大嫌いなやつが天上へ選ばれた。
昨日、大嫌いだったやつが天上へ行った。
あいつの何もかもが嫌いだった。何もかもが、自分とは違いすぎた。
いつも誰かの憐れみを欲しがってた。
誰にでも悪態をついた。自分は不幸だと叫ぶものを、誰が好きになるだろう。
あいつは何回もの冬を越えて生きた。
あいつは雌で、自分は雄だ。想像もつかないことをして生きてきたという。あいつの毛並みは長く縺れていて、複雑な灰色をしていた。蒼に近い、くすんだ色。全身を覆う、ただ一色の毛並み。そんなささいなことさえ違う。
誰もがあいつを嫌った。やさしい猫でさえ、みんな。
もちろん、俺もあいつが嫌いだ。
本当は、嫌ってさえいなかった。興味がなかった。
違いすぎて、同じねこだとすら思わなかった。ごみのようだと思った。
一生、彼女と向き合うことなんてないと思っていたんだ。
その雄猫のことは、とても好きだった。
「おい」
呼ぶと、彼は急いで振り返る。目の前の事柄より、彼を呼んだ自分に応えることを彼は優先する。今も、彼は走ってこっちへやってくる。今、一番気に入っている友達だった。
「ギル!」
その慌てたしぐさに、いつも満足させられる。
小心そうな、あいまいないつもの顔。息を弾ませる黄色い猫は、つい一瞬前までは灰色のグリザベラを前にして、いつもと同じまぬけ顔を晒していたというわけだ。
暑くも寒くもない日だというのに、しっぽのおさまりが悪い。しゃっと振るうと、三毛のしっぽは側にあった花を叩いて、黄色い花弁を頼りなく震わせた。はらりと一枚が落ちる。
不愉快に思うのも、心配するのも当たり前のことだった。グリザベラと、このギルバートとを同じ顔で見るなんて、そんなことを他の猫がしたらただじゃおかない。
「何話してた?」
「別に、何にも」
そうか、とため息とともに吐き出す。尾の先だけをぱたぱたと動かす。
真昼の公園はにぎやかだったが、木陰の多い入り組んだ場所を選べば、猫よりでかいののいない場所を、なんなく見つけられる。
日陰になった地面はしっとり湿っていた。虫も草の芽も、柔らかい土を食んで縦横に身体を伸ばす。
そこかしこに、小さな生き物の気配が濃い、猥雑な季節だった。花は美しく咲き乱れ、それを目当てにニンゲンがいつもより多く訪れる。今も、猫ではないこどもの声が甲高く空気を引き裂いた。
もう、何も言わない。
ただ、不愉快さを隠さずにいると、彼はいつものように慌ててこっちの機嫌をうかがいだした。
「本当に何にも。彼女は何か言ってたけど、僕には話すことなんてないから。
……心配しないで。大丈夫。同情なんてしてないよ」
こぶりな耳が、後に寝てしまった。
黄色いしっぽといっしょに、眉尻がいつもよりますます下を向く。
背の高い完成した体つきに似合わず、こどもみたいに高くて丸い声を持つ猫だった。焦ると、彼はただでさえ高い声の、語尾を掠れさせた。可愛げのあるやつだった。ひとの機嫌を取るのがうまい。
「お前は優しいから」
本当は、彼がどんな猫なのかまったく知らない。
「来いよ」
彼の名前も知らない。
彼が教えないから。こいつが思い出さないから。
あるいは、教えたくないから。
それでもいい。猫は自由だ。
気まぐれを封じたら、猫でなくなる。
自分にだって、彼にいわないでいることくらいある。彼にも当然、、あるだろう。それだけのことだ。別に、隠し事なんて知りたくない。
「ギル、おもしろい物をみつけたよ。あれ、たぶんギルも見たことがないものだと思う。でも、ここでは出さない。彼女に見つかったらつまらないもの。
ふたりだけのひみつ」
「なんだよ」
耳打ちのくすぐったさが背中までざわざわ毛並みを逆立てる。
でも、さっき感じたしっぽの収まり悪さは溶けてなくなった。そんなつもりじゃなかったのについ、笑ってしまう。
ひみつ。
本当は、住処を同じくしている彼に隠し事なんて、自分はひとつも持っていない。
けれど、彼にはたくさんのひみつがある。今もまた、ひとつ誤魔化された。
あの黄色い猫とグリザベラが、他の猫の目を盗むようにして語り合っていたのは、あれはいつだったか。
そして昨日の夜。ジェリクルムーンが輝く、一年で一番重要な晩に、灰色のグリザベラがまたあらわれた。彼女は、いつものように恨み言を吐き出しにやってきたのだと思った。誰にも聞かれない繰言を、地面に撒いていくのだと。
――なんだ、これ。
彼女は罵らなかった。
ただ、なつかしいと繰り返す彼女の言葉を、誰もが固唾を呑んで聞いていた。
警戒心と、軽蔑とを隠さずに彼女を睨みつけていた猫、彼女に心を寄せていながら、周りを気にして近寄れず、後ろ暗さにうつむく猫。彼女を恐れて、毛並みを膨らませる猫。
自分はといえば、興味がなくて、ただ、物陰でごみに寄りかかっていた。
いつの間にか、周りの猫たちの張りつめていた緊張が、別の空気へと摩り替わる。
視線が、彼女へ、グリザベラへ引き寄せられる。初めて見つめる彼女は、ぼんやりと曇っていた。
頬を、かるく擽っていくものがある。
彼女の話をただ聞いていただけなのに、どうして自分は泣いているのだろう。
天上のラッパが高らかに吹き鳴らされる。
夜空が裂け、光が濁流となり猫たちの頭上になだれおちた。
どんな高い建物の上にあってもふれることのできない白雲が、今だけ地上へ降りてくる。天上の迎えがやってきたのだ。
初めて触れる天上の雲。
それだけで、毛並みがわきたつほどの興奮を覚える。嬉しさがとめようもない。
頬にはりつき、汚していた涙をさわやかな風が吹き払っていく。一瞬だけ雲は、地上の猫たちをも包み込んだ。
ぞくぞくと背筋を這い登る畏れに、思わず、肩をすぼめて自分の手を見た。何もしなかった手。
さっき初めて、彼女に触れた手。
なんという光だろう。
暖かな津波がなにもかもを光の波の底に飲み込んでしまっている。
それは、やがて潮が引くように消えていくことだろう。
地上に留め置かれるのがふさわしい自分だが、せいいっぱい首を伸ばして晴れやかな彼女を見送った。
となりに感じる黄色い毛並みがあたたかい。
彼は最初、まるで初めて見るもののようにおっかなびっくり腕を伸ばして、片手で雲に触れていた。そして濃い雲母のなかに頭から飛び込み、誰よりも光に全身浸かって、忘我の顔をしてみせた。
思わず、罪悪感を吹き消して笑いがこみあげる。
彼は、もう何度もこんな光景を目にしているだろうに。
ふと、気付いた。
彼は何度もこの光を浴びているのだ。
この前の年、その前の前の年、ずっと前の最初のジェリクルムーンを、彼は見上げたはずなのだ。
自分がうまれてはじめて浴びたジェリクルムーンの光を、彼はいったい、何度目と数えたのだろうか。
彼女のことなど、どうでもよかった。昨日、天上へ彼女を見送るまで、まったく気にかけたことはなかった。
彼女を見つめていたのは、いつだってあの黄色い猫だった。
――どうして、お前はそんなにグリザベラにかまうんだ。
視線をそらさず、黄色い毛並みを膨らませて威嚇しながら、けれど彼らはもうすこしで触れあいそうになる。
どうして、あんなやつが気になるんだ。
俺に名前も教えないくせに、どうしてあんなやつと話したりするんだ。あの時、公園で、本当は何を話してた?
どうして急にいなくなるんだ。
傷一つ作らず戻ってくるくせに、一晩中、一日中、どこに行ってるんだ。あてなんてないはずなのに。
どうして作り笑いばかりするんだ。
本当は怒っているのか、悲しんでいるのかわからない。誰を好きで、嫌いなのか。
名前を教えてほしい。
お前は誰なんだ。
「行くな」
黄色い猫は、切れ上がった目じりの裂けるかと思うほど丸く瞳を見開いて、驚きを露にした。ルール違反を嗜める顔をしていた。
天上への道しるべは消えうせて、普段どおりの街が朝もやにつつまれていた。昨晩の奇跡は、もう跡形もなく片付けられてしまって、いつもどおりの町並みが無表情にそびえている。
黒く伸びたアスファルトの道も、数時間後の喧騒を思わせない静寂にのみこまれていた。動くのは、猫が二匹だけ。
猫たちの集会場をぬけて、自分たちのねぐらに背を向けて、黄色い猫はどこへ行こうとしたのだろう。
「どこへ行くんだよ。ここにいろよ」
「ギル? 離して」
「俺は、お前に話したいことがあるんだよ」
グリザベラを選んだ夜が明けて、まだ強くなりきらない朝陽が薄くそこらじゅうを照らす中、彼はふと猫のいない場所を選んで歩き出した。それを追いかけて、捕まえた。
彼の腕を掴み、望みを口にしただけのはずが、どうしてかばつが悪くて彼の顔を正面からみられない。それでも、彼を開放することはしなかった。
ジェリクルムーンに続いて、はじめての経験に、心臓が早鐘を打つ。誰かを引き止めるなんて、したことがない。彼の不愉快そうな顔に、気付かされた。
顔色を窺ってたのは彼だけじゃない。
自分も、彼のいいように、無言で動かされていた。
彼が何をしても何も聞かない、見ないふりをする。そうしないと、呆れた、馬鹿にした顔を彼がするから。
本当は、彼のほうがずっと年上だ。
対等でいたいから、彼にこどもっぽいわがままと思われそうなことは言った事がなかった。
何一つ捕まえていない。
だれも黄色い猫がどんな猫かを知らない。
「話したいんだ。昨日のこと。どうして、俺はこんなに」
涙のあとが残ってやしないかと、片手で頬をこする。もう一度腕を強く握りなおすと、彼は嫌に痛そうに眉をしかめた。
天上へ行ったグリザベラのことなど、名前以外に何も知らない。
彼女がどんなふうに生きてきたのか、また、どうしてあんなに憎まれるようになったのか。
グリザベラと同じくらい、この黄色い猫のことを知らない。
彼女の歌に涙が出た。
彼女の寂しさに胸を突かれたからだ。
寂しさを分かち合ったからだった。
グリザベラはそれを受け入れ、なおひとりで歩いていくことを示した。自分はそうではない。だから今、地上に残されている。
彼のことを、何も知らない。
気付くと隣にいて、嵐の晩はふいにいなくなる。他の誰とでも仲がいいくせに、自分と一緒にいるところを他の猫にみせたがらない。
名前を言いたくないならそれでもいい。
ただ、何を考えてる? 本当は辛いのか、楽しいのか苦しいのか。
自分が昨日、初めて共鳴したグリザベラの想いを、彼はいつもどんなふうに見つめていたのか。
誰にでもいい顔をするくせに、どうしてそんなに、自分を隠してばかりいるんだ。
孤独ばかりをかこっているんだ。
どうしても知りたいと、いつも思っていた。
『次の日』