強い雨が兵舎を叩いていた。

「待ってくれ、ランぺルティーザ!」

ねっとりと重い空気のなか、マキャヴィティは小柄な少女を呼び止めた。

「もう、三か月も連絡がない」

それだけで、彼女にはわかるはずだった。これまで、いくども彼女を呼び止めようとしたが、マキャヴィティは彼女に避けられていた。ランぺルティーザは、マンゴジェリーを心配するそぶりを見せずに普段通りに振舞っていたが、表情が固くなり、笑わなくなった。マキャヴィティは人に対する観察眼が師に劣らず鈍いが、それでも彼女の異様な様子には気付いた。

「なんのこと」

ランぺルティーザは、庇から滴り落ちる滝のような雨水を見るふりで、遠い目をする。「知らないよ、何も」
「ランぺルティーザ、嘘をついたのは俺がわるかった。あいつに、おまえを巻き込みたくないと言われていたんだ」

しらじらしい言葉だと自分でも思ったが、マキャヴィティはどうしても彼女に聞きたかった。
マキャヴィティは彼のことを何もしらない。ランペルティーザなら、彼の立ち寄りそうな場所をしっているかもしれない。

「真剣に心当たりを探してくれ。あいつにもし何かあったんだとしたら」

自分たちの身も危うい。
三月だ。三月もの間、マキャヴィティは火のつくような思いで、一時も心休まることがなかった。

「あいつのことは、期待しないほうがいい」
「ランぺルティーザ…」
「しょせん、泥棒だよ。約束を守るはずがない。裏切らないはずない。
 だから、あんたも、あいつのことなんかあきらめなよ…っ」

マキャヴィティが何かを言う前に、誰かの気配が近づいてくる。角を曲がって姿を現したカッサンドラへ、ランぺルティーザは会釈してすれ違った。彼女の様子に、カッサンドラも何かを感じたのだろうか。それとも、ランぺルティーザの押し殺した悲鳴を聞かれたか。カッサンドラはいぶかしげに眉をよせていたが、彼女が用があるのはマキャヴィティらしい。
カッサンドラの黒い瞳が、マキャヴィティを映してまばたきする。

「何か、用ですか?」

ギルバートお気に入りの女性参謀に対して、無意識に不遜な態度をとりながらマキャヴィティは姿勢を正した。しかし内心では、動揺を鎮めようとやっきになっていた。今の話を、聞かれてはいなかったと思う。聞かれても何のことかわからないはずだ。マンゴジェリーの名前を、口に出してはいなかった。

「マキャヴィティ、あなたに会いにいらした方がいます。今、広間でお待ちいただいています」

カッサンドラの声は、高いが響きが柔らかい。マキャヴィティの心を落ち着かせるように、耳に心地よく響いた。ギルバートのお気に入りでさえなければ、きっとマキャヴィティも彼女に好意を抱いただろう。

「何かの間違いでは……私には、訪ねてくるような知り合いはいません」
「お名前を伺っています。それでも心当たりがなければ、そう伝えてお帰りいただきましょう」

マキャヴィティは一瞬、マンゴが会いに来たのではないかと顔を輝かせた。しかし、その可能性はない。彼がこんなところに顔を出したら、それこそ破滅だ。

「訪ねていらした方の名前は…」
カッサンドラの唇からこぼれた思いもかけない名前に、マキャヴィティは思わず反復してしまった。

「オールデュトロノミー、教官?」
「ああ、やはりお知り合いですか。よかった。
先ほどから貴方を探していたので、長くお待ちいただいています。急いでいらしてください」



靴が床を叩く早い音が響く。
広間の扉についたノブを回すのももどかしく、マキャヴィティはそこへ飛び込んだ。

大きく取られた窓に手を当てながら、外を見ていたらしいその人が、ゆっくり振り返る。
灰色の眉の下には表情に富んだ優しい目があり、口元には一年前と変わらぬ微笑が浮かぶ。

「教官、どうしてここへ?!」

なつかしい恩師の顔だった。つい、マキャヴィティの気が緩む。敵地にあって、信頼できる人を見つけた時、泣きたくならないほうが嘘だ。

「やあ、ちょっとここに用事があったんでね。寄ってみたよ」
「よく、こんな都から離れた所へ」
「そんな所へ君をやったのは私だからね……元気そうでよかった」

オールデュトロノミーは、どこか痛そうな顔をしてそう言った。マキャヴィティの胸もむやみに痛んだ。

「はい、問題ありません。ここにはギルバート隊長はじめ、すばらしく腕の立つ軍人ばかりがそろっています。新兵の私などは日々学ぶことばかりです」
「そうか。よかった。君は本当にギルバート隊長を尊敬しているのだね。都にも噂は届いているよ」
「それは…」

マキャヴィティは表情を凍りつかせ、こぶしを握りこんだ。

「はい。すばらしい…指導者です」

尊敬するオールデュトロノミーを巻き込みたくない。また、醜い権力闘争に身を浸した自分を見せたくない気持ちも強かった。マキャヴィティの内心がどうあれ、傍からは利権争い――そう見えるだろう。

オールデュトロノミーはそうか、と呟くと、また先の見えない窓の外へ視線を移し、長い事沈黙していた。折からの激しい雨で、硝子越しにはほんのひとまたぎの距離も見通せなかっただろうに、灰色の眉の下にある慈悲に満ちたまなざしはいっこう構わない様子だった。
豪雨は、すぐに通り過ぎるはずなのにおさまる気配がない。

「私がここに来たのは、無駄だったらしい」
「無駄? どういうことですか?」
「君なら、もう予想はついていたろうが、トーマスは軍部の手のうちにいる。彼はすべてを告白した。もう、君の敬愛するギルバート隊長を助ける手立ては万に一つもないと思ってくれていい」
「トーマス、とはだれですか。ギルバートを助けるって、一体何の話ですか」

オールデュトロノミーは悲しそうな顔を暗い硝子に映しており、マキャヴィティを振り返らなかった。彼を振り向かせたのは、ぶしつけに開いた扉の音だった。

「ギルバート、隊長……なぜここに…」
マキャヴィティはあっけにとられて呟いた。三日後には都から使節団がやってくるはずだ。彼らを迎える準備に、忙殺されているはずのギルバートがなぜかそこに立っていた。

「マキャヴィティ、お前、いい教師を持ったな」
「なんで、この人のことを知ってるんだ」

なぜオールデュトロノミーがマキャヴィティの恩師であることを知っているのか。マキャヴィティは嫌悪感で顔がゆがむのを止められなかった。どこかで話を盗み聞いていたのか。自分がスパイではないかとギルバートに疑われているのは知っている。それでも彼のやり方に怒りを感じないではいられない。
たとえ、自分がもっと姑息な手段を使って彼の周辺を探っていたとしてもだ。

「この人は忠告しにきてくれたんだ。そうでしょう?」

ギルバートは、不遜に顎をしゃくった。しかし、マキャヴィティがさらに不信感を募らせうるほど口調は柔らかく、優しげだった。
オールデュトロノミーは、開いた掌をギルバートへ差し伸べる。

「私は、教え子を救いたい。それだけだよ」
「それは無理だ。こいつは、もうここの一員だ。本人がどう思おうと、外からはそう見える」
「命だけは、助ける道がある。ギルバート殿、貴殿さえその気なら」
「貴方はあいつらのやり方をなんにもわかっていらっしゃらない」

信じられない事だが、ギルバートがオールデュトロノミーに対して敬意を払っていた。

マキャヴィティの混乱は深まるばかりだった。この場で何がおこっているのか、さっぱりわかっていないのはマキャヴィティだけだった。そのにぶいマキャヴィティにも、止められないほど大きなうねりが近づいているのは感じられる。

「私を救う、とはどういう事ですか。私は、教官にまで何かご迷惑をおかけしているのでしょうか」
「マキャヴィティ…」
「これ以上はこの人は言えない。お前、本当に鈍いな」

ギルバートが眉尻を下げてあきれた顔をする。表情豊かなので、あきれた顔をすると本当に間抜けな顔になるのが腹立たしい。振り切るようにしてマキャヴィティは問うた。

「隊長はわかっているんですか。教えてください、何が起きようとしているのか」
「軍本部による粛清だろ」

半ば予想していた答えだったが、マキャヴィティは瞠目した。
――間に合わなかった。

「なるほど。
教官、申し訳ありません。教え子から反逆者が出たとなれば、お立場が危うくなるのでは」
「そんな生易しいものじゃない。ここに会いにきたんだから、連座ものだ」

ギルバートが世間話でもするかのように気軽に口をはさむ。

「マキャヴィティ、謝るものじゃない。私は、救いにきたんだから。もちろん、君にその気があればの話だった…」
「どうか、今すぐお帰りください。私のことは…もう」
「私と一緒に、来る気はないかね?」

マキャヴィティは苦笑した。
ギルバートの不正を暴き、その手柄を携えて軍本部に忠誠を誓えば、この平民で構成された『海軍』ごと救いあげられる見込みはあったかもしれない。それだけが何の後ろ盾もないマキャヴィティと、心ならずも王国のために命を削って海を守る、この『海軍』の隊員たちが生き残る数少ない可能性だった。
しかしもう、軍本部が『海軍』を粛清する口実を得てしまったとすれば、たとえマキャヴィティ一人の身柄にしても、オールデュトロノミー教官の口添えがあったところで、おそらくは…

「どうかお帰りください」

道を押し流してしまいそうなほど激しい雨が、兵舎を出たとたんにオールデュトロノミーの後ろ姿を隠してしまった。
ギルバートとマキャヴィティだけがそこにとり残された。

「あんた、何をしたんだ」
「俺に何を聞きたい?」

マキャヴィティがあきらめて振り返ると、ギルバートは目の下の瞼を押し上げる嫌な笑い方をしていた。我ながら力のこもらない声で、マキャヴィティはさらに問う。

「トーマスというやつのことも、知っているんだろう。説明してほしい。あんたが軍部に隠れて、何を企んでたんだ」
「知りたいのか? 今更知っても、もう遅いのに?」
「ああ、知りたい。自分が何で反逆者として死ななきゃいけないのか、その理由くらいは知りたいね」

睨み合いはほんの一瞬だった。

「着いてこい」

上着を捧げ持ち、待機していたカッサンドラからそれを受け取り、ギルバートも雨の中へ足を踏み出す。カッサンドラの泣きそうな顔にマキャヴィティの心はほんのわずか動かされたが、それがどうしてなのかはわからなかった。