ひばりのような彼女達の声は、教室中へ響いていた。
一日の最後の授業ともなれば、窓から差し込む光にはもはや星明りがまぶされはじめている。それなのに彼女たちときたら、昇ったばかりの太陽のように溌剌としていた。そうさせているのは、かの外国の王子様なのかもしれない。
フィエロは彼女たちに囲まれて、時折ちかりと笑顔を閃かせていた。
笑うと、目が細くなってほとんど見えなくなる。そうすると、自堕落な彼の意外な一面を見せられたようで、夢中になってしまいそう。
笑顔には、彼の聡明さと、如才なさがあらわれている。
笑顔。泣き顔。無表情。表情の起伏に富むのは、それだけで魅力の一つだろう。
フィエロは微笑みを消すと、少女たちの間からするどい視線を横目に流した。
しまったと思う間もなく、ネッサローズは彼とまともに視線を合わせていた。ネッサローズは、自分でもふと微笑んでみた。
まぶしそうに、目を細めて、はずかしそうにはにかんでみせた。いつもそうするように、その時も。
そうして、悪意はないと表現して、手元の教科書に見入るふりでうつむいた。
――軽率だった。
彼は、派手やかな人の常として見られることに慣れている風だけれど、視線にはけっこう力がある。
あんなに無防備にそれを当てていたのでは、彼に気付かれて当然だ。
はずかしそうに作った笑顔は、自然だったろうか。自然だったに違いない。実際、自分は恥ずかしかった。見ていたことを気付かれて、気まずかった以上に。ネッサローズは額に右手をあてた。熱い気がする。
私にも、男の子への興味があるのね。
確かに、彼は素敵だ。
顔中をくしゃくしゃにして作る笑顔も、大人ぶった皮肉な言動も、笑顔に紛らわせた悲しそうな瞳も、ネッサローズが触れたことのない魅力にあふれている。でも……。
「どうしたの?」
ひざから教科書が滑り落ちる。
赤い表紙が床を叩く前に、身軽な王子はそれを片手に受け止めた。
「気をつけて。君じゃ拾えないだろう」
ネッサローズは車椅子の背もたれに身を擦り付けた。
腰をかがめたフィエロの顔が、頬に息が触れそうにすぐ近くにある。
「…ありがとう」
「怒らないの? 君のお姉さんなら、真赤になって怒るだろう。あ、真緑になって?」
わざわざ意地悪く訂正してから、王子様はネッサローズの教科書を肩に背負うようにしてネッサローズから取り上げた。
「拾ってくださって、ありがとう。私、いきなり声をかけられたものだからびっくりしてしまって。ごめんなさい」
「ああ、それじゃあ僕のせいじゃないか。こちらこそ謝るよ」
ネッサローズは他の少女たちに助けを求めようと、立ちはだかるフィエロの後をおどおど探った。
椅子と机だけが、空っぽのままいくつも並んでいる。ネッサローズが考え事に耽っていたのは、そんなに長い時間ではなかったのに、教室からはいつの間にか彼女たち以外の人影が消えていた。
窓には薄い透明な青色と、猫の爪型の月が浮かんでいた。さっきまで薄紅色を広げていたのに、夕暮れというのはこんなにめまぐるしく移り変わる。
ネッサローズは車輪を強く握り締めた。逃げ出したいときでも、笑顔はいつも彼女の頬にある。
「私こそ、さっきはごめんなさい。あなたたちが楽しそうなので、つい見とれてしまって」
フィエロの意地悪に気付かないふりをして、ネッサローズは本を受け取ろうと手を伸ばした。空にむかって開いた掌は敵意のない証。
陽に当たらないネッサローズの肌は、夕闇にやけに白く浮き上がった。幽霊のような細い腕に、フィエロは本を落とす。
車椅子と机が派手な音を立てた。
ネッサローズがとっさに身体を引いたせいで、車輪が後進して教室中に並んでいる机の一つにぶつかった。衝撃に、ネッサローズの身体が車椅子から投げ出されそうに浮き上がる。それを止めたのはフィエロだった。両方の肘当てを掴み、ネッサローズの胸を自分の肩で押し返すようにして車椅子の背もたれに彼女を押し付け、椅子ごと転倒するのを防いだ。
「ありが…」
それでもまだネッサローズは微笑んでいた。
仮面のように張り付いた微笑みは、むしろネッサローズが望んで消し去れるものではなかった。危険を感じているからこそ、ネッサローズは勝手ににやにやする自分の顔をどうすることもできなかった。
フィエロはネッサローズの首筋を拳で強くこする。
「な、なに…」
「やっぱり、もともと白いんだな。何にも手につかない」
何を言われたのか、やっと理解してネッサローズは目の前に立ちはだかる黒い影を力いっぱい突き飛ばした。
フィエロはもう一度肘置きを掴んで、車輪が暴走するのを防いだ。
「離してちょうだい」
リボンで額の上にとめた前髪が、乱れて鼻筋にかかるのを見ながらネッサローズは精一杯低い声を出した。
「そんなに怒ることないだろう」
「私はエルファバとは違うわ。私は生まれつき緑色じゃないの」
「そうみたいだね」
「あなたこそ、こんなことをしてやつあたりしているの?
姉とあなたがいつもどんな話をしているかは知らないけど、私を巻き込まないで」
フィエロの瞳から稚気が消える。
笑みの気配の完全に失せた男の顔は、暗闇の中で恐ろしかった。
けれど、ネッサローズはそれ以上に怒り狂っていた。何かもっと、相手を言い負かしてやろうと必死で言葉を探す。
劣等感を感じているくせに。
生きてる実感がないくせに。
自分がなにをしているかわからないくせに。
生きているのが辛いと感じてる人間を見るのが、そんなに楽しいの?
「睨まないでくれ。悪かった」
フィエロは、すぐにいつもの余裕を取り戻した。けれどネッサローズは彼のようにはいかない。
ネッサローズは逃げ出そうと車輪を回した。縦横に並んだ机と、フィエロに阻まれて上手くは動けなかった。
「送っていくよ」
「自分で行くから、退いてください」
「待って、待ってよ。仲直りしよう。君に嫌われたままでいたくないんだ」
ネッサローズは叫びたいのをなんとかこらえた。あなたが気にかけているのは、私じゃない。
「君は綺麗だ」
フィエロは、どうしてもネッサローズを通してくれなかった。ネッサローズはいらいらしながら車輪を叩いた。薄青かった空は、今はからすのように真黒い。
「君は綺麗だ。自分でも知ってるだろう。白い顔、白い肌。黒い髪。君は本当に綺麗だ」
綺麗なものに、飽き飽きしているくせに、フィエロはネッサローズの乱れた髪を人差し指で払う。
そのまま、長い髪をネッサローズが見たこともない大きな手で撫でる。我慢できなくて、ネッサローズはとうとう叫んだ。
「ボック!!」
金切り声は、けたたましく静寂を裂いた。
「ボック! ボック! 助けて、誰か!!」
制服の上着が鼻先でひるがえる。
「助けて!」
フィエロは振り返らなかった。
真っ暗な教室に、ネッサローズはたった一人で残された。
「ボック……たすけて…たすけて」
だれもいない。
空気の冷たさが、今更になってネッサローズには辛く感じられた。
それでも、ネッサローズはそこで助けを呼び続けた。
「たすけて。助けて。…私をたすけて」
彼が本気じゃない事はわかっていた。
――可哀そうな人。恵まれているくせに、それを感じられないのだ。
それまでネッサローズは、エルファバが不相応に王子様に恋しているのだと思っていた。けれど、どうやらそうではないらしい。触れられたときに気付いた。
あの王子様には闇がある。
その闇が、エルファバを呼ぶのだろう。
彼の闇はあいまいで実態のないものだ。生まれたときから父親を通して、憎悪という名の暗闇を見せつけられてきたネッサローズには、彼の抱える悲しみなど塵のようにちっぽけに思える。フィエロは自分で気付くしかない。見えないものを追っているのだと。ありもしないものを求めているのだと。
ひそかに彼を愛するエルファバの気持は、ネッサローズには一生理解できない。
「助けて、ボック」
フィエロとは違う。ネッサローズは、本当に闇に閉じ込められている。少なくともネッサローズはそう思っていた。動かない足。
檻に閉じ込められていているネッサローズを助け出せるのは、フィエロではなかった。フィエロがどんなに光輝いて魅力的だろうと、彼ではだめだった。
赤い表紙の本は、開いたままで教室の床に落ちている。
ネッサローズは車椅子の車輪をロックし、目の前の机の角に手を置いて、上半身を傾ける。ちゃんと拾える。他の人が思うより、ネッサローズに出来る事は多い。それを、皆が知らない。
ネッサローズは折れたページを丁寧に直した。温かい水滴が、紙にしみこんでいくのを見守った。
つぎつぎ落ちる涙を握り締めながら、唇だけで呟いた。
「たすけて、ボック」
誰より高く跳びたてる人。ネッサローズを暗闇から連れ出してくれる、たった一人の人。
「ボックが、いてくれたら…」
教科書を抱きしめて、目を閉じる。瞼の裏が熱かった。
ネッサローズはしばらくそこから動けなかった。そこにはいない人の名前を、声に出せずに呼び続けた。
「誰かそこにいるー?」
「きゃああぁっ!」
教科書がもう一度床に落ちる。
光が、ネッサローザの顔を照らしだした。
「どうしたの? 泣いてるの」
「ボック、どうしてここにいるの」
天井には縦に三つ電灯が並んでいた。それが、いっぺんに煌々と輝いている。四角い教室は真っ白く明るい。さっきまで月を透かしていた窓は、黒い鏡のように室内を映していた。
ネッサローズが声に出せずにあんなに何度も呼んだ人は、教室の電灯をつけたまま、気まずそうに立ち尽くしている。
「寮に帰る途中だったんだけど、外にいたらなんだか、女の子の声が聞こえた気がして…」
「そうなの? うるさく聞こえた?」
「いや、聞き間違いかと思ったくらいだったけど……ひょっとして、ネッサローズが僕を呼んだ?」
「ううん!! あ、ちょっと……呼んだ、かも。きょ、うかしょを、落としてしまって……。困っちゃって……」
「ああ、だからこんなに暗くなるまでここにいたんだ。なんだ、そんなこと」
ボックは表情を緩めた。ひょいっと教室に足を踏み入れて、ネッサローズの足元にあった赤い表紙の本を拾ってしまう。
「はい、これ。これで泣かないですむね」
「ありがとう…」
ボックは安心した顔をしている。どうして彼はあんなに緊張していたのだろう。ネッサローズは考えた。私が泣いていたから?
「あの、ありがとう。来てくれて」
「どういたしまして。困ってることがあったら、いつでも僕を呼んでいいんだよ」
「ボック……あのね。私、本当はあなたを呼んでいたの。困っていて、助けてほしかったの」
「うんうん。いつでも助けてあげるから、もう泣かないでいいからね」
ネッサローズは目を見開いた。きぃん、と耳鳴りがする。
「…いつでも? 本当に?」
本当に私の側にいてくれる?
「ああ、約束する」
心臓が強く早く脈打つ。けれどネッサローズはボックの顔を見て、彼の表情に本当に自分への好意があるかどうか確認することはできなかった。ボックはネッサローズの車椅子を、彼女の部屋に向けて押し始めていたから。
「待って、ねえ、ボック。私、もう少し話が…」
「だめだめ。また明日。夕食を食いっぱぐれるよ!」
風のように身軽なボックがあやつると、車椅子でさえ空を飛んでいるようにネッサローズには思える。
扉を開け放ち、建物から出ると外はやっぱり暗くて、星と月だけが輝いていた。
冷たい風がネッサローズの濡れた頬に突き刺さる。ネッサローズは顔を手でこすって、風に広がる髪を押さえた。
ふと、さっきフィエロがしたように自分の髪をなでてみる。
――あんなに男の人と近づいたのは初めて。
だんだん、走るボックの息があがってくる。彼の呼吸はネッサローズの耳にも届くほどだった。けれど、彼は車椅子を揺らさないよう注意を払ってくれているから、ネッサローズはまたお尻が浮き上がるような思いをせずにすんだ。彼は優しい。彼は、本当に助けにきてくれた。
ボックのことが好きでたまらない。
「いつか…」
星を冷やす風が、瞳の中に飛びこんでくる。ネッサローズは涙とともに言葉を小さく零した。いつか。
いつか、ボックが私の髪をなでてくれたらいいのに。乳母ではなく、エルファバがするようにでもなく、ボックが優しく髪をなでてくれたら、それはこんなふうかしら?
ボックは道の先ばかりを見ていて、気付かない。ネッサローズは彼に見つからないように、口の中だけで彼の名前を呼んだ。フィエロの残した体温を消しさるように、何度も自分の髪を撫でた。
『王子様をまってる』