ふくろうさえ巣に引き返す深夜に、猫はぽっかりと黒い目をひらいていた。

猫がテリトリーの中に隠し持つ、いくつものねぐらのうち、もっとも涼しい場所にあるひとつ。涼風が、茂った草を波だたせながら通り過ぎていく。猫達は葉影に隠れていた。茎のほとんどない、背の高い長い葉は、猫達を隠す壁にも、ひんやり冷たい寝床にもなる。踏み固めた草は、二匹分。長い草はしんなり地面に折れている。

風が止まる。
一つの影が身を起こした。黒い目が光る。
彼が身動きするたび、三毛の毛並みがさらさら鳴って静寂を乱した。

暗闇の中で彼は、何者かに責めたてられているような不安な気持を胸に秘めつつ、なるべく音を立てずにそっと歩いた。背中を丸めて、いつもの儀式を始める。鋭い刃物が、隠された場所から取り出された。

「あぶない!」

黄色い毛玉が鞠のように跳ねて、ギルバートにぶつかった。
マキャヴィティは物騒なものを持った三毛猫へ抱きつき、後から羽交い締めた。

「うわ、なにすんだ、お前!」
「ギルこそ、なにをするんだ。しっぽを落す気?」
「こ、これは…」

ギルバートは、ふと抵抗をやめた。
三毛猫のギルバートは、小柄だけれど頑強な身体つきをしていた。猫いっぴきを背負って、軽くそれを振り回せる程度に。

マキャヴィティはギルバートの首ねっこにかじり付いて、なんとか落とされずにいた。ギルバートがおとなしくなっても、刃物を握った三毛猫の手を凝視しながら、マキャヴィティはもう一度腕に力を込めた。
二匹の猫が暴れたせいで、月を天井にしたねぐらには土埃が舞っている。静かにうなだれるギルバートの額を、背後から覆いかぶさる自分のそれへ引き寄せ、頬をくっつけながらマキャヴィティは優しく問い詰める。

「どうしてこんなことしたの? ギルらしくないよ」
「違う。自分を傷つけようとしたんじゃない」

マキャヴィティが彼の額の上に置いた掌を、そっと外してからギルバートはうつむいた。

「じゃあ、どうして。隠れるみたいにこそこそして……本当に、そんなのギルらしくないから」
「しかたないんだ…」
「ギル?」
「だって、……お前は犬が嫌いだろう?」

その言葉を聞いて、マキャヴィティはギルバートを突き飛ばした。
盛大な土煙を上げつつ地面にスライディングしたギルバートが顔を上げると、口の中まで真っ黒だった。

「何するんだよ! いくら俺が犬だからって、そんな態度はないだろう!!」
「へえ、犬?」

あの堅物のマンカストラップにまで、盛大に騙され担がれからかわれた。屈辱だ。その時を思い出して、マキャヴィティは憮然とする。仁王立ちになって三毛猫を見下ろした。犯罪王に対峙するギルバートは、身体の前面だけ三毛猫ではなくなっていた。
みすぼらしい土色の猫は、ぺっぺっと泥を吐き出しながら、口のなかに指を突っ込む。吐き出しても吐き出しても、なお口の中でじゃりじゃりする異物を掻き出そうと、必死で指を動かしていた。

ギルバートの、泥にまみれた指には細い三日月型の爪が仕舞われている。小さい頭、しなやかな体つき、土がまぶされているけれども、左右で色の違う、大きな耳。
長い尻尾。

「どこが? ギルのどこが犬なの?」
「俺は猫に似ているらしいからな…お前が騙されるのも無理はない」

ギルバートは、ふっとニヒルな笑いを飛ばし、遠い目をした。
その彼のどこを見ても、普通の猫と違うところは見当たらない。ただ、いつもはなんてことないと見逃していた彼の体の中で、強いて言えば…

「あれ、ギルの尻尾ってそんなに綺麗だったっけ?」

ゆらゆら揺れる三毛の尻尾は、まるで長老やグリザベラやタガーの長い毛並みのように、折からの涼風に吹かれて波立った。

他の場所よりふかふかした尻尾を背中側にくるんと丸めて、ギルバートはマキャヴィティの目をまっすぐに見る。

「隠しててごめん。俺、犬なんだ」

ギルバートは胸の前に前足をそろえ、口から舌を突き出しハッハッと強く息を繰り返す。
丸めた尻尾を、秋田犬のように振るっている。

マキャヴィティは、頭痛を覚えて強くこめかみを押さえた。






ギルバートは、生まれてすぐに自分が他の犬と違うということに気付いた。
まず、身体が小さい。
力が弱い。
他の犬に軽々とできることが、ギルバートにはできなかった。
そのくせ、幼いときから跳力は跳びぬけていて、逃げることだけはだれより上手かった。そんな自分をギルバートは恥じた。

「まわりはちょこっとギルバートを避けてるなうん。しかし気にすることはない。他の犬よりちょっと身体が小さくてちょっと力が弱くて体力もなくて役立たずなだけじゃ!
妖精のとりかえっこでも、お前がいい子だというだけでわしは満足じゃぁ」

両親のないギルバートの、唯一の育ての親である長老犬は、いつもそう言ってギルバートを慰めてくれた。笑みを含んだ慈悲深い瞳に、ギルバートは感謝を感じないことはなかった。

ギルバートも、努力しなかったわけではない。他の犬のようになろうと、自分を鍛えた。腹筋、背筋、スクワットを一日100セット行い、日本料理屋からくすねてきた携帯用の調味料入れに砂を詰め、両手に握り締めながら上下させることを日課にしていた。

捨てられているラジコンカーからタイヤを外し、腰に括りつけた紐でそれをひっぱりながらうさぎ跳びもした。鍛錬をどれほど続けただろうか。

トラックに顔から突っ込み、もうだめだ、これ以上一歩も動けないと音を上げそうになる、そのたびに、星の灯り始めた夕暮れへ長老犬の顔を思い浮かべて泥の中から這い上がった。

しかし血を吐くほどの努力をしても、ギルバートは自分より遅く生まれた群のもっとも力の弱い小さな犬よりもっと力が弱く、小さかった。そして、どの犬よりも高く飛びあがれた。

ギルバートが側に寄ると、犬たちはあからさまに彼を避けてどこかへ行ってしまう。そして影でこそこそ何かを言ってるようだった。

「しかたないんじゃよー」

長老犬の慰めだけが、自分のポリクルにさえ疑問を抱くギルバートを、暗闇の淵から助けあげてくれた。彼は口癖のように言っていた。

「わしが死んだら、お前はどうか猫の群にまじっておくれ。それだけがわしの遺言じゃあ」
「なんでだ? 俺は犬なんだから、猫の群にまじったらへんだろう」
「え、うん、いやそれはそうなんじゃけれど」
「第一、犬が一匹だけ猫の群にまじったら、目だってしょうがないじゃないか。犬を猫だと言って、騙されるまぬけはひとりもいないと思うぞ。じいちゃんは本当に無茶なことを考えるなあ!」
「そ、そうじゃな…」
「そうにきまってるだろう。本当にじいちゃんは無茶だなぁはっはっは」
「そ、そう? うふふ?」

「あいつ、猫のくせになんで群にいるの? 長老は何がしたいの?」
「よくわかんないけど、ギルバートって猫のくせにワンとか言ってて目が真剣でまじ怖い…」
「あんまり関わらないようにしようー……」

尻尾を巻いてこそこそ逃げていく犬たちの会話が、マキャヴィティには手に取るように想像ついた。

「急にこんな重大なことを告白されて、お前が戸惑うのも分かる。そして、どんな理由があれ俺がお前を騙していたことは確かだ。
許してくれ、マキャヴィティ」
「はぁ…いやなんと言いますか……」

大きな黒い瞳をカッと見ひらいたギルバートは、自責のあまり武士や忍者みたいに今にもハラキリしかねない勢いだ。この生真面目なひとに、騙されてたのはあなたのほうですよと言ってやっていいものか、犯罪王はちょっと迷っていた。

なんだか納得させるまで、とても手間がかかりそうだったからだ。視線が暑苦しく追いすがってくる…。

「なんでそんなにかたくなに、自分が犬だと思いこんでいるのかなぁ」
「マキャヴィティ…現実から逃げ出したいお前の気持はよくわかる。しかし、目を見ひらいてよく見つめるんだ!
俺はどこからどう見ても犬だろう?!
むしろ、俺は今までマンカストラップたちが騙されていてくれたのが信じられないくらいだ」
「逆に俺はどうしてギルバートが騙されていられたのか…いや、ギルバートだからしょうがないか」

マキャヴィティは、ギルバートにむかってちょっと笑ってみせた。
「その長老って、きっとオールドデュトロノミーみたいなやつだったんだろうなぁ。違う?」

長老って、長く生きてるぶん退屈してるのか、ろくなことをしない。

マキャヴィティにはわかる。
ギルバートの言う、その長老犬の目がつねに笑いを含んでいた意味が。





君は猫だって! いや、俺は犬だ! という不毛なやり取りを100回ほど繰り返しただろうか。お互いの息が上がる前に東の空は明らみ、曙色がほのぼのと地平線を照らし始めたのみならず、陽射しがじりじり照りつけるどうみても正午の時間になって、やっとギルバートは自分の存在意義に疑問をさしはさむに至った。

「というと、お前から見ると、俺はものすごく猫っぽく見えるんだな?」
「猫っぽく見えるというか、猫なんだよ?
犬だといわれるよりは、まだライオンですと言われたほうがマシ。同じ猫科だし」
「しかし、俺は犬としてずっと生きてきたんだ」

犬として生きるための、つらい修行の日々を思い出して、ギルバートは遠い目をした。

ギルバートが唯一の庇護者である長老犬と別れたのも、丁度こんな暑いさかりの日だった。

「ギルバート…」
「じっちゃん! じっちゃん、気がついたか? 目がさめたか?」
「ギルバート…わしゃあもうだめじゃ」
「何を言ってるんだ。弱音を吐くなじっちゃん」
「歳も歳じゃし…」
「歳くらい、根性でなんとでもなる!」
「いやまあ、そうかもしれないが、とりあえずわしの遺言を聞いておくれ」
「根性だ! 根性があればなんとかなる!」
「ギルバートは、ひとりぼっちになってしまう。それだけがわしは心残りじゃ。犬の中にいても、きっとギルバートは幸せになれない」
「根性で立派なポリクルに!」
「そこでじゃ。
わしがいなくなったら、ギルバートは素性を隠して猫の群に混じるといいと思うよ」

ギルバートは、瞳がこぼれおちてしまうかと思うほど目を見開いた。

「猫の中に犬が混じったらすごく目立つぞ? ものすごーく目立つと思うぞ?! いくらじっちゃんだって、無茶をいうなよ」
「なんとなーくじゃが、ギルバートが猫にまじってもバレないような気がするんじゃ。なんとなーくだけどね。きっとできる。ギルバート、おじいちゃんに約束しておくれ。いつかお前が強くなったら、犬の群に戻ってくればいいじゃないか。
 約束しておくれ。わしがいなくなったら、とりあえず猫の仲間になると……」
(もう死にそうなんでいいかげん納得してくれんもんかのう……)

「そのじいさんにも、少しの良心は残ってたんだな」

ギルバートは、自分より高い位置にあるマキャヴィティの頬を殴りつけようと拳を飛ばした。
それをひょいっと避けながら、マキャヴィティは教えてやる。

「ギルバートは最初から猫だったんだよ。その長老犬がよけいなことしなきゃ、ギルバートは小さなときから悩まなくてすんだし、もし犬のなかにいたままだったら、今生きていない。
ギルは猫だ。もう、自分の尻尾の毛並みを剃るなんて面倒なこと、しなくていいんだよ」
「でも、猫はこんなに太いしっぽ持ってないだろう?!」

もう一度頭から土にのめるこんだギルバートは、また茶褐色の猫になりながら、金色の猫を振り返った。
涼しい顔をしたマキャヴィティは、つやつやした毛並みを見せ付けるように長い指先で肩を払った。金色の毛並みに、埃ひとつ着いてはいなかった。

「ギルは、長毛種の血が混じってたんだね。ちっとも気付かなかった。
尻尾だけだけど、まるでグリザベラやタガーみたい。
あのね、ギル。犬のしっぽは確かに猫のより太いんだけど、それは毛並みが長いんじゃなくて、芯が太いんだ。
ギルバートのはどう触っても、俺のと中身はかわらないだろう」

自分のしっぽを握らせながら、マキャヴィティは「ね、」と小首を傾げた。
覗き込まれたギルバートは、まじまじと目の前のしっぽと友達の顔を見比べる。
むずむずとぶちのある口許を落ち着かなく動かしているのは、いかにマキャヴィティといえど急所のしっぽを握られるのがいたたまれないからだろう。
そして、彼の差し出した尻尾は、確かにギルバートのふさふさした尻尾と比べて、骨のぐあい、そこにまつわる皮膚の感じと、毛並みの長さ以外はとても似ているような…

「ああっ! 俺は猫だったのか―――――!!!!」

どうりで猫に似てると思った―――というギルバートの絶叫に、羽を休めていた黒あげはが花の上から飛び立っていった。






「知らなかった―――――っ!」
ひとしきり叫び終わったギルバートは、自分の身体についた土を払い落としてくれているマキャヴィティの旋毛に向かって、ふとつぶやいた。

「嘘はつかれたけど、じっちゃんはやっぱり俺の恩犬だ」
「ふうん?」
「両親のいない俺を代わりに育ててくれた。猫の群に置いていけばよかったのに」
「ほんとおーに、そうだよね」
「自分だって差別されても、俺を手放そうとはしなかった。じっちゃんがいなければ、やっぱり俺は今ここにいない」

命がけの道楽。
マキャヴィティにはそう思えるのだが、ギルバートにはまた別の意見がある。

「いいひとだったんだ。本当に」
「そうなんだ(こいつまだ騙されてるよ…)」

ギルバートは力強く頷いた。
跪いてギルバートの汚れを落としてくれるマキャヴィティが、つまらなそうに打つ相槌を、ギルバートは気にしなかった。白けた顔をしているようで、いつでも話を聞いていてくれる相手だからだ。

そんなわけで、太陽がビルの向こう側に顔を隠し、秋を思わせる風がジェリクルムーンを差し招くころ、自分のことを犬だと思っていた猫は初めて罪悪感なしに猫たちの集会に顔を出したのだった。

 

『Dogs 2』
2008.11.02
Nさまありがとうございました!
『DOGS 2』は、Nさまの言ってくださったことを元にして書かせていただきました。本当はもっと面白いことをいっぱいおっしゃってくださっていたのですが、あの時メモしておかなかった自分に今ツッコミを入れたいです。
絶対にもっといっぱいエピソードがあった気がするのですが、でも断片ながら書かせていただいて楽しかったです。ありがとうございました。

ここまで読んでくださった方にも、ありがとうございました!
どなた様も、もうすぐやってくるワンワンワンワンの日をどうぞぬかりなくお迎えください。

ちなみに去年のワンワンワンニャンの日にUPした前編はこちらからどうぞ→■ おっぱっぴー。