海から遠ざかると、水の気配はかえって濃くなるようだった。低いところに波立ち、渦巻いていたものが、海という器をなくして海より細い運河へ絞られ、それでは足りずにもっと薄い、霧や雨となって空と大地を繋ぐ。むせ返るような水の匂いが、大気に立ち込める。
海風に吹き払われないぶん、濃密な空気は甘く不浄で、草や木々はますますつやつやと茂り、細かい羽虫が葉陰から飛び立って人に群がる。汗のにおいを嗅ぎつけたのだろう。あるいは、発する熱を感知するのか。
マキャヴィティがうっとうしそうに首筋を払った。
船のへりから手を放した彼に、背後からそっと近づく。乗り手が身動きしただけで、たあいなく揺れるほどの小船だ。すぐに彼は気配を察して、髪を光らせながら振り向いた。切れ長の瞳に、自分の姿が映ったことを確認してから、わざと濡らした薄布で彼の頬をはたく。
「っ…!」
「なんちゃってー。あはははは。うわっ!」
「……」
マキャヴィティがとっさに避けようとしたので、重心の偏った船はほとんど水の浸入しそうなほど傾いた。ギルバートは叫び声をあげたが、マキャヴィティは片手で舟のへりを握り締めただけだった。
舟に慣れたギルバートが立ち上がり、両足と自分の体だけでなんとかバランスをとりもどす。迫った川面はごうごうと流れが速い。
背中に冷や汗が伝いおちる。ギルバートが、うまくやったと自画自賛しながらマキャヴィティを見ると、彼は奥歯を噛み締めて苦い顔をしていた。視線に気付いて、彼はふと表情を消す。きつい顔をしていたのが嘘のようだった。
船から突き落とすふりをしてみても、帰ってくるのは意味のわからない愛想笑いだけ。風が凪いだおかげで、帆を下げた小船はそれでなくても狭かった。漕ぎ手からなるべく離れようとでもするかのように、船の舳先を見つめた鋭い横顔へむかって、問いかける。
「怒ってるのか?」
「……」
「なんだよ。怒ってるならそう言えよ」
「隊長」
「なんだ」
「あまり暴れないでください。あなたが、水に落ちたら大変です」
旅は、道中の多くを運河に沿って小船を繰るものとなった。未開の密林を踏破しなかっただけ楽だとも言えたが、二人きりの王都への旅は重苦しい沈黙に終始した。
甘い空気が喉に詰るほど、息苦しい。ギルバートがいくら気を引き立てようとおどけても、マキャヴィティがそれに乗ってくることは決してなかった。
いつもの、控えめな微笑みを浮かべるだけ。困ったような眉の形。
ふたつの運河の交わるところを目指し、首都の懐深く船を進め、夕焼けのばら色を背景に霞かかった王宮の影を小さく臨むころには、ギルバートは彼の整った顔にうかぶその偽善めいた笑顔が、まったく気に喰わなくなっていた。
王の座す城は、高い城壁に囲まれている。
広大な宮殿の中心では、細い塔が空に伸び上がってあけぼののわずかな光にも鋭い金色を返している。塔を取り囲むように比翼を伸ばす王宮の、空に接する場所に同じく金の装飾が、そこここで天空を指し示す。それらはひとつひとつを良く見れば、精緻な鱗を持った火の鳥であることがわかる。外壁は目の醒めるほどの白。金の尖塔も迦楼羅も、おそらく本物の黄金を使用したものだろう。
小船は深夜に都に漕ぎ着き、宿屋の寝床を暖めるいとまもなく、翌朝の開け切らぬうちに二人は城門を叩いた。
威容を誇る外観とは裏腹に、宮殿の内部は優美なモザイク模様で埋め尽くされていた。ある回廊では白を基調にしながら、目の醒めるような蒼で流水を描き出す。翡翠や橙を使って、一面に花畑を広げた広場もある。壁だけでなく、床も天井まで。
女性的とさえいえる美しさだった。模様を形づくる陶磁の冷たい感触と、宮殿の薄闇は、常夏の国を旅してきたギルバートたちには染み入るようだった。無表情に努めるマキャヴィティでさえ、宮殿の中に足を踏み入れたとき、胸の奥からため息を搾り出した。
「疲れたか」
「いえ」
それだけ。
マキャヴィティは無駄に微笑むが、話を長引かせるようなことは一言も言わない。なんのために笑うのか。運河沿いに建つ、涼しい王宮の懐深くに抱かれていてさえ、ギルバートはむっとするような蒸し暑さを覚えた。清潔なはずの宮殿なのに、耳元で羽虫の唸り声が聞こえる気がする。
次第に明けて行く空は、こげ茶色の地面へ容赦ない熱を投げかけ続けることだろう。窓から差し込む陽光を見るまでもなく、向かい合う棟の白壁が弾く光さえ、目を射る。それでも、重厚な石造りの宮殿の中は涼しいはずなのだが……。
海軍の軍服を隙なく身につけた二人は、王宮つきの衛兵に導かれて長いこと歩かされた。ふいに、日陰を作ってくれていた天井のモザイクが姿を消す。壁もない。
一日の始まりをつげる鮮やかな光を頭上に受ける。こんどこそ容赦ない熱さが肌を炙った。
開けた場所だった。芝生をしきつめた広場の両脇には、密林さながらに緑が茂っている。遠い木立の間に、鮮やかな花がかいま見える。
激しい光に眩暈を起こし、たたらを踏むと靴がカツンと音を立てた。足元には、相変わらず白を基調としたモザイクの道が伸びている。その先に、四方をモザイクに囲まれた薄暗い回廊と、屋根の上に光っている金の鳥が見える。ここはぽっかり空いた回廊の切れ目だった。
生きた植物を飾りにしたかのようなこの広場の、目的はすぐに知れた。兵士たちの歩くモザイクの道のすぐ側に、四角く深いモザイク張りの穴が掘られており、そこには透き通った水が満々とたたえられていた。蒼と薄蒼を複雑に組み合わせた模様は、そこにたゆたう水の冷ややかさを否が応でも想像させる。
取っ手のある、中心に針の突き出た皿がそこかしこに置かれている。夜、そのすべてに蝋燭を立て、満天の星と呼応させたら、さぞ幻想的な風景だろう。
空を天井にした広場を抜け、モザイクの道は何事もなかったようにしばらく続いた。延々と歩かされるうち、まず天井から美麗なモザイクが消え、しまいにはそっけない漆喰の壁が随行者をとりまくようになった。王宮の中心部から離れていくことに二人は気付いた。
たどり着いたのは王宮の外れ。薄汚れた壁と、古びた椅子が無造作に並んだ場所だった。二人はそこで、待つように言い渡された。ただ、待てと。
目的も知らず、また何時までとも知らされない。食物も水すらない。海上では極限まで切り詰めて暮らす船乗りであっても、手のとどく所に水のある地上で乾くのは、いっそう辛いことだった。
「これが俺達の受けるあつかいか」
「…隊長」
無関心なマキャヴィティは、初めてたしなめる声を上げた。誰かに聞かれたら面倒なことになる。しかし、ギルバートにしてみたらこれでもずいぶん自制したほうなのだ。
壁によりかかりながら無言で過ごす時間の長さ。
延々と待たされ、本部の軍人にやっと階級を呼ばれて指令を受け取ったのは、もはや陽の落ちる時刻だった。それもまた、屈辱的な謁見であった。