あんな半病人に、あらゆる武術の達人であるギルバートを見張れ、とは。
まるで死ねと言ったも同じではないのか。

マキャヴィティは、軍舎の門へぶつかりながらそこを開ける。無用心にも鍵はかかっていない。けたたましい音をたてる金属にへきえきして、マキャヴィティは門の隣にもたれかかる。官舎をぐるりと取り囲んでそびえたつ、厚い塀は骨を冷やしそうに冷たかった。いつのまにか、赴任当時よりずっと高く、厚くなっている。
酔いが廻ったせいで、マキャヴィティの足はふらついていた。目の前のものさえ、気をぬくと二重にも三重にも見える。瞼を下ろすと、知らず眉間に皺が寄る。
確かに、自分はとても冷たい人間なのかもしれない。

自分の心を知られるよりも、マンゴジェリーの命を危険に晒すほうを選んだ。

また、がしゃんと鉄が打ち合わされる。
隊員の誰かが、帰ってきたのだろう。気まずいとは思ったが、マキャヴィティは挨拶をするために目を開いた。

しなやかな絹が、暗闇にも艶めいていた。

マキャヴィティは急いで塀から離れる。

「そこに誰かいるのか」
「隊長…」

軍人は、有事に備えて待機するのも任務のうちだ。しかしそのような軍の規定は、ギルバート率いる『海軍』では有名無実と化していた。
現に、長であるギルバートですらそれを守ってはいない。

それでも規定は文書化されて各自に示されている。ギルバートがそうしようと思えば、彼の権限で官舎を抜け出したふらちな隊員をいつでも罰することができる。このごろ、ギルバートの不興を買っているマキャヴィティならばそうされてもしかたがない。

しかし、任務を放棄し酒に溺れるのは、しらふで深夜まで帰らないよりもずっと自然な行為だった。
したたかに酔っていたことを、マキャヴィティは誰にともなく感謝した。

ギルバートは血走った目でマキャヴィティを睨む。
彼も相当酔っているように見えたが、マキャヴィティは油断しなかった。
前に、彼には騙されたことがある。

ギルバートは何かを言いかけたが、舌打ちして黙り込む。
公衆の面前では、ギルバートはずっとマキャヴィティなどいないもののように振舞っていた。それはマキャヴィティにとって、むしろありがたかった。けれど、自分の人生でそううまくことが進むわけがないことも知っていた。

今回こそ、規律の名のもとに罰則を受けるのではないかとマキャヴィティは覚悟する。ギルバートは踵を反し、ふらふら歩きだした。

マキャヴィティは揺れながら遠ざかるギルバートの背中を、ぼうっと見送った。
不興を買ったというのも、ひょっとしたらマキャヴィティの思い違いかもしれない。彼は、本当にマキャヴィティに興味をなくしたのかも……。

マキャヴィティは身体を温める酔いに身をまかせて、気持ちよく塀によりかかった。空を見上げると、星がいくつも光る中に銀河の淡い流れがぼうっと浮き上がっていた。

月が明るい。
マンゴジェリーには、明日にでもあの話はなしだと言ってやらなければ。

大きな物が、地面に投げ出される。
マキャヴィティはその音に驚かされて、あたりを見渡した。兵舎に向かっていたはずの、ギルバートの姿がない。その代わりに、地面に黒いものがわだかまって、痙攣しているようだった。

「隊長?」

小さく、何かを嘔吐しているとしか思えない声が風にのって運ばれてくる。

「大丈夫ですか」

塀に背中を預けたまま、マキャヴィティは力の抜けた声で問うた。ギルバートに届いたかはわからない。
できるなら、このまま見て見ないふりをしたかった。

ギルバートらしき黒い影は、なんとか立ち上がる。
マキャヴィティはほっと息を吐いた。
その一息が終わる前に、影はまた地面に倒れる。

「……隊長」

しかたがない。

いくら彼でも、演技で嘔吐はできないだろう。
マキャヴィティは諦めて、ギルバートのもとへ走った。

「大丈夫ですか。しっかりしてください」

うなだれたギルバートの目元を、前髪がすっかり隠してしまっている。
マキャヴィティは彼を担ごうと、ギルバートの右腕を取った。

よっぱらいはせっかくの親切を邪険に振り払おうとする。

ギルバートが今にも吐き出した物の中へ寝転んでしまいそうで、マキャヴィティはそんな義理もないのにはらはらした。

「もうすぐ、部屋につきますから、」

ギルバートの私室のあたりは、夜中ともなれば人気は途絶える。
今更その無用心さに気付きながら、マキャヴィティはなんとかギルバートを背負いつつ、扉を開けた。

ギルバートが女性を切らさないのは、そういう理由もあるのだろうか。
少しだけ考えて見て、マキャヴィティはそれを否定する。意味がない。ただ単に、ギルバートは女好きなだけだ。

部屋は散らかっているのに、がらんとしていた。

「隊長、大丈夫ですか。水が欲しいなら持ってきます」

ギルバートが寝床の代わりにしているのは、ふかふかしたソファーと、背の低い大きな卓に、毛布を敷いただけの即席の寝台だった。これなら、自分たちの使っている二段ベッドのほうがまだ寝心地がいい。

狭いソファーはともかく、応接テーブルの代わりにもなる卓の、毛布の上に膝をつくと、あまりに固くて冷たくて、マキャヴィティは驚いた。

投げ出すわけにも行かない。マキャヴィティは自分も横になるようにして、背負ったギルバートをそろそろと毛布の上へ滑り落とした。
ずっと背骨を圧迫していた重みが消える。マキャヴィティの口から知らずにため息がこぼれる。

カーテンを引かれているせいで、室内は外よりも暗かった。

毛布を落さないよう、注意しながら起き上がると逆に固い寝床へ引き込まれる。
マキャヴィティははっとして暗闇に目をこらした。ギルバートの上に重なるのが嫌で、彼の側に手をついた。まるで、彼の身体を囲い込んでいるようにしてマキャヴィティは寝台へ倒れた。

彼を背負っていたときに首筋に回っていたギルバートの手が、そのまま絡みついている。
ギルバートの目の、白い部分が暗闇に浮き上がっていた。

灯りもないのに、目が光っている。涙がそこを濡らしているかのようだった。
彼が微笑む気配だけが、暗闇の中から伝わってくる。

マキャヴィティは恐怖にかられてむやみに暴れたが、ギルバートには適わなかった。