夏が終わる。
「もうすぐ、ギルの生まれた季節だね」
黄色くてふわふわした毛並みには、真昼の太陽が封じ込められているのだろうに、彼はとても涼しげだった。背が高いせいで、身体が細長く見えるせいかもしれない。
「うん」
三毛猫は頷いた。辛抱強いギルバートは、熱さにも強い。けれど、愚痴を言わない彼の耳の内側は、濃いピンク色に染まっていた。それを見咎めた黄色い猫が、噴水の傍にギルバートを連れ出したのが、朝の狩りを終えたころだった。
水しぶきが高く上がるのを、遠巻きに見てギルバートは落ち着かない。こんなに暑いのに、やはり水には嫌悪感がある。
黄色い猫はゆったりと立って、ギルバートが落ち着くのを待っていた。
黄色い猫、マキャヴィティの肌は、春や秋の時と色が変わっていない。
涼しい顔をしているだけじゃなくて、本当に暑さを感じていないのだろうか。
「ギルは、自分がいつ生まれたか正確に知ってる?」
黄色い猫の高い声が、思いついたようにギルバートに聞いた。
「…いつって?」
「日付のことだよ。季節が一巡りする一年は、大きく一ダースに区切られていて、その中でも更に細かく30ほどに分けられる。
1/30が、一日と言われるんだ」
「へえ」
「本当は逆だけれどもね。一日を30回ほど集めて、一月とするのが人間の暦だから。でね、ギルは、そのうちのいつ生まれたのかなあ、って」
「そんなの、俺がわかるわけないじゃないか」
ギルバートは声をひっくりかえした。
生まれたばかりの雛鳥は、自分の生まれた季節が何であるかさえ知らないものだ。ましてや、ニンゲンの取り決めた数字と、野生の猫とになんのかかわりがあるだろう。
「そうだけど、誰かから聞いていない? それはとても大切なことだよ」
「どこが?」
「だって、それを覚えておかないと、ギルが何歳になるかも忘れちゃうだろう」
「そんなの、いくつ冬を越したかで数えればいいじゃないか」
ギルバートにとって、もっとも印象深い季節は冬だった。
「わからなくなるよ。冬は冬の辛さだけが身に沁みて、それが何回目かなんてどうでもよくなる。だから」
「わからなくてもどうでもいいだろう? へんなやつだな」
今は真昼に虫たちの声が高まる、もっとも緑の濃い季節。
黄色い猫、マキャヴィティは、もどかしそうに眉根を寄せた。
「だって、ギルのお誕生日がわかったら、毎年その日がくるたびにお祝いできるし」
「? お前は何を言ってるんだ。俺はもう生まれてるから、俺の生まれた日は二度と来ないぞ」
「ちがうよ。だから、暦というものがあってね、一巡りの季節を一年と名づけて、それを重ねることで年月を計るんだ。繰り返すんだよ」
こんどこそギルバートは驚愕した。
そして、マキャヴィティのあまりのニンゲン臭さに怒りさえ覚えた。
「馬鹿を言うな。時間は繰り返さない。ただ行って、もう戻ってこない」
「季節は繰り返すよ。だから、」
「それは違う。ずっと寒いのが冬で、そうでもないけどその次寒くなるのが秋で、暑いのが夏で、そうでもないけどもうすぐ暑くなるのが春だ。
今の夏は前の夏とは違う」
「春には花が咲き、枯れてはまた同じ花が春に咲きなおす。それは輪廻ではないの?」
「同じに見えるだけだ。毎年生まれる仔猫に、前に死んだやつが混じっていたことがあるか? 時間は繰り返さないし、花も猫もみな入れ替わる」
「それでは、……俺が死んだらギルは二度と俺に会えないね」
マキャヴィティは足踏みするギルバートの傍に座り込んで、地面を撫でた。上目遣いに三毛猫を見上げる。否定してほしいと顔に描いてあったけれど、正直にギルバートは答えた。
「そんなの当たり前じゃないか」
目を見張った黄色い猫が、土のついた指でぎゅっと胸を押さえる。
「でも、俺は死んでもギルに会いたいよ。きっと、地獄でギルのこと待ってる」
黄色い猫は、この暑いのに血の気の引いた唇を、笑みの形にゆがめた。
「ギルも俺の名前を知ってて庇ったから、もう決して天国には行けないんだからね」
「おまえ、正気なのか」
ギルバートは、あきれ返って表情を無くす。
マキャヴィティの茶色の目は、暑さで眩暈を起こしたようにぐらりと揺れた。そして、ふたりの視線は外れた。
「聞いたことないの? 天国も地獄も、死んでから行くところだよ」
いとおしそうに土を撫でながら、マキャヴィティが呟く。ものやわらかい声には、気圧されてしまいそうな凄みがあった。
からからに乾いた土は、砕けて砂となり彼の手の下をさらさらと流れる。
「おまえ、大丈夫か」
三毛猫は音をたてて跪き、黄色い猫の肩を掴んで、揺さぶり、責めたてる。
「死んだら、なんにもなくなるに決まってるじゃないか!」
ギルバートは叫ぶ。どうしてそんな当たり前のことを、マキャヴィティが否定するのか、心底怪訝に思う。
「死んだら、身体もなくなるし、悩む事もない。俺もお前も、地獄になんて行かない。それとも天国へ、生まれ変わるとでもいうのか?」
「そうだよ」
「天上みたいにか」
「そう! そうだよ、やっとわかったね」
「じゃあ、俺が行けるかどうかはわからないな」
「ううん。選ばれたものだけが行くところじゃないんだ。みんな行くんだよ」
ギルバートは不思議そうにじっとマキャヴィティを見つめる。視線を落としたままの琥珀の瞳を、探るように、その奥を見通す。
「みんな? だれもかれもか?」
「うん」
「猫全部? 今までのやつも全員?」
「そうだよ」
目を閉じて彼は頷いた。
「都合いいな」
選ばれもせずに天上へ行けるなんて、そんなうまい話あるわけない。ギルバートはそう思う。ニンゲンの考えることなんて、所詮はそんなものだろう。
マキャヴィティは、いつの間にか顔を上げてじっと見つめてくる。
居心地悪いので、もう何も言うつもりのなかったギルバートは、しぶしぶ口を開いた。
「第一、そんなに大勢天上へ行ったんじゃ、あっちも満員になるんじゃないか」
「そんなの……なんとかなるよ」
「今までの猫全員がそっちにいるんだったら、ものすごい数だよな。そんなにいっぱい猫がいたんじゃ、どっちにしろ一匹を見つけ出すなんて出来ないだろう。あ、ニンゲンもいるのか」
「ギルは、俺に会いたくないの!!」
マキャヴィティが、腹立ち紛れにギルバートを噴水のほうへ突き飛ばした。足を払われて、ギルバートはよろける。
ギルバートはぎゅっと眉を寄せた。近くに冷気を感じ取り、三毛猫の毛並みはざわりと波立つ。
「何するんだよ!」
「屁理屈ばっかり! いつも、そんなこと言わないくせに」
「お前こそ、変な話ばっかりすんな。お前は猫なんだからな。誕生日とか、ニンゲン臭いんだよ!」
「どうせ俺は、猫としてはおかしいよ」
「そんなことない!」
自虐的な言葉が一番許せなくて、つい手が出る。
二匹はいつものように、もみ合いながら縺れて倒れた。
「むきになってごめんなさい」
しおらしく謝られると、ギルバートの興奮も急速に冷めて行く。
ふたりを取り囲む背の高い草は、成長のしすぎで柔毛が棘に変わり、触れるとちくちくする。これ以上はないほど深い緑色だった。花壇の傍には、噴水の土台が灰色に聳えている。
ギルバートは、力の抜けた黄色い猫の腹に、馬乗りになって見下ろしていた。殴るつもりで振り上げた拳を開いて、ふらふらと振った。
「なんだよ。俺のほうが勝ちそうなのに、謝るなよ」
「だって、こうしないとギルが話を聞いてくれないから」
「そんなことない」
黄色い猫の腕をとって、引き起こしてやる。彼らに踏まれていた緑も、一緒に跳ね上がった。
彼を勢いよく立たせたのは、一種の照れ隠しだった。立ち上がると、黄色い猫のほうがずっと背が高い。悔しいけれど、この差はこれからも埋まらないだろう。
いつも小さく微笑みを浮かべているマキャヴィティの口許を、近くで見上げる。そこにまだ傷がなくて、白くなめらかなことにほっとする。
もし、ギルバートが彼を殴ってしまってから彼に謝られたら、どれほど後味悪かっただろう。彼のタイミングは完璧だった。それが逆に腹立たしい時もあるけれど、茶色い琥珀色の瞳を頼りなく揺らす今日の彼は、とても悲しそうなので、できれば慰めてやりたくなった。
うずうずする自分の手を、ギルバートはぴしゃりと叩く。
「虫?」とマキャヴィティが聞いた。「ごめんね、怒らせて。俺も、ちょっとむきになってた…」
声まで、涙っぽい。
「おまえはジェリクルだ」
ギルバートは、ぽんと彼の胸を叩いた。彼は答える。
「うん。わかってる」
ギルバートが請け負うまでもなく、それは自明のことだけれど、ふいにマキャヴィティはそのことを見失う。見失っているように見える。
「どうして、そんなにお前がニンゲンに親しみを感じるのか、俺にはわからない」
「俺は、きっと天国に行って、ずっとギルと一緒にいたいんだ」
「テンゴク、か」
「そう」
今見えないものをあると信じる。それが、いつか自分を救ってくれると。そんな事はギルバートには到底出来なかった。
「…ずっと先のことを考えて悲しむような、無駄なことをするな」
今、食事を終えたばかりで寒くなくて、それなのに、夕方にまた腹が減る事を想像して悲しがる。マキャヴィティがしているのは、そういうことだ。
「わかってる。俺だって、したくてそうしてるわけじゃないよ」
「暦なんて、知らないほうがいい。そんなものがあるから、先のことばかり考えるんだ」
「そう、だね」
うつむいたマキャヴィティが、地の底を見通すような遠い目をした。
浅く頷きながら、彼はちっとも納得していない。思うように慰められなくて、ギルバートは苛立つ。乱暴に黄色い毛並みの頭を、両手で押し下げた。
「ギル? どうしたの」
抵抗もせず、差し出すように降りてきた小さな耳に、かぶりつく。びくんと黄色い猫の身体が震えた。
「んー」
何度も噛んでいると、マキャヴィティがくすぐったそうに笑い声を上げる。
「いひゃいか?」
「くすぐったいよ!」
高く笑い声が弾ける。
ギルバートは、牙を外してやって、耳を両手で押さえるマキャヴィティに抱きついた。
「暑いか?」
「うん……ギルって体温高いね」
「お前は冷たい。俺よりは」
しばらく、じっと目を閉じていたギルバートは、触り心地の良いマキャヴィティの身体をぐいと押すと、彼の地味に整った顔を見上げた。
「マキャヴィティ。俺は、もう生まれてここにいるし、まだまだ死なないし、だから、もうくだらないことは考えるな」
「わかっているよ。でも、考えるんだ。
俺が死んだあと、ずっとギルに会えないなんてどんなに悲しいだろうって」
「それがよくない」
また抱きつき直して、真っ白い首筋に顔を埋めながら、ギルバートはもごもご言った。
「今のことだけ、考えろ。今、俺はここにいるんだから」
ふいに、噴水の音が消えた。水の流れを断ち切るほど鋭い風が立ち、熱の篭もった真昼の空気が、そこだけ途切れた。
ギルバートは土に膝をついている。地面は霜を含んで冷たくて、ギルバートはそこで何かを待っている。二度と会えない、誰かを思い出している。
砕けた霜の白さまで、ありありと脳裏に浮かんだ。太陽の光に焼き付けられたように。
「そうだね。ギルは、今ここに居るんだから」
高く澄んだマキャヴィティの声に、白昼夢を破られる。
「ああ…」
この暑さは、思った以上に猫を蝕んでいるのかもしれない。ギルバートの鼻筋を、すっと冷たい汗が撫でていった。
「ここに居る。それだけが本当のことだ。今、俺とおまえと、ふたりでいることだけが」
マキャヴィティは、その言葉を聞いて嬉しそうに目を細めた。彼の不安を一時遠ざけてやれたと思うと、ギルバートは嬉しい。
足元の影のように、それはいつのまにかまた濃くなるだろうけれど、それは今ではない。
太陽は中天に昇る。
そして、いつもどおりに西へ落ちるだろう。
低い地上からは変わらず見えても、星は一時たりとも同じ位置に留まっていない。昨日と違う軌道を描く。
二度と来ない夏が、終わる。
今だけだ。ギルバートは何度も思う。生きている今がすべてだ。
『月は毎年3cm地球から遠ざかる』