寝台に横たわった海賊は、瀕死の床にあるように見えた。皮膚は紙のように乾いていて、雑音の混じった呼吸をひっきりなしに繰り返している。灰色をした細い手首に、剣を振り回す荒くれ者の面影はない。
しかし、グリールタイガーの船で対峙し、手配書で回されたマンゴジェリーの面立ちと、血のような赤毛は病のやつれに紛れない。
海賊だ。それも、非常にたちの悪い。
「これでも、かなりよくなったんだ。話せるようにも、なったし」
「こんなことをして…ただですむと思っているのか」
「あたしたちを、軍につきだす?!」
寄りかかるようにして出口を塞いでいたランペルティーザが、勢いよく顔を上げる。彼女の身体を受け止めて、扉は力いっぱい叩かれたように騒々しく音を立てた。
病人がいるのに、海風が、容赦なく建物のすきまから忍び込んでくる。ランペルティーザが灯したろうそくは、動かしていないのに消えそうにはためいている。
「あたしは、絶対に隊長やみんなを裏切ったりしない。ただ…」
彼女は、唇を噛んだ。
「ただ、マンゴは、他の海賊たちとは違う」
マキャヴィティは、何と言って彼女をたしなめたらいいかわからなかった。たしかに、そこらの海賊とはマンゴジェリーは違うだろう。彼は凡百の海賊どもより、ずっと多くを盗み、壊した。
そんなマキャヴィティの心中を察したのだろうか。ランペルティーザは仲間と目を合わせていられなかった。彼女は、聞き分けなく床を見つめた。
「俺は、とうとうお迎えがきたのかと思った」
ざらついた声は、それまで黙っていた海賊のものだった。それは思いがけず芯が通っていて、室内に大きく響いた。
「生き汚い俺にも、とうとうお迎えがきたのかなって。ランプ、気にすんな。
もともと助かるとは思ってないから」
嫌だと叫んだのは、ランペルティーザだった。
「あたしが海賊に攫われたとき、助けてくれたのはあんたじゃない! あたしを『海軍』にあずけたのはあんたじゃない! あたしはあの時のかりを返したい」
「俺はただ、この街にひとりで生きていくこともできない子どもを放り出しただけだ」
「同じことよ。だって、なんであんたは役立たずを船から海に投げ捨てなかったの? わざわざどうしてこの港まで運んだの?! お尋ね者のくせに、この港に何度も船をつけた理由は?」
「ランペルティーザ、もう、よせ。わかった」
「いや、旦那。わかってないよ。
こいつは確かに俺にたぶらかされたけど、もともと、こんな穴だらけの隠れ家がばれないはずはなかったんだ。俺はいずれは、絶対に捕まってた。こいつは本当に、俺をかくまう以外のことはしてないんだよ! ギルバートを裏切るとか、そんなだいそれたことはしてない」
「たとえ子どもだって、反逆者に水一杯与えただけで死罪だ。
お前が知らないはずはないだろう」
「旦那様のお心次第だ。
お聞きになったように、確かにランペルティーザは、間者にするために俺が軍に拾われるようしむけた。だけど、俺がどれだけ誘っても、こいつはけっして軍から出ようとはしなかったし、情報を漏らさなかった。もしこいつが間者だったなら、どうして俺がここに? 旦那たちが船を襲う計画に気付いて、逃げおおせているはずでしょう。グリドルボーン嬢だって、生きてはいないはずだ」
「それは海賊を助ける理由にならない。それに、なんらかの事情があってランペルティーザが今回だけお前たちにつなぎをつけられなかったという可能性が、ないとは言いきれない」
「旦那。無駄に波風をたててどうします。隊員に裏切り者がいたなんて不名誉を、ばか正直にこうむることはない。口を拭って俺の賞金首を、上に差し出せばいい。それでいいじゃないですか。
不安なら、こいつは失職させるなりなんなりして、軍から追い出せばいい。そうしたところで、平隊員一人が失職したことは誰にも気付かれないでしょう」
マンゴジェリーの、笑みさえ浮かべた顔が驚きにゆがむ。
マキャヴィティが気付く前に、いつのまにか背後に回った小さな人影がマキャヴィティの腰に隠していた短刀をすらりと引き抜いた。
「マキャヴィティ、ごめん」
鞘が投げ捨てられた先は、蝋燭の明かりがとどかない薄闇だった。
マキャヴィティが、下穿きを纏める紐についでに手挟んでおいた短刀は、いまやランペルティーザの手中にあった。上着の裾をかぶせて隠していたというのに、この暗い中でよく見つけたものだ。
「バカなことはするな…っ」
かすれて、波を打つように大きさの揃わない悲鳴を上げたのはマキャヴィティではなくマンゴジェリーだった。彼は苦しそうに胸をかきむしった。このとき、彼はようやく病人らしい声を出した。
「あたしはマンゴだけは殺させない。もし、あんたがどうしてもこのことを本部に報告するというなら、あんたをここから一歩も出さない」
「よせ、お前に、何ができる。……ランプ!」
「あたしだって、訓練をうけた軍人だ」
「軍全部を敵にまわす気か? 海賊にでもなるつもりか」
「あたしは海賊を絶対に許さない! あいつらの仲間になんてならない」
「よせランプ。よせよ。お前まで死ぬことはないじゃないか」
ランペルティーザの額には、汗が玉を結んでいる。
マンゴジェリーは、ほとんど死にそうな顔をしていた。
あばら家に吹き込む風は、笛のようだった。海岸に近いせいで、海鳴りが絶えず轟いている。
二人に挟みこまれたマキャヴィティは、都に上がったときの軍人達を思い出していた。傲慢で、前線を顧みる事のない者達。
――何のためにわざわざお前を『海軍』へやったと思っている。
彼らに比べてランペルティーザが、どれほど血と泥にまみれて生きてきたことか。幼いときから、彼女は死と隣り合わせに暮らしてきただろう。それは何も特別なことじゃない。このスラムに暮らす、多くのものがそうだ。
ギルバートに、マンゴジェリーのことを報告するべきか?
彼の操るあざやかな剣技を、次に思い出す。
昼間見せ付けられた彼の強さを、マキャヴィティは苦さとともに脳裏に描いた。野心に溢れたあのギルバートだったら、ここでランペルティーザを見逃したりしないだろう。マンゴジェリーも、ここにいないギルバートの動向を何より気にかけているふうだった。言葉の端々から、それがわかる。マキャヴィティの腹の中で、ぞろりと何かが動いた。
「俺は、兵隊だ。俺は国を裏切れない」
「ああ、やっぱりあんた固いね。いいよ。マンゴが完全に治るまで、あんたにもここで不自由な思いをしてもらうことになるけど、しょうがない」
「ランペルティーザ、本当に、こいつが仲間を手引きしていないとお前の名前にかけて誓えるか?」
ランペルティーザの瞳に、希望としか見えない光が灯る。
「こいつ、本当に死にかけたの。助かったのが奇跡。こいつの傷を縫ったのはあたしだから、わかる」
「海賊の罠ではないと、そう言えるんだな。もし間違えば、仲間の命が危ういんだぞ」
「わかってる。軍の施設にマンゴは一歩も踏み入れさせない。動かせるようになったら、たとえマンゴが歩けなくても引き摺ってでもここから出て行く」
私も一緒に。ランペルティーザは最後にそう付け加えた。
「見張りは、一人じゃあぶない」
「マキャヴィティ…まさか、手伝ってくれるの?」
「危険な海賊を野放しにはできない。わかってるのか? 責任は本当に大きいんだぞ」
「ああ…! あんた、いいやつだよ!」
「わかったら、それを返してくれ。無くしたら減俸処分だ」
「固いんだから、もうっ!」
ランペルティーザは手探りで鞘を見つけると、ろうそくに煌く刃をさっさとそこへおさめてしまう。あっと思う間もなく、小柄な少女はマキャヴィティの首筋にぶら下がった。あまり重くは感じなかった。
小さな影は、両膝を曲げて完全に地面から浮き上がっているというのに。
貴族や都の軍人達のために、――ましてギルバートのために、ランペルティーザを売ることはできない。一瞬前まで、決して見過ごせないと考えていた自分を無視して、マキャヴィティはそう結論付ける。
自分は彼とは違う。手柄のためなら、最愛の女性すら売り渡した彼とは、違う。