「あたしよ」
扉越しに声をかけてから、ランペルティーザはしばらく待った。
今にも傾きそうなボロ家から、隙間風の漏れる音がする。背後を、にぎやかに通り過ぎていった二人の子どもは、兄弟だろうか。
海の向こうから、紫色の光を帯びた太陽が昇ろうとしている。密林の緑葉のように水気を含んだ大気が、優しく夜明け前の街を覆っている。近頃はおだやかな気候が続いていた。それは、きっとマンゴジェリーの傷にもいい影響を与えるに違いない。
もうすぐ、ここを出て行かなくては。ランペルティーザはそっと入り口の扉を押し開ける。彼は、まだ眠っているのかもしれない。
ランペルティーザは考えもしなかった。開いた扉のむこうにある、粗末な部屋。そこにはもう誰もいない。二度とマンゴジェリーは戻ってこない。
「また、置いて行かれた……」
がらんどうの部屋のなかで、ランペルティーザは呆然とつぶやいた。
「よお、今日はちゃんと商品を持ってこれたのかい?」
朝陽の昇って間もないころだが、市場には早くも商人たちが集まっている。舗装された大通りには囲いも目印もないのに、彼らはそれぞれの持ち場にぴったりと収まって、品物を並べたてていた。
マンゴジェリーに声をかけたのは、古着を売る若い男だった。
「ああー。昨日、へまをしちまった分、今日稼がねえと」
「まったくだ。昨日は俺にショバ代を払っただけで、もうけは銅貨一枚、なかったんだろう」
「まあな。だけど、特別な品だから、手に入れられる日とだめな日があるんだ」
男の店じたくを、マンゴジェリーは当然のように手伝う。一番上等の布地を店主の背中側に張りめぐらし、客の手にとりやすい場所にはもっと気軽な普段着を吊り下げる。マンゴジェリーは、ずいぶん前から彼の店に置かれたスカートや上着の陰に隠れて、上等の酒や煙草、ことによっては麻薬を、「良心的」な値段で市場に来る人々に分け与えていた。
「そのぶん店の手伝いをしてもらえるから、俺はかまわねえけどな」
店主は、古着の汚れを巧妙に隠して畳みなおす。
彼は、マンゴジェリーのもたらす高額な薬や酒にのめりこんで、一時は商売をあやうくしかけた。しかし今も、懲りずにこうしてマンゴジェリーに自分の店のひさしを貸している。そういうあっけらかんとしたところは、マンゴジェリーがグロールタイガーのクリューの一人だったころから変わらない。
ランペルティーザの様子を見るために、マンゴはたびたびこの市場に紛れ込んでいたことを、マキャヴィティも、ランペルティーザですら知らない。
――あいつ今頃、怒ってるだろうなぁ。
「今日は、はっぱを仕入れた」
マンゴジェリーは、懐からちらりと小袋をのぞかせてみせた。
「貴族さまの愉しみだな、そいつは」
「高いが、そのぶん上等だ」
「いい買い手がつくことを祈ってる。あがりで俺に上手い酒を呑ませろよ」
土埃をもうもうと巻き上げていただだっ広い道が、商人たちに踏み固められ、色とりどりの商品で埋め尽くされていく。野菜や穀物、こまごまとした日用品の中には、舶来ものの高価な品も混じっている。
太陽が高くなり、じりじりと肌があぶるられるほどに市場も活気を増していく。マンゴジェリーは、何も考えずに流れていく人々を視界の中に収めていた。
地べたに広げられた店のせいで、本来の1/3の幅になった大通りを、恰幅の良い人物が不器用に通り抜けていく。
背も高いが、彼が目立つのは体格よりもその顔立ちのせいだ。顔を隠すようにして手を翳しながら、その人物は人ごみを掻き分けて坂を上っていく。女のように爪を整えた掌の下から、半分だけ覗く顔立ちや肌の色。鼻が鷲のくちばしのように大きい。異国の人間だ。
国のはずれにある港町には、外国人が珍しくない。マンゴジェリーも、それだけならば彼を注視はしなかっただろう。
坂の途中で市場はとぎれる。その代わりのように道は敷石で舗装されて、白っぽく太陽を反射しながら坂の上へ続いていく。小高い場所には、こんな小さな港町になぜ?と思うほど大規模な『海軍』の砦が待ち受けている。異国の男がその坂を上りはじめたので、マンゴジェリーは漠然と視界に納めていた彼の顔を記憶のなかから取り分け、改めて脳裏に刻みつけた。
その人物の名前を、仮にトーマスとしよう。
「わが海軍へようこそ、トーマス」
ギルバートはいかにも鷹揚に微笑んでみせる。内心は、この外国人がよりによって『海軍』にわざわざやってきたことに、怒りくるっていたとしてもだ。
「ギルバート隊長、私はあなたにどうしても言わなければならないことがあってここに来ました」
「というと?」
ギルバートは身体の沈み込むような椅子に落ち着いて、執務机にほお杖をついた。
応接用に異国からとりよせたソファーへ、トーマスを座らせはしなかった。
「技師たちが皆不安がっています。港の外への連絡手段を奪われ、外出するのも許可がいる。軟禁状態です」
「あなたはここへやってきたではありませんか。あなたがたはこの町での自由を私に最大限保障されています」
「しかし」
「トーマス。もし私の部下があなた方の行動を制限するようなことをしたのだとしたら、それは第一にあなた方の身を案じてのことです。
あなた方は、私にご自身の故郷の最大の武器を売り渡そうとしている」
トーマスの色の薄い肌に、さっと赤味が差した。それを横目で確認しつつ、ギルバートはさらに畳み掛けた。
「あなた方の顔を、声を、無用心に人々に覚えさせてはならないのです。ここは港町です。それでなくても、故郷の方々が何かの用事で港に船を寄せないとも限らない」
それは真実だった。
『海軍』が本拠を据える港は、長く突き出した半島と隣国とで三方を陸地に囲われた、穏やかな内海に面している。陸地にえぐれこんだ海岸の、突端にあたる奥深い部分にはずっと大きな港があり、世界中の商人が集まってくる。
『海軍』のある港は、弧を描く海岸線の、端のほうに位置している。規模は小さいが、ここでも外国人の姿は珍しくない。一目瞭然でそれと知れる容姿のものから、話してみなければ外国人とはわからない隣国の商人まで、人種はさまざまだった。
ただし貿易を主な目的としてやってくる彼らは、この田舎の古い港をただ、通り過ぎていく。留まるものはまれだ。
トーマスは、恨みがましくギルバートを見下ろす。背丈は彼のほうがずっと高いし、今はギルバートだけが座っているので、なおさらだった。
「それならば、あなたの兵隊たちは港からやってくる外国人を気にかけるはず。しかし、私の見たところ技師たちは、むしろこの国の庶民たちからこそ、隔離されているように見えます。
あなたの依頼は、本当に国王の意をうけたものなのですか」
ギルバートは苦笑まじりにため息を吐きだし、時間を稼いだ。机をへだてて立ち尽くしている大男を苛立たせてしまったが、それが逆にギルバートを落ち着かせた。
「私たちが国王の命を拝した正規軍であることは、すでに証明済みのはず。そして、この国でもっとも尊い方の采配でなければ、これだけの資金をどうやって集めますか。都の大貴族といえども、なしえないことです」
「しかし、現にわれわれは犬猫同然のあつかいを受けています! これでは、お約束なさった報酬もあやしいものだと、技師たちは…」
「短い間の辛抱です。仕事さえ速く終わらせてしまえば、あなたは口をぬぐい黄金を抱いて故郷に帰れる。私の顔を見る事ももはや二度とないでしょう。私も、あなたの本当のお名前を知ることは生涯ない。
さあ、お引取りを。必要なものがあれば、どのようなものであろうとなんなりと。部下が一日と経たず揃えてみせるでしょう」
「……それが、私たちを外界から隔離しているというのです」
「仕事を速やかに行なっていただくために、支援することが私たちの義務であり、職務です。それがご不満だというのなら、一刻も早く『船』を建造してしまうことです」
トーマスは、通訳らしくギルバートの国の言葉で喋っていたのだが、最後の悪態だけは彼の故郷の言葉にして吐き出した。
「カッサンドラ。お客人のお帰りだ。供をつけてやれ」
同行を断られることは、ギルバートも織り込み済みだった。
海軍のそこだけ立派な門が開き、トーマスが出て行くのを窓際からギルバートは見守った。
「『船』はまだ完成しないのか」
「あと二月……いえ、三月いただければ」
カッサンドラは苦しげに答える。
「そうか」
それが希望的観測であることを、何よりギルバートが知っている。
しかし、あきらめるわけにはいかない。
その船がギルバートを、この海辺に張り付いた小さな漁村から開放してくれるたったひとつの鍵だ。
強い日差しを受けて、海軍の塀はくろぐろと横たわる。そこから、すばやく小さな影が分離する。その小柄な人影が、トーマスの背後についたのを見届けて、ギルバートはやっと仕事の山積みされた自分の机に戻っていった。傷を受けた兵士のように、足を引きずって。
『海軍』は人の出入りが激しい。
多くの人間が居住する施設だから、食材や日用品からはじまって武器や最新の海図や船まで、関わる商人は数え切れないほどだろう。その中に外国人がまじっても不思議ではない。
しかし、まだ明るいうちに異国人が『海軍』の門扉を出ていくのを待って、市場に紛れ込んだ人影があった。むしろ、その人影にこそマンゴは目を惹かれた。
それはマンゴよりずっと若い男だった。少年とさえ、言えるかもしれない。
しかし、芯の通った身ごなしは、いかにも隙がない。マンゴは、人影に隠れながら彼らの後を追った。
追走者の少年は、異国人に気付かれないよう距離をおきながら、決して彼を視界の射程距離から外さなかった。同時に、異国人に目をとめている者がないか常に警戒している。マンゴジェリーは何度も彼の鋭い視線と目があいそうになって、ひやりとさせられた。
たとえば彼は商品を手に取るふりで立ち止まり、あたりに視線を走らせる。袖からのぞく腕は、少年のような見た目に反して漁師と同じほどにたくましい。
灯台のような目のくばりは、落ち着いていて揺らがないが、光が照らすようにあからさまで、ほんのわずかな異常も見落とさないだろう。訓練されたものの動きだ。おそらく軍人だろう。とすれば、主はギルバートか。
少年のようにあどけなく見えるのは、輪郭がまろやかな上に、目じりが愛嬌よく垂れているせいだ。暗褐色をした髪を、短く刈り込んでいるので頭の形がいいのがはっきりわかる。
人気の少ない場所に出たら、これ以上追うことはできないとマンゴジェリーは覚悟した。一人では無理だ。こんなとき、あのはしっこいランペルティーザでもいれば、ふたりで彼らの行きつく先までどこまでも追いかけていけただろうが…。怪しい男と軍人の少年が、海っぺりの路地に入り込んだとき、マンゴは汚い壁にもたれかかってため息をついた。
心臓が、胸をつきやぶりそうに早鐘を打っている。あの少年の、するどい殺気。
「…船を操るのならともかく剣術は苦手だ」
マンゴジェリーが目を閉じると、眉の中を油汗が通っていった。