の人間の意識めいたものは感じられず、濁った欲望ばかりが放散されていた。
説得などまったく無意味だろう。
邪霊に五歩まで近づいたところで龍介は駆けだし、
上段に振りかぶった鉄パイプを、一気呵成に振り下ろした。
ほとんど抵抗なく霊体を両断した龍介は、そこからさらに水平に薙いだ。
十字に斬られた霊体は、絵の具のついた筆を水に溶かすように、その姿を薄れさせる。
だがそれは一時のことで、すぐに霊体は濃さを取り戻した。
しかも、一回りほど大きくなっている。
「ちょ、ちょっと……効いてないの……!?」
「周辺から霊を喚んでいるのか?」
「倒せるの、こんなの!?」
上方からのさゆりの悲鳴が、かえって龍介を冷静にさせた。
剣を握りなおし、間合いを詰めていく。
どのみち龍介にはこの戦い方しかないのだ。
龍介はもう一度振りかぶり、振り下ろした。
斬撃は球体の十分の一ほどを切断したが、大して有効打になっていないらしく、
邪霊は回転しながら表面に触手を生みだし、龍介を狙った。
「……ッと」
大きく避けた龍介は、一旦距離を取る。
人型でない霊の攻撃はどこから来るか予想しにくく、もう少し丁寧に立ち回る必要があると感じたのだ。
とにかく、霊はこちらに反応したので、後は引きつけて時間を稼げばいい。
体力が続く限り、一撃離脱を繰り返せば三十分位なら持ちこたえられるだろう。
一度深呼吸して、龍介は再度邪霊に挑んだ。
徹底した一撃離脱が効を奏して、龍介は邪霊をこの場に留め置くことに成功していた。
戦闘が始まってから十五分ほどが過ぎているが、疲労以外にダメージを受けてはいない。
霊は龍介の踏みこんで斬り、離脱するという戦法に全く対応できておらず、
龍介に斬られてから反撃をするばかりで、それにさえ気をつければ楽勝とさえいえた。
油断などではないが、この繰り返しでいけると確信した龍介は、
気づかぬうちにわずかに緊張を緩めていた。
それはむしろ、筋肉の硬直を解く効用があり、龍介はさらに数度悪霊を切り刻む。
相変わらずすぐに回復する球体に、軽い舌打ちを放って再び斬りかかったとき、
突如として球体の表面に人の顔が浮かんだ。
「……ッ!!」
ひとつではない、何人かの死顔が一斉に龍介を見る。
それらの眼に瞳はなく、見た、というのも錯覚かもしれなかった。
だが、無表情の顔に見られる不気味さに、やや思考が単純化しかけていたのが重なって、
龍介は驚き、立ち止まってしまった。
その瞬間、邪霊から触腕が伸びてくる。
全く無防備な龍介の身体を、眼球がついた腕が貫いた。
「がッ……!!」
急激な冷気と痺れ、そして、怨念が龍介を襲う。
生きたい。死にたくない。悔しい。恨めしい。怨めしい。妬ましい。痛い。寒い。苦しい。
辛い。悔しい。憎い。許せない。
あらゆる負の情念にまさぐられ、記憶が侵食される。
東摩龍介そのものが、別人の記憶に書き換えられていくのは、たとえようもなく恐ろしいものだった。
楽しかった思い出はもちろん、辛い過去でさえも個人を構成する大切な記憶たりえる。
それを穢されるということは、人格の喪失と同義だった。
電池の切れた玩具のように、龍介は倒れた。
「東摩君ッ!!」
「東摩ッ!!」
さゆりと支我が同時に叫ぶ。
明らかに危険な倒れ方をした龍介に、声まで凍えていた。
立ちあがらない龍介に、さゆりは置いてあった予備の鉄パイプを手に取る。
駆けだそうとしたところで、支我に腕を掴まれた。
「待て深舟、何をする気だ」
「決まってるでしょッ、東摩君を助けるのよッ」
「落ち着けッ、被害が増えるだけだ、萌市を待つんだッ」
「だってッ」
「そうだ、来るんじゃねえぞ」
支我の制止を振り切って走りだそうとしたさゆりの足を急停止させたのは、
インカムから聞こえる掠れた龍介の声だった。
さゆりが手すりから身を乗り出すと、鉄パイプを杖に、なんとか龍介は立ちあがっている。
「こいつの側にいるだけで精神が消耗する……支我の言う通り、被害が増えるだけだ。
俺一人でやる」
「そんなボロボロで何言ってんのよッ」
さゆりの言うとおり、龍介がもう戦える状態でないのは明らかだった。
さかんに頭を振っていて、今にも再び倒れそうだ。
安堵を押し殺して、支我が状況を確認した。
「大丈夫か、東摩」
「あんまり大丈夫じゃない……っぽいけど、もう少し持ちこたえてみせるさ」
インカム越しに龍介は虚勢を張った。
強力な磁場を持つ霊と接触したからか、身体のあちこちが内側から痛い。
おまけにだるさと吐気もして、攻撃どころではない。
「退がりなさいよッ!」
「足止めが必要だろうが」
「カッコつけてんじゃないわよ、馬鹿ッ!!」
「うるさいな、別にカッコなんてつけてねえよ」
なお言い募ろうとするさゆりの機先を制して、龍介はインカムに話しかけた。
「どれくらい倒れてた?」
「五、六秒だ」
「KO負けはしてねえか」
支我は龍介の冗談、あるいは強がりに応じる代わりに、最新の情報をもたらした。
「今萌市が入り口に到着した。もう少し耐えてくれ、東摩」
「もう少しって、どれくらいよッ!!」
さゆりの悲鳴に、通信の範囲に入った萌市が直接答える。
「ガンのチャージも含めて七分くださいッ」
「七分なんて遅すぎるわッ、もっと急ぎなさいよッ!!」
「そんなことを言われても……」
萌市が開発したプロトンガンは、夕隙社の所有する対霊用装備の中では最大の威力を誇るが、
充電に時間がかかるという弱点がある。
これは努力ではどうにもならない問題で、さゆりにも解っているのだが、
ピンチに際してはいかにも頼りなく思えてしまうのだった。
八つ当たりされている萌市に内心で謝りながら、龍介は再び武器を握った。
「支我、萌市が来たらすぐに撃てるように誘導する。その時は頼んだぜ」
「了解した」
いつもと同じ、冷静な応答は龍介を満足させたが、それだけでは終わらなかった。
「……龍介。危ないと思ったらすぐに退がるんだ。いいな、絶対に無理はするなよ」
「了解」
答える龍介の頬が緩んでいる。
なかなかどうして、支我は士気を鼓舞させる方法を知っているらしい。
たかだか呼ばれ方が苗字から名前に変わっただけとしても、
それは確かに龍介の気力をわずかながら回復させたのだ。
「――よし、もういっちょいくか」
鉄パイプを握りなおして龍介は集合霊に対峙した。
集合霊は龍介を球体そのもので取りこむつもりなのか、本体ごと龍介に近づいてくる。
その動きは緩慢ながら、先程の一撃がかなり効いていた龍介の身体は、思ったように動かない。
伸びてくる触腕を避けようとして、身体ごと倒れてしまった。
「東摩君ッ!!」
「龍介ッ!!」
支我とさゆりの悲鳴が龍介を、インカムと直接の両方から撃つが、龍介は立ちあがれない。
攻撃を避けられた集合霊は焦るでもなく、憎むべき対象を探し、
発見すると、今度こそ負の情念の虜囚にしようと触腕を伸ばした。
触腕の先端が龍介に触れる、その瞬間だった。
触腕の中程を、軌跡が見えるほどの鋭い突きが貫いた。
彗星にも似た閃光が消えたとき、触腕は両断され、消失していた。
上から見ていた支我とさゆりは、突然現れた人物に驚いたものの、それが誰かはすぐに判った。
全身上から下まで白ずくめのスーツを着ている人間には、たった一人だけ心当たりがあったからだ。
「なッ、なんであなたがこんな所にいるの?」
「決まっているじゃないか――霊と戦うために、だよ」
呆然と呟く階上のさゆりに手を振ってみせたのは、昨日知り合ったばかりの白峰勇槻だった。
「ボクは女性を襲う霊をこの剣で葬るためにあの三人と手を組んでいたんだが、
彼らの振る舞いはボクの美意識には耐え難い醜さだったからね、別れることにしたのさ」
「待って、訳が分からないけど……とにかく、あなたにも霊が視えるの?」
「もちろん。この鉄の剣は世の中の女性を護り、邪悪を断つためにあるのさ」
再び近づいてきた集合霊を、華麗な剣さばきで撃退した白峰は、
やはり呆然としている龍介に手を差し伸べた。
「さあ、そこのキミ、立てるかい?」
「当たり前だ」
膝が笑い、全身が軋んでいたが、龍介は意地で立ちあがった。
白峰は踵をつけない軽やかな動きで邪霊に近づくと、足を半歩踏み出し、鋭く剣を突きこんだ。
「ウゴアゴアアアッ!」
攻撃を受けた霊が反応し、本体から触腕を伸ばして反撃したときにはすでに遠く離れ、
別の部位を攻撃している。
それは我流で剣を振っていた龍介は衝撃を受けるよりない、本格的な剣術だった。
回避と攻撃が一体化し、予測不可能な邪霊の攻撃すらたやすく躱している。
彼一人でも問題なさそうにも見えたが、やはり、白峰の攻撃をもってしても、
この巨大な集合霊には有効打となっていないようだった。
それならば、と龍介は鉄パイプを握り、霊を挟んで白峰の反対側に回る。
白峰のようには技量的にも体力的にも動けないのは自明だったので、
足を止め、闇雲に鉄パイプを振り回した。
当たっていることだけを確認し、振り下ろし、斬り上げ、薙ぎ払う。
触腕が伸びてくれば回避せず、当たるに任せて触腕の根本を狙ってこれを斬る。
龍介一人であったなら、たちまちやられてしまうような戦い方だったが、
多くの霊の集合体だからといって、複数の敵に対処できるわけではないらしく、
なんとか龍介は倒されずに攻撃を続けることができた。
そして遂に、長かった戦いも終わる時が来た。
プロトンガンのチャージを終えた萌市が現れたのだ。
「龍介、萌市が到着した。いけるか、萌市」
「はいッ!! ロックオンまで十秒くださいッ!!」
重いプロトンガンを担いで全力で走ってきた萌市は、
息も絶え絶えになりながらも集合霊に向けて銃を構える。
「よし、二人とも、こちらでカウントするから避けるんだ、いいなッ! 十、九、八……」
支我のカウントダウンと同時に、龍介と白峰は最後の攻勢に出た。
龍介が払い、白峰が突き崩して霊を押しこむ。
自在に形を変えられる集合霊が、二人の勢いに圧されて円形に戻ったのと、
支我のカウントがゼロを数えたのは同時だった。
「――ロックオン完了、発射ッ!!」
二人の間を極大の輝きが貫く。
床に伏せる暇もなく、転がる龍介の視界は白一色に染まった。
身体のどこをぶつけているかも判らぬまま、何度も転がる。
そのまま立ちあがることもできず、ひたすら霊が居たとおぼしき方を見ていた。
「霊体反応消滅。除霊完了だ」
支我の冷静な声が、龍介が見ている光景を追認する。
どうやら悪霊を退治できたという安堵に、龍介は床に突っ伏した。
「ちょっとッ、どうしたのッ!?」
「疲れただけだ」
「びっくりさせないでよ、心配したじゃない」
金切り声が耳に障るくらいには疲れていた龍介は、さゆりがため息とともに漏らした言葉を聞き逃した。
「ん? 何か言ったか?」
「言ってないわよ!」
ああそうかい、と返事をするのも面倒で、いずれさゆりが叩き起こしに来るであろうまでの間、
そのままの姿勢で休もうとした。
だが、首都を大パニックに陥れたかもしれない危機を防いだ男の、ささやかな願いは、
ほんの十秒ほどしか叶えられなかった。
「素晴らしいッ!!」
いやに熱心な拍手の音が、インカム越しでなく、直接耳に聞こえてくる。
しかもその拍手は、うっとうしいことに龍介の方に近づいてきた。
仕方なく龍介が顔を上げると、そこには目に優しくない白いスーツがあった。
回避する暇もなく床に転がった龍介に対し、純白のスーツに染み一つつけずに避けた白峰は、
まだ寝転がっていたい龍介を手ずから立たせ、埃まで払ってやった。
「実に華麗な勝利だったよ。戦いとはかくあるべきだ」
疲労のため返事もできない龍介の、一方的に手を握る。
「フランスにはこういう言葉がある。愛する事――それはお互いを見つめ合う事ではなく、
共に同じ方向を見つめる事である」
無表情の龍介に頓着せず、左手を胸に当て、右手を広げた白峰は、俳優のような趣で言った。
「ボクが探していた伴侶とは、キミたちの事だったのかもしれない」
真顔でとんでもないことを言い出す白峰を無言で三秒見つめてから、
龍介はやってきたさゆりの方に頭を回転させて訊ねた。
「おい、伴侶って奥さんって意味だよな? 使い方間違ってないか?」
「女から見た場合でも使っていいのよ」
「というか、パートナーという意味だな、本来は」
「ボクの剣をキミに捧げよう。どうか、受け取ってくれたまえ」
囁きかわす龍介とさゆり、そして支我に構わず、白峰は剣を差し出す。
意味が解らず、また考える気力もないまま龍介は剣を受け取った。
すると、白峰はうやうやしく跪いたかと思うと、龍介の手を取り、甲にくちづけをした。
「……!?」
騎士が忠誠を誓う姫の手の甲にキスをするとか、
どこかの国の挨拶でそんなようなことをするとか、知識としてはあったけれども、
頭の中と実際に体験するのとでは全く意味が異なるのだと龍介は思い知った。
あの数週間前の、華山兄弟にもたらされた悪夢と較べたら数段マシではあったが、
同性からキスをされるという衝撃は、龍介に浅くない精神的外傷となって残っていたのだ。
「それじゃ、また会おう」
龍介が致命傷を受けたなどと知る由もなく、白峰は優雅に去っていった。
彼が口づけた手の甲を擦りながら、龍介はぼんやりと後ろ姿を見送っている。
「何ぼーっとしてるのよ」
「あ、いや……なあ、最後何て言ったんだ?」
ぼーっとしていたことを誤魔化そうと、龍介は訊ねた。
さゆりの返答は冷たくつれないものだった。
「私が知るわけないでしょ」
呆然とする今の龍介にはその冷たさが快い。
理性を回復した龍介がやれやれと頭を振ると、噛みつきたそうな顔でさゆりが見たが、
支我が計ったようなタイミングで割って入った。
「アヴャント……あれも別れの挨拶だな。
オルヴォワールよりは近いうちに会おうというニュアンスらしい」
「支我君、フランス語わかるの?」
「まさか、今調べたのさ。……おっと」
支我のスマートフォンが鳴る。
短い返事を数度交わし、通話を終えると彼は二人に告げた。
「今社長から連絡があった。都内各所に警察や消防が総出動しているらしい。
面倒になる前に全員撤収だ」
公平に見て、龍介達は混乱が拡大する前に事態を収拾した立役者であり、
感謝されこそすれ、逃げるように撤収する必要など本来はないはずだ。
とはいえ霊は視えない人のほうが圧倒的に多く、
彼らからすれば龍介達は怪しげな武器を振り回して怪しげなことを言う連中に過ぎず、
もしかしたら龍介達こそが混乱を引き起こした首謀者であると疑われかねない。
報酬を心の支えにして、支我の言う通り速やかに帰るのが最善だろう。
「……っと、対霊用剣を回収しないと。すぐ済むから、先に行っててくれ」
「了解した」
「早くしなさいよ」
戻っていく支我とさゆり、それに萌市に手を上げて、
龍介は倒れたときに落としてしまったスティックを拾いに行った。
スティックはすぐに見つかったが、思っていたよりもダメージは深く、
そこまで歩いていくのに時間がかかってしまう。
肩を借りれば良かった、と思いつつも、萌市は龍介よりも疲れていそうだったし、
支我に頼むのは難しく、さゆりに借りたら百年先まで言われかねなかった。
スティックを拾いあげた龍介は、萌市が乗ってきた左戸井の車まで戻ることにする。
たかだか数百メートルが天竺よりも遠く感じられたが、
あまり遅いとさゆりから文句を言われるだろうから、可能な限りの速さで歩いた。
施設の出口近くまで来たところで、前方に人影が現れる。
自分たち以外に人などいるはずがないと思いこんでいた龍介は、
女性のシルエットからさゆりが何かの理由で戻ってきたのだと思い、何も警戒せずに近づいていった。
「そこの人!」
龍介を呼び止めたのは、さゆりではない、浅黒い肌をした少女だった。
何かの制服を着ている少女を、龍介は厄介だと直感する。
彼女の着こなしにはある種の緊張感が漂っており、それ以上に、大きなアーモンド型の眼が、
全く油断なく龍介を注視していたからだ。
龍介の直感は、少女の次の一言で確実なものとなった。
「どうして民間人がこんな所に?」
「あ、えっと……迷っちゃって」
虎の前に迷いでた兎のように、軽薄な民間人を演じる龍介の脳裏に、緊急警報が鳴り響いている。
他者を民間人と呼ぶのは民間人ではない者で、
彼女が着ているのは消防や救急の制服ではないのだから、おそらくは警察だろう。
目つきの鋭さからもその可能性が高く、事情を訊かれれば大変にマズいことになる。
今さら逃げだすわけにもいかず、腰に差した対霊用剣が見つからないよう龍介は祈った。
少女は龍介から目を離さず、さらに問いかける。
「……そうですか。ここで何かを見ませんでしたか?
その……不審な物体や不可思議な光、あるいは現象などを」
一転して口ごもり気味な彼女の質問に、龍介は戸惑った。
彼女はここで何があったか知っている。
少なくとも、龍介達が倒した存在については把握している。
霊退治という仕事を恥じてはいない龍介も、おおっぴらに語れるものではないと理解はしている。
だが、口ごもる龍介に、少女の目つきは一層鋭くなり、
適当な言い逃れではこの場をしのげそうにもなかった。
「そういえば、何か光ってたみたいだけど」
「本当ですかッ!? それはどのような色で、どのような光り方をしていましたか?
できるだけ詳しく教えてください!」
「そ、そんなはっきり見たわけじゃないから……ただ、緑色っぽくて、割と大きく光ってたな。
あれは一体何だったんだろうな?」
少女の反応は、UFO研究家――それも、科学的に研究しているのではなく、
宇宙人と会っただのUFOを喚べるだのと主張していた輩のような食いつき方だった。
虚と実を適度に織り交ぜながら、龍介はボロが出ないよう話す。
二人からの呼び出しがあればすべてが水泡に帰すので、
緊張しつつ離脱のタイミングを必死に測った。
失敗した、と思ったのは、もうひとり現れたときだ。
迷彩服を着た大柄な壮年の男は、短く刈りあげた頭髪といい、
少女よりも五割ほど険しい眼光といい、どうみても一筋縄ではいきそうにない。
いっそ全力で逃げようかとも考えたが、この鍛えた男から逃げきるのはまず無理だろう。
「どうした、何か問題が発生したか」
「隊長! はい、いいえ、この学生から事情を訊いていたところです。
ターゲットを目撃したと。細かな点も一致しております、間違いはないと思われます」
「ふむ……あの規模では民間人に目撃者が出るのもやむをえんか」
渋面を作った隊長と呼ばれた男は、渋面のまま龍介に向き直った。
「すまんが、ここで見聞きしたことは一切多言しないでもらえるかな。我々の存在も含めて、だ」
龍介は無言で何度もうなずく。
威圧的な口調もさることながら、ここは余計な口はきかず、さっさと撤収するに限る。
そう考えて踵を返すと、目の前に男が立っていた。
「――!!」
龍介が驚いたのは、演技などではなかった。
いくら隊長との会話に集中していたとしても、これほど近くに人が立つまで気づかなかったのだ。
最近ついてしまった癖で、とっさに攻撃しそうになるのを必死で自制する。
ここで手を出したりしたら、取り返しがつかなくなる。
龍介の挙動を冷めた眼で見ていた、新たに現れた男は、
愛想笑いをする龍介に、誤解しようのない侮蔑を吐き捨てた。
「邪魔すんじゃねえよ、民間人」
彼もまた、少女と同年代――つまり、龍介と同じくらいの年齢に見える。
異なるのは凄みで、迷彩服を着崩した格好と、なぜか首にかけているヘッドホン、
それに定規のようにまっすぐ立っている少女と比べると、「磁場が狂った場所」と言われる
オレゴン・ヴォルテックスにいるかのようにいいかげんに立っているにもかかわらず、
襲いかかってくるものにはすぐさま反撃しようという態度を隠しもしない。
もし龍介が先に手を出せば、たちまち制圧されていただろう。
敵意とまではいかないものの、隔意があからさまな少年に、
どう対応したものか龍介が迷っていると、先に隊長のほうが彼に話しかけた。
「姿が見えなかったが、どこへ行っていた?」
「小便で〜す」
龍介に対してとは全く異なる、軽薄な口調で彼が答える。
それに反応したのは隊長ではなく少女の方で、真剣としか表現しようのない顔に、
くっきりと嫌悪を浮かべた。
「ふんッ、隊の面汚しが」
「何だよ、お前だって小便くらいすんだろう? それともお漏らししちゃうのか?」
「貴様ッ!!」
激昂した少女が構えを取る。
少年の方も余裕ある態度を崩さないまま、龍介を無視して仲間と思われる少女の方を向いた。
「ふたりとも止めろッ!!」
隊長の叱責が轟くと、少女は居住まいを正し、少年も見るからに嫌々ながら言い争いを止めた。
「そ、それじゃ俺はこれで」
仲間割れを始めたこの期を逃してはならないと、
龍介はやたら頭を下げながら彼らと距離を取り、安全圏に達するや否や全速力で逃げだした。
彼らは追っては来ず、龍介を安堵させる。
龍介は怪しまれずにこの場を去ることだけを考えていたので、
つい今しがた険悪だった彼らが、龍介が見えなくなるまで、
揃って背中に鷹の視線を注ぎ続けていたことを知る由もなかった。
龍介が去った方向に軽く頭をかしげて、少年が言う。
「帰らせちゃっていいんすか?」
「ああ……今はまだいい。正当な理由なく民間人を拘束するわけにはいかんからな」
顎に手を当てた隊長は、低く呟いた。
「お前達も覚えておけ。あれが夕隙社の連中だ」
「……! やはり、拘束したほうが良かったのでは?」
「あんなヒョロっとした野郎、軽く絞めあげればすぐに吐くんじゃないっすか?」
少年と少女の提案を、隊長は是としなかった。
夕隙社には動機がない――今のところは、まだ。
彼らが東京の闇に紛れて霊を退治して回っているとしても、
それ自体は罪ではなく、また、警察ではない自分たちが民間人を拘束したとなると、
かなり大きな問題となるのだ。
太い腕を組んだ隊長は二人に言い聞かせるように、その実自分に言い聞かせるために独語した。
「もし、自らの欲望のために国を脅かそうとするなら、断じて許すわけにはいかん。
彼らがそうなのかどうかは、いずれ明らかになるだろう」
組んだ腕を解いた隊長は、二人の部下に指示を与えると、
再び腕を組み、彼らが的確に任務を遂行する光景を、黙って見守った。
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