猫の毛色はさまざまだ。
ギルバートの身体には、黒い毛並みの中、海にうかぶ小島のように朱赤や白が散る。マンカストラップは黒と白の縞模様が柔らかい首筋や腹にまで及んでいるし、ジェニエニドッツは赤の勝った黄色の毛並みをしていた。他にも黒、赤、青みがかった灰色と、猫たちの個性を挙げればきりがない。滅多にいないのは、ヴィクトリアのようなソリッドだった。ミストフェリーズは、黒い毛並みのなかに白銀の一房が気取った飾りのアクセントをつけている。黒にせよ白にせよ、黄色にせよ、一色のみで全身を覆う猫は珍しい。
ギルバートの親友であるその猫も、黄色い毛並みに茶色のぶちを隠していた。特に口許にはりついたそれは、彼の表情と印象を曖昧にし、ますます彼を目立たない猫に見せていた。普段は、多くの猫のなかに混じると、長身にも関わらず集団に埋没してしまう猫だった。普段は……
けれど久しぶりに出会うその黄色を、ギルバートは群の只中からひと目で見分けて、息を呑んだ
ギルバートと一緒に、集会場にやってきたコリコパットが叫ぶ。
「お前、一体何をどうしてそんなに肥えてるんだ―――――!!!!!!」
ギルバートは、素直なコリコパットの言葉を硬直したまま聞いていた。
まず、腕。骨がないように柔らかくしなって、踊ると女性より女性的に見えた長細い腕に、岩のように筋肉が盛り上がる。長い両脚も同じことだった。
腹は相変わらず6つに分かれている。けれどその逞しい形の上に、うっすらと脂肪が乗って腹のラインに柔らかさを添えていた。彼が屈むと、かつては決してなかったぜい肉が、腹に段を作る。首が、顔と同じくらい太い……
ギルバートは、穴のあくほどその猫を見つめた。コリコパットは、一言叫んだら気が済んだらしく、もう他の猫たちと遊びに興じている。
しばらく集会に顔を見せなかった黄色い猫が、すこし見た目を変えていたことに、ギルバートほど衝撃を受けた猫はいない。マキャヴィティはギルバートの黒瞳を覗き込んだ。
「ギル」
「……」
「ギル、どうしたの」
「…………」
ギルバートは、自分がなぜこんなに脂汗を流しているのかわからなかった。他猫のこと、それも外見に口を出すなんて、恥ずべきことだ。
――なんで、そんなに太ってるんだ……
それでも、どうしてもショックから立ち直れなかった。
猫は、他の動物より並外れて美醜感覚が鋭い。誠実であろうと努める真面目なギルバートも、例外ではなかったらしい。
「あぁ……」
たぷんと黄色い毛並みの下が波打つ、ふっくら肉付きのよい腕を思わず捕らえてしまってから、ギルバートは気の抜けた悲鳴を漏らした。かつての友達は、長身にも関わらず威圧的な雰囲気を欠片も持っていなかった。今は、それなりにそれがある。高い位置から見下ろされると、ギルバートでさえ息がつまる。
「俺、太ってない…」
マキャヴィティは、ギルバートに腕を取られたままぼそっと抗議する。
「嘘をつくな……俺がいない間に、どぶ鼠1匹ぶんも太りやがって。いったいどんなことしたらそんなふうになるんだ」
「太ってない! 強くなっただけだ!!」
ギルバートは、はあっとため息を漏らした。
「わかった。もういい」
「なんだよ、それ」
「お前がそういうんなら、しかたない」
マキャヴィティが、目に涙をためて「うわぁああああん!」と、叫びながら走っていった後も、ギルバートは呆然としていた。
――あんなに、綺麗だったのに。
しかしギルバートの自制も、マキャヴィティの我慢も、ほんの数分しか持続しなかった。
気まずそうに戻ってきた雄猫の腕を、ギルバートは勢い良く掴んで、片手を上げさせたまま左右に揺すった。黄色い毛並みに包まれた二の腕の肉が、ぶるぶると震える。ギルバートは、それを人差し指と親指で挟んだ。
「な、なにするんだよ!!」
辱めを受けたマキャヴィティが、また鳴き声を立てる。
ギルバートがきつく握っていた指の力を抜くと、彼は明らかにほっとした顔をした。開放された腕を、身体で隠すように肩をすくめて、ギルバートに背中を向ける。背の高い彼の背中の、背骨の下にギルバートの視線は引き寄せられた。形の良いと思われる丸みの上に、薄くとろんと肉が垂れた尻を、掌で叩く。盛大な破裂音がして、マキャヴィティが今度こそ叫んだ。
「ぎゃっ!」
黄色い猫は両手で尻を押さえて飛び上がる。
ゴミ捨て場にどよめきが湧きおこったが、ギルバートは聞いていなかった。
――ふにゃってした……
以前、同じ事を彼にした時の、張り詰めた固い感触を思い出し、そして今の感触と引き比べ、ギルバートはまじまじと自分の掌を見つめる。
――指の間にまで、ふにゃってなった。
振動が、水に浮かぶ波紋のように尻肉をたぷんと揺らした。こんな柔らかい感触は知らない。
「お前、太った、な」
「ふとって、ない!!」
「いや、明らかに太った。どう考えても太ってる…」
「身体を鍛えたから、太ってるように見えるだけだ!! 俺がちょっと前より逞しくてかっこよくなったからって、嫉妬するのはやめろよ!」
「デブ。
デブデブデブ!!」
「デブじゃないって言ってるじゃないか! このチビ!」
「!」
集会のさなかだというのに、ギルバートと黄色い猫のふたりは取っ組み合いのけんかを始めた。ちなみに、群の中にギルバートより小さな雄猫は、ミストフェリーズしかいない。
「あんなに言い争うくらいなら、隣に行かなきゃよかったのに……」
誰かが指摘する。もっともなことだった。たがいの肉体的欠陥を声高に指摘しあうという、醜い争いを繰り広げていたふたりを、群のおとなたちは興味深く、遠巻きに傍観した。
「ギルバートって、……ああいうやつだったっけ」
コリコパットだけは、少し面白くなく思う。
「デブ! デブデブデブ! デーブー!!」
「ギル。自分の言ってる事を、恥ずかしく思わないか?」
ついにマキャヴィティの声に、軽蔑が篭もる。
聞いたことのない彼の声に、ギルバートは一瞬で興奮を冷やされた。他の猫たちのつきささるような視線を、今更のように意識する。自分に乗りかかるマキャヴィティのわき腹を、精一杯叩いて蹴っていた手足を、ギルバートは地面に降ろした。いきなり動きを止めたせいで、発散されない熱がだるさを伴う苦痛と変わって全身を苛んだ。
ギルバートがおとなしくなったのを確認して、長身のマキャヴィティは颯爽と立ち上がった。
「俺、…すまなかった」
ギルバートは、地面に尻をつけたまま広い背中を見上げる。
猫は美醜感覚が並外れて鋭い。
それなのに醜いと面とむかって罵倒されることが、猫にとってどれだけ心を削ぐ行為であることか。今まで、自分以外の誰かの美醜など気に留めた事もなかったから、ギルバートは気付かなかった。
三毛の毛並みの埃を払うのも後回しにして、立ち上がったギルバートはマキャヴィティをまっすぐ見つめてもう一度謝った。自分の全部を使って、一生懸命謝る。
「ごめんな」
罵倒を繰り返したギルバートと違って、黄色い猫が吐いた汚い言葉は、喧嘩を始める直前の、たった一言だけだった。
「ギルはちょっと、俺に干渉しすぎだよ。俺がどんな見た目をしていようと、ギルに指図される謂れはないだろう。違うか」
「すまん」
「……」
「でも、お前、もうちょっとこう…」
「しつこい!!」
太ったせいでか、前よりずっとふてぶてしく見える顔を怒らせながら、マキャヴィティはギルバートに背をむけて大股で去っていった。取り残されたギルバートに、同情の目をむける猫はいない。
「待てよ!」
これ以上面白いことがないと知って、さわさわと崩れていく猫たちの輪の中から、ささやき交わす声がギルバートの耳にも届く。
「別に、今だって醜くはないじゃない。ねぇ?」
猫にとって大切なのは、正しさよりもむしろその一点なのだった。
――だって、あんなに……綺麗だったのに。
ギルバートの繊細なこだわりに、同調してくれる猫はいない。
石から彫り上げられた冷たい彫像や、艶のある陶器の皿に描かれるような、整ったマキャヴィティの体つきが、ギルバートは密かに好きだった。自分のことでもないのに、自慢でさえあった。
猫は側に置くものに、当然のように美しさと気高さを求める。そうでなければ、これほどグリザベラが憎まれる理由もなかった。ギルバートも、友達の群で一番立派な体躯を、口にはしないけれど誇らしく思っていた。
確かに、今の彼も醜くはない。むしろ、以前の彼を知らなければ、ギルバートは彼の長身と隙のないがっしりした体つきを羨ましくさえ見ただろう。けれど、群一番の長身を持ちながら、それでいて以前の彼は猫の美意識に叶う優美を備えていた。それはとても稀有なことだったのに、今の彼は、ただ単にたくましくて強そうなだけの、どこの街にも一匹はいる平凡な雄猫だった。ただえさえ、もともと目立たない黄色い毛並み―それもぶちのはいった純粋でない黄色―だったのに。
「怖くない?」
車の廃棄音。
通り過ぎていくそれは、二匹の足元の、それよりずっと低い位置から遠く響いていた。
「マキャヴィティ…さっきのことを根に持ってるのか」
「だって、ギルは高いところが本当は苦手だろう」
枝に手をかけがら、マキャヴィティは視線だけで見下ろす。
ギルバートがテリトリーにする公園は、街の喧騒から程遠い。ときどきふくろうが羽ばたき、夜行性の動物が音もなく隠れる。
二匹が登った木は、大きくてこんもりと丸い形をしていた。まだ落ちない葉が、天頂に近い木の幹を半分以上隠している。朱をこきまぜた黄色へ色を変えていく葉は、丸く太っていた。ふと猫の手が触れただけで、はらはらと闇のなかへ堕ちていく。
ギルバートが顔を上げると、猫たちの集会を手助けするように多くの星が、ジャンクヤードへ光る矢を投げかけているのが見えた。ヒトには見えない、星々のかすかな明かりも、猫の瞳には地表へ直線となって届くのがくっきりと見えた。
ギルバートが座っていた枝をちょっと揺らすと、また何枚もの黄色が光の雨の中を落ちていった。裏返り、表に返る。夜に蝶が羽ばたくようだった。
「もう平気だ」
高いところなんて怖くない、とギルバートは強がった。
「そうかな」
「あっちの木のほうが、派手で綺麗だ。あっちへいこう」
「変わんないと思うよ。でも、ギルがそうしたいんなら行ってもいい」
「こっちの葉っぱより、あっちの木の葉っぱの黄色のほうが濃い」
「変わらないよ。同じ種類の木で、同じようなとこに立ってる」
「どこへ行くんだ」
「え、あっちの木に登りたいんだろう」
「いちいち下に降りる気か」
「ギル?」
「ここから行ける」
木々の間を、涼しい風が吹き渡ってまた葉を散らした。
「無茶だよ…」
「怖いのか」
ギルバートがやり返すと、マキャヴィティはついと片眉を上げた。
あ、と思う間もなく彼は踏み切って、黄色い毛並みが闇のなかにさらりと投げ出されていた。ギルバートは激しく揺れる枝に身を伏せて、そこに両手でつかまっていなければならなかった。爪を立て、しっぽまで枝に巻きつける。黄色い葉っぱが、ギルバートの目の前で形の見えなくなるほど遠くへ落ちていった。
ギルバートが掴む木の、隣に立つ同じくらいの大木が、わさりと枝を弾ませる。塊となった黄色い葉が、ばらばらに散らばり小さくなりながら舞い落ちる。ギルバートはまだ上下に揺れる枝に、必死でしがみついていた。
「来いよ」
紅葉した枝々の合間から漏れる声は、いつもと違って響いた。
「お、まえ」
「怖くないんだろ? ギル、大丈夫。俺が助けてあげるから、こっちへ」
しゃべると、息が白く凍える。
そこは、地上より寒かった。翼もつものでなければ、到底飛べないほどの高さを、マキャヴィティは手をさし伸ばして誘う。
「飛んで来い」
「マキャヴィティ、手をだすなよ」
ギルバートも戸惑いなく足を踏み出した。無音。
触角のように細く伸びた猫の髭を、夜風がゆらす。その次の瞬間、全身を切り裂くほど風が叩きつける。ごう、と耳の中でも渦巻く。奥歯の浮く浮遊感を打ち消して、ギルバートは手足をぴんと伸ばした。彼の居るそこへ行きたかった。
二匹で車の音を聞いていた枝よりも、すこし低い位置に張り出した隣の木の枝。ギルバートは軽々とそこへ到達した。むしろ、勢いが強すぎる。
音を立てて小枝を折りながら、ギルバートの身体は目的の場所を通り越した。目の下を黄色い葉を蓄えた枝が通り過ぎていって、枝と枝との黒い空間がギルバートを飲み込もうと口を開いている。
腹に重い衝撃を受け、ギルバートは息を詰まらせた。
「ほら、俺がいてよかっただろう」
背中に温かさを感じる。マキャヴィティの体温。落ちる寸前のギルバートを、彼が片手で抱き寄せたのだと知ると、ギルバートは激昂した。
「手をだすなって言っただろう!」
「落ちたほうがよかった?」
「馬鹿、ヘタをしたらお前まで巻き添えだって言ってるんだ。俺ひとりなら、何とでもなる」
「こうして無事だったんだし、いいじゃないか。それに、俺は絶対失敗しないよ」
「自惚れるな! ひとりで猫いっぴきを支えるなんて、どう考えても確実じゃない」
背中が、燃えるように熱かった。皮膚にふれる感触で、ギルバートは気付く。身をよじってマキャヴィティの厚い胸に手をあて、しっかりと力強い腕を掴みとる。両手でやっと指が届くほどの円周。
「お前、まさか本当に…」
以前なら、決して持ちこたえられなかった重さを、軽々と受け止めた。似たようなことは何度かあったから、間違いない。マキャヴィティは、本当に強くなった。
「どうやって…」
「何。どうかした」
急に自分の身体を検分しだしたギルバートを、マキャヴィティは面白そうに見つめる。
「お前…っ」
マキャヴィティは力を増している。それでいて、以前の身軽さを失っていない。今日だって、ギルバートの公園にくるまでの距離を、息も切らせず走りぬいた。以前の彼なら、とっくみあいの喧嘩の後に、これほど走れば途中で根を上げていたはずなのに。
ギルバートの目前を、頭の上から落ちてきたひとひらの黄色が横切っていった。目を閉じて手で払ったギルバートは、ふと気を変えてそれを掴もうとする。睫を掠めていった美しい黄色は、ギルバートの指をすりぬけて枝と枝の間を落ちていった。二度と手が届かない。
――もうすぐ、俺のほうが強くなるはずだったのに。
「お前、やっぱり痩せろ」
「しつこいなぁ」
マキャヴィティは、呆れた顔を作る。その顔に、ギルバートは何度も念を押した。
「絶対だぞ」
今まで、彼に勝ったことは何度もある。それは大抵、ギルバートがしつこく彼を付き合わせた後で、初戦で勝てたことはほとんどなかった。マキャヴィティは、卑怯なほど手練手管に長けている。ギルバートは悔しさに歯噛みした。この上、持久力まで並ばれたのでは、太刀打ちできなくなる。それは、大して損なわれていない彼の美しさなんかよりも、遥かにギルバートにとって重大な問題だった。
「明日から、俺、お前と一緒に寝起きするから!」
「はぁ? ギル、何を言ってるんだよ。そんなの無理に決まってるだろう」
「いいから! もし、お前が痩せないんだったら、俺もお前と同じくらい太るからな!!」
二匹が宿る木の、美しく染まった葉をすべて落としてしまうほど激しい喧嘩が、そこでまた始まった。
救いは、誰にも見られていなかったことだろうか。
『色の変わった太った葉っぱ』