軍隊の一日は早い。
朝の食事から訓練は始まっている。装備を整えて食堂に集まり、いっせいに食べ初めていっせいに食べ終わらなくてはならない。マキャヴィティが妻帯者でもないのに外で暮らせていたのは、実は特別なはからいだったのかもしれない。
ランペルティーザは、何食わぬ顔をして仲間に混じっていた。今から思うと、マキャヴィティは彼女にまんまと後をつけさせられたのかもしれない。味方に引き入れるために。
それを知っても、いまさらマキャヴィティは後には引けなかった。
抱える秘密の大きさが、胃にずっしりと重かった。しかし内心とは裏腹に、マキャヴィティは軍隊学校からのくせで誰よりも早く食事を終えてしまっていた。
そのせいで、面倒な仕事を押し付けられた。マキャヴィティは朝食で重い胃袋を抱えたまま、重厚な扉を叩く。乾いた木目は、マキャヴィティの思った以上に大きな反響を返して、ノックしたマキャヴィティ自身をびくりとさせる。
荒々しい音は室内にも響いたはずなのに、部屋の主からは返事がない。
マキャヴィティはしばらく待ってみたが、窓から差し込むぽかぽかした日差しに、肌を温められる以外の変化はおきなかった。長い廊下には、他に人影がない。マキャヴィティはそれを幸いに、しばらくぼうっと立ち尽くした。
どうすべきかと、鈍い思考回路で悩みはじめる。今度は遠慮がちにノックしてみても、やはり何の反応もない。そこはギルバートの部屋だった。
ギルバートは、出かけているのだろうか。
軍舎の中にあるギルバートの執務室は、同時に彼のねぐらになってしまっている。ここに彼がいないとなると、マキャヴィティは彼の行きそうな場所にまったく心当たりがなかった。
どうしても彼に渡してしまいたい書類が、マキャヴィティの手には握られていた。今日だけは彼に会わなくてはならない。
ずいぶん長い間、マキャヴィティはギルバートに避けられていた。おかげで軍舎でも、めったにあの傲慢な顔を見ない。普段はそれでいい。しかし今のように、仕事があるときは不便だった。
何気なくドアノブを回すと、音も立てずに細く扉が開く。
罪悪感を覚えたが、ギルバートの顔を見ずに任務を遂行できるという誘惑に、マキャヴィティは勝てなかった。隠し事のある今はなおさらだ。
ギルバートの部屋は薄暗く、静かだった。ただの上官の執務室だったならば、マキャヴィティも入室することを迷わない。しかしギルバートがそこで寝起きしているせいで、脱いだままの上着や、下着なんかが無造作に執務机にかけてあって、仕事場というよりは私室といったほうがいいくらいだった。
勝手に他人の家に踏み込んで、秘密を暴いているような気持になりながら、マキャヴィティはなるべく周囲を見ずに窓際の執務机に向かって突進した。
机の上に、くしゃくしゃになった肌着が投げ出されている。それが大して汚れていないことを確認し、その上に目立つように書類を重ねる。不安定な場所に置いたせいで、紙切れは机を滑り落ちて床にちらばった。
「何をしている」
かがんで書類を集めていたマキャヴィティは、心臓がひときわ強く胸を打つのを感じた。冷や汗が背中を流れる。
「書類を…」
「何をしていると聞いてるんだ」
不機嫌な声だった。
最初こそ、彼がいたことに驚いたマキャヴィティだが、彼が苛立っていると気付くと逆に落ち着いた。開き直ったのかもしれない。
「失礼しました。書類を置かせていただこうとしていたところです。
重要なものなので、ぜひ今日中に目を通してください」
ギルバートは窓のある執務机とは反対側の、部屋の隅に、応接用の卓を寄せそこで眠っていたようだ。かけ布をはねのけて、大きく伸びをする。
「あいかわらず、要領が悪いな」
書類を落としたことを言われているのだと気付いて、マキャヴィティは筋違いにかっとする。けれど、それをギルバートにぶつけるような無謀な真似はしなかった。
そろえた書類を注意深く机に乗せ、一礼して暗い部屋を出ようと歩き出す。床に色々なものが落ちているせいで、気をつけないとつまづいてしまいそうだった。
グリドルボーンが去ってから、ギルバートは変わった。
昔はここは、ちりひとつ落ちてはおらず、神経質なほど掃除されていたものだった。
空には高々と陽が昇っているのに、開け放した窓には、カーテンがひかれていた。薄暗いのは、そのせいだ。海風がふきこんで、場違いな爽やかさで通り抜けていく。
「待て」
開き直ったと思ったのに、また嫌な動悸が胸で暴れる。
「詫びも入れずに行く気か」
ギルバートの隣で、かけ布が内側から動いた。
彼の大きな声に、浅い眠りを揺さぶられているのだろう。軍人でもない彼女が、ギルバートの執務室へ引き込まれてから一月以上経つ。長続きしているほうだ。
ギルバートから叱咤を受ける所を、彼女に見られるのはマキャヴィティとしても避けたい。たとえそれが、言いがかりに近いものであったとしてもだ。
土下座でもすれば彼の気がすむのか。
そうする気はまったくないまま、マキャヴィティはギルバートの次の出方を待った。
「どうした。何とか言えばどうだ」
ギルバートは、無表情だった。薄暗がりで表情がわからなかっただけかもしれないが、詰問する声にも疲労が滲んでいるように思えた。
「申し訳ありませんでした」
ギルバートは即席の寝床から飛び降りて、マキャヴィティの前に立つ。
マキャヴィティは、久しぶりに彼の顔を正面から見た。
あからさまに避けられていたので気付かなかったが、グリドルボーンに逃げられた直後のように、ギルバートは荒れていた。落ち窪んだ目の周りと、いやにぎらぎらした目が、港の階段に意味もなく座り込む中毒者のようでぞっとする。
彼の目の下にある傷あとが、今にも血を流しそうな、自暴自棄な目つき。
それは、彼がマキャヴィティの肩に噛み付いて、刀傷の上にさらにやっかいな傷を残してくれたあの日のことを思い出させるに十分だった。
少し持ち直した時期があったと思うのだが、彼に一体何があったのだろう。
マキャヴィティの願いも虚しく、寝床からそろそろと女性が顔を上げる。完全に目を醒ましてしまったらしい。
ギルバートは一人では決して過ごせない性質らしい。彼の回りには、女性達がひっきりなしに出入りしていた。寝床でいごこち悪そうにしている女性も、そのうちの一人だ。彼女たちはギルバートの権勢が目当ての、合理的な乾いた思考の持ち主ばかりではなかった。むしろ彼自身に惹かれているように見えた。それが、マキャヴィティを驚かせる。しかし、ギルバートはそれにちっとも癒されていないようだ。
マキャヴィティは、面倒なことの成り行きにうんざりしながら、ふてぶてしい無表情を貫いた。他にすべきことも見つからない。
ギルバートは、さぐるようにじっとマキャヴィティの顔を覗き込んでいる。頬に生ぬるい息がかかって、マキャヴィティはつい一歩下がった。
「俺の様子を見に来たんじゃないのか?」
「は?」
ギルバートは失望を露にする。
「……勝手に入るなよ」
彼がうつむくと、ギルバートが自分より、少しだけ背が低いことを実感させられる。彼の鼻先に、自分の肩がある。固い軍服に阻まれて感じられないが、今も彼の息がそこに掛かっているだろう。噛みつかれた傷が、癒えたはずなのに布地の下でずくりと疼いた。ギルバートの歯が、すぐそこに迫っている。
身体が勝手に動いた。
「申し訳ありません、失礼します」
「え? おい」
顔がひきつるのをどうしようもない。
マキャヴィティは、上官の制止だとわかっていても振り払って部屋を出てしまった。次にギルバートに会うのが、もっと苦痛になるとわかっていても今は逃げ出したかった。
自分でもわけがわからない。
ただ、すでに癒えた傷にギルバートが近づいただけなのに。