「どうして、こうなるんだ」
マキャヴィティは、頭を抱えたい気分をすっかり暮れてしまった空の、星を見上げることで紛らわした。降るような星空。
足元から、盛大な水音が上がる。それと同時に、のんきな声が呼びかける。
「おーい、泳がないのかー?」
額に当てた手に、つい力が篭もって目じりを歪ませる。
「勘弁してくれ」
ギルバートはその様子に気付かないのか、諦めずにマキャヴィティを呼ぶ。モザイクの道、そのすぐ下に階段が続き、底には水を湛えたタイルの穴がある。ギルバートの声はそこから響いた。何度も。
ギルバートが爪先立ちながら両手に汲んだ水を放り投げると、水しぶきは高くあがらなかったが、悪ふざけの代償に彼は足を滑らせて水面へ沈んだ。また、王の宮殿に盛大な水音とギルバートの笑い声が響いた。
肌に水がひんやりと心地いい。
タイルの水槽に溜められた水を両手で掻くと、海水のように腕を跳ね返す感触はなかったが、身体は前に進む。少しでも身動きすると、水面にさざなみが走りオレンジに光った。蜀台の明かりを反射するのだ。
全身が水の匂いに押し包まれる。乾いたことなど生まれてから一度もないようだった。
水辺にこれだけ燭台が置いてあるということは、そこへ刺すろうそくも近くに蓄えてある。嫌がるマキャヴィティを使って、回廊近くを丹念に探索した。目的のものはほどなく見つかった。
すべてに明かりを灯すと、うっとりするような官能的な光景ができあがった。闇に沈んでいたタイルの蒼が、水のなかから浮き上がる。
王や貴族の暮らす場所では、今日も盛大な宴が開かれているのかもしれない。
いずれにせよ、これほど外れた場所に誰もくるものか。いくらそう言っても、小心者のマキャヴィティは踵すら水に漬けようとしない。
小心者め。
呟やきは水と、ふたりの間に開いた距離に吸い取られる。
「マキャヴィティ、本当に来ないのか?」
これほどの贅沢を見せ付けられて、どうしてそのままやり過ごすのか。彼は、きっちり着込んだ軍服の襟元を崩そうともしない。
どうしてわからない。
身を縮めて生きていたって、暑さと虫と堅い椅子に耐えながら、ひがな一日、自分より偉いやつに名を呼ばれるのをただ待つ、そんな日を繰り返すだけだ。今日のように。
この世には、見た事もないような豪奢と享楽がある。
奪うものだ、楽しみは。それで咎められたからといってなんだろう。
マキャヴィティは、あたりをはばかって視線を泳がせている。
「わかったよ。もう上がる。俺の服を取ってくれ」
水から上がるときは、手足が自由に動かないようなもどかしさを感じる。まといつく水が重いのか、身体を押し上げる水の感触が惜しいのか。
マキャヴィティは頭にくるほどほっとした顔をした。乾いたモザイクの上に投げ出されていた布を彼は拾いあげる。急いだしぐさに、焦りが見える。ろうそく
も消したいところなのだろうが、そうすると脱ぎ散らかした服がどこにあるかわからなくなるから、それも出来ないのだろう。
水のなかの階段を上がり、マキャヴィティと同じ高さに立つ。
彼は軍服を綺麗に片腕へかけて、自分を迎えにきた。濡れた手で差し出された服を受け取る。投げ捨てる。布地は闇の中に広がりながら落ちていった。
マキャヴィティの背中を両腕できつく締め上げ、後ろ向きに倒れてやる。
踵で階段のへりを蹴り上げる。がつんという衝撃とともに、すねに衝撃が走った。たぶん、痣になっただろう。擦り傷も作ったかもしれない。
水が息を塞ぐ。
耳元にぶくぶくと泡の立ち上がる感触がある。
マキャヴィティは服を着ているぶん、自分より深く沈んだようだった。
「あはははははは!」
頭からしぶきを巻き上げつつ、笑いが止まらない。
鼻の奥につんとした痛みがある。水を吸ったのだろう。そんなことより、溺れかけているマキャヴィティを助けてやる。
「っ! ぅあっ!」
「落ち着けよ。大丈夫か?」
溺れていた彼は、なんとか足裏にタイルの固い感触を捕えたようだ。さほど深くないと気付けば、すぐに彼も立っただろうに。
マキャヴィティは、口も利けずに荒い呼吸に喘いでいる。
彼は這うようにして階段を上がり、モザイクの切れた柔らかい芝生の上に両手をついた。
着いて行って、彼が落ち着くのを待ってやる。
全身ずぶ濡れで、軍服から水を滴らせる彼は、裸のじぶんよりずっとみすぼらしかった。
「服を、着てください…もういいでしょう」
燭台から顔を背けていたから、彼の表情は窺い知れない。さすがに、もう愛想笑いを浮かべてはいないだろう。
彼はさっそうと立ち上がった。それが彼の矜持だった。
「もう濡れたんだ。お前も泳がないか」
振り返ったマキャヴィティは険悪な顔をしていた。そして、気付いたように表情をとりつくろう。
「…泳ぎません。隊長の服を拾ったら、あかりを消します」
「そうか」
彼はろうそくを一つ取って、自分のものでもない服を探しに行った。
彼が悪いのではない。自分が思い違いをしていたのだ。
お前は俺が嫌いかと、聞くまでもない。
また、もしそう口に出したとしても、彼は自分の相手をしないだろう。今、怒気を押し隠したように。なんでもない顔をされるだろう。
「昨日、荷物を置いた宿があるな。2、3日、あそこに留まる。お前は、家に帰れ」
「いえ、私は公休をいただいておりません」
「いい。固いことを言うな。俺もついていってやろうかと思ってたけど、気が変わった。お前だけで行ってこい」
「隊長。お心遣いは嬉しいのですが、それは服務違反です」
「命令だ。
気が変わったら、俺もいっしょにお前の家に顔を出すかもな。いいのか」
濡れた身体のまま、不器用な手に服を着せかけられる。肩越しにマキャヴィティの瞳を覗き込むと、彼はなんとも言えない顔をしていた。
それは困る、という表情。
いつもの馬鹿みたいな愛想笑いより、そっちのほうがまだいい。
笑顔を顔に貼り付けるだけで、彼は努力しない。完璧に人をだましおおせることができないから、こうしてギルバートにも見透かされる。彼は、自分の敵意を相手に感知されても構わないと思っているのか、それとも、彼のことだからギルバートに気付かれていることにも気付いていないのか。
まさか。そこまで馬鹿じゃないだろう。そう思いたい。
彼が初めて、あの海際の町に現れたとき。約束の時間はとうにすぎていた。高い場所にある自室から、彼が慌ててやってくるのを見下ろしていた。彼は、遅れた時間をとりもどそうとか風のように街を駆け抜けて、とまどいがちに門を開いた。
初めて見た彼の姿。整った顔立ちと、まっすぐ伸びた背筋。遠慮がちな話し方からは、なぜか卑屈な感じを受けなかった。それは、彼の端正なたたずまいのせいだったかもしれない。彼からは、今まで自分が知らなかった種類の人間の匂いがした。
――考え違いをしていた。
初めて会ったとき、彼こそ、自分を押し上げる風だと思った。この城のてっぺんまで、導いてくれる疾風だと…。
彼はもっと平凡な男だ。風なんかじゃない。それに今、気付いた。それだけだ。
「隊長、お待ちください! 一人では城門を抜けられません!」
ろうそくを回収してまわっていたマキャヴィティは、諦めて火の消えた数本を草の中に放り出す。
明々と灯ったままのろうそくは、ここからは真黒く見える水の波頭へ、橙色の蛇を幾筋も這わせていた。
『城の上、風は止まる』