月が明るいせいで、灯を落としても暗闇にはならない。
青いような部屋中を、かすかな寝息がさざなみのように満たしている。一人、鼻から暴風を吹き出して盛大にいびきを掻いている者がいるが、隊員たちの眠りはそんなことでは妨げられないらしい。
四人部屋の、壁際の寝台に、マキャヴィティは半身を起こして座っていた。
海軍の宿舎では、ギルバート以外の隊員たちに個室などあてがわない。
士官学校以来、大勢ですごすのは苦手ではなかったはずだが、マキャヴィティはここに暮らすようになってから寝付けない夜を過ごす事が多かった。
以前マキャヴィティが寝起きしていた下宿は、胃痛でマキャヴィティが倒れた隙に、ギルバートが引き払ってしまっていた。
全快して、さあ我が家へ戻ろうと医務室の荷物をまとめたマキャヴィティへ、ギルバートは悪びれず言ったものだ。
『ああ、あの狭いとこ。もう帰らなくていいぞ。俺が荷物を運んどいた』
ギルバートは頬のあたりをむずむずさせて、マキャヴィティを見た。お礼を期待する沈黙が長いこと続いたが、マキャヴィティは何も言えなかった。どうして勝手にそんなことをとか、自分にひとこと聞いてくれなかったのはどうしてなんだとか、言いたいことはたくさんあったのだが、無駄なことだ。言っても無駄なら、諦めて沈黙する以外に他に、何ができるだろう。
「…まただ」
『海軍』宿舎からは、前に面した教練場が広く見渡せる。
棟の違う建物の上にへばりつくようにして、あやしい物陰が動いている。子どもかと疑うほど小さな人影は、マキャヴィティがここに配属されたときより三倍も高くなった壁を、近くの建物をあしがかりに難なく飛び越えた。腹に何かを抱えているのが、月をすかしてよく見えた。今夜だけのことではない。週に数回、こういうことがある。
マキャヴィティは白い掛け布をはねのけた。
最初からそのつもりで、身軽に動ける服を脱がずにいた。足に靴だけくくりつけて、窓から屋根へよじ登る。
塀の向こうには、灰色の小屋が連なるスラム街と、さらに遠くに真黒く海が広がっていた。吸い込まれそうな広さだ。
マキャヴィティは何も考えずに、あやしい人影を探して暗闇に目を凝らした。
屋根にへばりつく視線のすみに、振り返ろうとする気配を感じる。
少しの間を置いて、マキャヴィティがそろそろと顔をあげると、影はどこかの路地に曲がったのか、後姿が消えていた。急いで屋根から塀へ飛び移り、そこから地面へジャンプする。足元の砂利が飛び散った。マキャヴィティはかまわず立ち上がると、人影が飛び降りた場所を探して、塀づたいに走り出した。
星明りだけでは、おぼつかない。振り返ろうとする横顔は、距離があったので誰だか判別できなかった。しかし小柄だと予測したのは正しかった。あやしい影が降り立ったのと、同じ場所に立ってみてあらためて確認する。あの小ささ、骨の細さ、あれは、女性だった。
しかし彼女はどの角へまがったものか。引き離されたようで、足音もすっかり絶えている。あきらめかけるところに、つんとする異臭がマキャヴィティの鼻をついた。救護室で嗅いだ薬草と消毒液の匂い。それを頼りに、マキャヴィティはもういちど歩き出した。
自分が、ギルバートを見張るための駒として本部に数えられていたならば、その駒が使えないと判断した本部は、きっとあらたな駒を送り込もうとするだろう。しかし今更新しい人材を送れば、当然警戒される。
もし、もとからいる隊員を、懐柔したならば、どうだろう。それは思いもかけない伏兵として『海軍』に害をなすかもしれない。
走るせいで、激しく動悸するマキャヴィティの胸中を、隊員たちの顔がよぎる。どれも気のいい、あけっぴろげな人物ばかりだ。まさか、仲間を裏切るはずはない。
頭の中でそう打ち消してみるが、彼らのことをマキャヴィティはどれほども知らない。だから、マキャヴィティは全力で走り続けた。そして、前を行く小さな背中をついに視界に捕えたのである。
「どういうことなんだ…」
スラム街とはいえ、海軍施設のすぐ近く。ギルバートの膝もとで、マキャヴィティを待っていたのは思いがけない人物だった。本部の軍人ではなく、グロールタイガーのクリューのひとり。
「はじめまして。おえらいさん?」
マンゴジェリーは、彼の名前と並んでかならず挙げられる見事な彼の赤毛を、粗末な寝台に散らしていながら、それでも皮肉げな口調でマキャヴィティを迎えた。
背後で扉がしまり、室内に暗闇が射す。
後手に扉を閉めたランペルティーザは、大きな目でじっとマキャヴィティを見つめた。自分が親切に面倒を見ていた新入りに、あとをつけられていたと知ったとき、彼女は何を思っただろう。