女将に案内されてきた長身の男は、腰をかがめて薄暗い部屋へ入った。
立派な体格をしているのに、やつれている。マキャヴィティは、なぜかここ最近で急激に頬が削げてしまっていた。
照明もろくにない場所だが、凹凸の少ない肌には艶がなく、かさついているのがわかる。ろくに食べていないのではないか。
もともと男前なのでまだなんとか見られるが、そうでなければ不審者にも見間違われそうな佇まいだった。金髪だけがわずかな光にもきらきらと反射を返していて、むしろ虚しい。
色のない、荒れた唇が開いた。

「遅くなりました。他のみんなは?」
「とっくにはじめて、とっくに潰れた。うそだよ。あらかた食べつくして、皆次の店に移動した」

卓の上には、空の皿ばかりが並んでいる。酒瓶が横に倒れていたり、皿の底に半透明なタレがこびりついていたり、白い骨がからから重なり合っていたり。マキャヴィティは、軟骨も残さず綺麗に平らげられた鶏料理らしきものの残骸をうしろめたそうな顔をして見つめている。
彼は、『海軍』に赴任してきた時は、もうちょっと生気のある顔をしていた気がするが…。

痩せすぎたせいで、全体の印象まで尖って見えるマキャヴィティに、ランパスキャットは酒瓶をさし向けた。

「まず座れ。こいつは、俺が頼んだ特別の酒だ。くせが強いが、うまいぞ。飲んでみろ」

他の酒は、ただだということで他の隊員に飲み干されてしまっていた。
マキャヴィティは従順に乾いた杯を受け取った。

「遅くなってしまって…俺が最後でしたか」
「わざわざ聞くな。終わりがけにでも顔を出せば、一応義理は果たせると思ったんだろ?」

マキャヴィティは、それに答えずにじっと杯を見つめている。
こういうところが、解せないとランパスキャットは思う。

小心なものなら、図星をつかれたら慌てて言い訳をしたり、誤魔化そうと意味もなく笑ってみたり、まあなんらかの行動をとるだろう。彼は、ランパスキャットなどいないように黙っている。
じっとしていれば、ランパスキャットの言葉がなかったことにでもなるかのように。

ひょっとしたら、こいつはギルバートとは逆方向にものすごく不遜な人間なのではないか。

「おっと…そっちに居られると酒が次ぎづらいな」

ランパスキャットは、酒瓶を小脇に気軽に席を立つ。酒のこぼれた指を、しゃぶりながら座卓を踏み越えた。
マキャヴィティはすぐに帰りたそうに、入り口に一番近い末座に浅く腰を降ろしていた。ランパスはその彼の隣に、乱暴に座る。

「ひょっとして、ここで待っていてくれたんですか?」
「ん、まあな。それだけじゃないけど」
「すみません。次の店に移動しましょう。ここじゃあ、俺しかいないし」
「ああ、まあ、もうちょっと酔いがさめてからでいい。
 あっちに行っても騒がしいからなぁ」

ランパスは口ではそう言いながら、相手の杯の次に自分のそれにもなみなみと酒を注ぐ。一息に飲み干すような酒ではないが、ついあおってしまってから、おや、と思った。

自分も、らしくなく緊張しているらしい。

酒を飲まないと、間がもたないとは。
マキャヴィティは不安そうに眉根をよせている。ともすれば気分を害したように見えなくもない。彼の張り詰めた緊張感が、隣にいるランパスにも痛いほど感じられて、ふと産毛が逆立つ。ランパスキャットは猫の警戒心を解こうとするように、笑みを含んだ明るい声を喉から絞り出した。

「そういや、お前とはふたりきりで話したこともなかったな。俺は、一応あそこの相談役みたいなもんなのに」
「そうだったんですか?」
「ああ、若いやつは、たいてい最初の戦闘でブルって俺にケツを蹴られることになる。お前は、さすがにそういうことはなかったか。
人を斬ったのは初めてだったのか?」

マキャヴィティは、ひきつって何事かを言いかけたが、言葉尻を飲み込んで、はっきりとランパスキャットの予想を否定した。
「もちろんです!」

金髪の感情的な声に、ランパスはにやりとさせられる。

「そうか。さすが、学校出は違うな。
どんな感じだよ、学校って」
「あまり……あそこと変わりません。ああ、でも先輩には絶対服従で、もっと窮屈だったかもしれない。でも、休み時間にはみんなでセパタクローをしたり……やっぱりあまり変わらないような」

怒鳴った事で、口が軽くなったのだろうか。他人行儀で型どおりだったマキャヴィティの言葉に、はじめて暖かいものが通いだす。
ふんふんと横で頷きながら、ランパスキャットは何気なくマキャヴィティの肩に手を回した。そうやって固定してから、酔いの回ったふらついた手でマキャヴィティにもう一度酒を注いでやろうと思っただけだった。

腕の下で、マキャヴィティの身体がびくんと硬直する。彼は、まるで打たれたように大げさに上半身を反らしてランパスキャットから逃げた。

あっと思う間もなく、マキャヴィティは離れて、肌の触れない位置からまじまじとランパスキャットの顔を見つめていた。そこには純粋な恐怖しか浮かんでいない、獣じみた表情だった。ランパスの喉が、ごくりと空気のかたまりを飲み込む。

「あれー、ふたりだけですか?」

明るい声が、のほほんと二人のあいだを遮る。
酒場で一番奥まった部屋なのに、タンブルブルータスは女将にも案内されずにやってきた。そのせいで、彼に声をかけられるまでランパスキャットは彼に気付かなかった。

勝手知ったる様子で、タンブルブルータスは二人の向かい側、先ほどランパスが温めていた上座へ踏み込む。

「他のみんなは? 遅く来過ぎちゃったかな」
「あ、ああ…みんな次の店に移動した。お前らを案内するために、俺が残ってた」
「そりゃあ、すみません。仕事なんか後回しにして、もっと早くくればよかったなぁ。あ、マキャはいつ来た? 俺よりずっと前?」
「いや、俺も…」

ランパスとマキャヴィティの間に、気まずい緊張が張り詰めていたのを気付かなかったのか、知らないふりをしているのか。いきなり現れたタンブルブルータスの柔らかい笑顔に、マキャヴィティでさえ、毒気を抜かれている。

ランパスキャットは思った。おそらく、前者だ。

相談役のランパスキャットの世話に、まったくならなかった鋼鉄の隊員のうち、一人はマキャヴィティだった。ランパスは、マキャヴィティは『海軍』に赴任する前に、どこかで戦を経験していたのだろうと想像していた。都の盗人たちとでも、切り結んだことがあったのかと。
しかし、そうではなく初陣があれだったとしたら、肝の据わったやつだ。それとも、心が冷たいのか。しかし、そのマキャヴィティは無事に何十回と作戦を遂行したにも関わらず、ついこの間海賊船の上で血反吐を吐いて倒れた。強いのか弱いのか。よくわからない。

そしてもう一人。ランパスに死の恐れや殺人の罪悪感を、相談してこなかった隊員がこのタンブルブルータスである。タンブルブルータスはいつものように、にこにこと愛想を振りまいている。その笑顔には裏がない。

マキャヴィティは酒のあらかた零れてしまった杯を卓に置いて、タンブルに向き合った。ついさっき、ランパスを力いっぱい振り払ってしまった気まずさを、強いて忘れようとしているようだった。

「俺も、ついさっき来たところ」
「そっかぁ。よかった。俺だけのために、ふたりを待たせたかと思った」

タンブルはいつも微笑んでいる。そして、それが媚や無理のない自然体の表情らしかった。細い目をもっと細めたタンブルブルータスに、マキャヴィティも釣り込まれて、白い八重歯をほころばせた。

ランパスキャットは腹の底で、ちょっと何かが疼くのを感じた。

「お前も飲むか? どうせ今から行ったって、あっちもこっちと同じ惨状だと思うが」

空の皿ばかりが載せられたテーブルを見渡して、タンブルブルータスは残念そうに嘆息した。

「腹が減ってるのか? 何か頼もうか」

マキャヴィティが積極的に話しかけるのを聞いて、またランパスの腹がひょこんと疼く。面白くないと感じる。

「いいよ。二人は何か食べたんだろう」
「いや、俺は……あ、ランパスはいろいろ食べた後か」
「まあ。でも、どっちにしろここは高い。外の屋台にでも出たほうがいい」
「あ、それいいですね」
「うまいとこを知ってる。しかもわりと近くだ」
「やったぁ! 俺、クイティアオが食べたい」
「ああ、あるある。で、マキャヴィティも来るだろう」

マキャヴィティは仕方がなさそうに頷いた。
ランパスが声をかけると彼は強張るが、タンブルがどうでもいい事を
「俺さぁ、麺が大好きなんだよね。三食麺類でも飽きない自信ある」
話しかけると、見た事もない顔でにっこりする。そのままタンブルは、米粉で打たれたクイティアオがいかに美味かについて、たゆみなく話し続けた。

それを聞くマキャヴィティの、力の抜けた笑顔は、ランパスが初めて見る彼の心からの表情だった。若い二人は何かを言い合って、声を上げて笑っている。マキャヴィティに八重歯があったことすら、ランパスは今日初めて気付いた。
なるほど。ギルバートはいつもこういう気持ちだったのか。

――苛めたい。いや、いかん。年長者ともあろうものが……。

マキャヴィティの不満を聞いてやって、ギルバートとの確執を和らげようと企んでいたのだが……ランパスはむしろ自分が凶暴な気持になりながら、餓えた若者二人をつれて、海辺の屋台へと繰り出した。

おそらく財布も自分が出させられることだろう…いや、ここの地酒はともかく、屋台はマキャヴィティに勘定させよう。

吹き渡る海風が、地酒のほろ酔いを気持ちよく醒ましていく。
屋台についたころには、マキャヴィティは知らないが、ランパスの酒はすっかり抜けていた。



「もう、大丈夫」

マンゴジェリーは、一ヶ月の間で驚異的な回復を見せた。指先ですら動かせなかった左腕も、今は癒えて、短剣ならばかろうじて握れる。

「無理はするな」
「旦那、無理をしてんのはあんただろ? ずっとじりじりしてたのを、俺が気付かないとでも?」

マキャヴィティは自嘲の笑みを抑えられなかった。
ランペルティーザに知られたら、きっと罵られ、憎まれるだろう。

「しかたがない。
こんな大事を、あんたが善意だけで引き受けてくれると思ってたなら、あいつは甘すぎた」

マンゴジェリーは、訳知り顔をして肩をすくめる。マキャヴィティは、彼によく研がれた鋭い剣と、わずかな金を与えた。

「ギルバートは、必ず何かをしているはずだ。都の軍本部を裏切るような、決定的な何かを」
「それで、あんたはそれを中央に報告して、ギルバート隊長の地位を乗っ取ろうというわけか」

それには、マキャヴィティは答えなかった。
ギルバートから離れるには、こうするほかはない。肩の傷が膿んだように痛む。服の下には、癒えきらない噛み傷がいまだに血を滲ませているはずだ。何度あいつに傷をつけることを許しただろう。
もう、これ以上踏みつけられはしない。



「ランパス!」

若い隊員が、彼よりずっと年長の隊員を追いかけてとうとう捕まえた。

「待てよ!」

詰め寄るコリコパットを見下ろして、ランパスキャットは彼愛用の剛剣を、無造作に肩から降ろした。地面につきたて、柄に両手を重ねる。

「なんだよ。俺は逃げねえよ」

コリコパットは、女性の体ほどもある大剣にほとんど体当たりしそうな勢いだった。ランパスは身体の向きをずらして、刀ごしではなくコリコパットと向き合った。

「お前ら、年長の隊員がみんなでつるんで何かを企んでるの、俺わかってるんだ」
「へえ。で?」
「何で俺を仲間に入れないんだよ。俺らだって、……俺だって、立派な隊員だ」
「コリコ。お前、ここに入ってどれくらいだ」
「一年だよ! それがなんだよ」
「最初に海賊と遭遇したとき、俺に泣きついてきたの覚えてるか」

ぐ、と息を詰まらせたコリコパットは、しかしすぐに叫んだ。

「覚えてる!」
「へえ。で?」
「覚えてるから、だからなんだってんだ。俺がそれから、卑怯な真似をしたことあるか?!」
「ねえなぁ」
「だったら」
「コリコ」
「んだよ! 誤魔化すなよ!」
「マキャヴィティには、知らせるな」

コリコパットは、目を剥いた。もとから大きな瞳が、こぼれおちそうだ。
しかし彼は、ランパスキャットに何も聞かず、物を飲み込むようにして頷いた。

「了解した。だけど、俺は…っ」
「コリコパット。仲間の為に、死ぬ覚悟があるか」

コリコの目が、強く輝きを放つ。
幼い顔が、不敵な微笑みを浮かべた。

「ああ、もちろん」

ランパスキャットは、子供の嬉しそうな顔を陰鬱な瞳に映していた。自分の操る剛剣よりも細い、少年の未成熟な身体に両手を乗せる。
それだけでも、コリコの双肩には重過ぎるように見えた。ランパスキャットは少年に跪く。

「俺のために、死んでくれるか」




王都マハーナコーンでは、石の城が真夏にも涼しい陰を作り出していた。

「入れ」

ガスは傲慢に促す。
両脇を衛兵に囲まれながら彼の前に引き出されたのは、厳重な警戒に似つかわしくない、温厚そうな老人だった。

「おひさしぶりです。オールデュトロノミー教官」

モザイクの床が、軍靴の踵に踏みつけられて冷たい音を響かせる。空が灼熱の太陽に支配され、炎のように燃えれば燃えるほど、王城の作り出す陰はあざやかに漆黒を増す。 真夏にこそ、いっそう城は美しい。

「ご老体をお呼びだてして、心苦しいかぎりです。ですが、どうしてもあなたにご足労いただかなければならなかった。
あなたの可愛い、教え子のことで…」

オールデュトロノミーは悲しそうに眉根を寄せる。

かげろう立つ王都の空には、すべての風が、あるべき場所へ帰ろうと吹き荒れていた。

「逆賊であるマキャヴィティ軍曹を、あなたの手で討伐していただきたい」








「風の生まれるところ」 9
2010.01.24