ポリバケツの蓋が、ぱちんと音をたてて開いた。
ふたつぶのオレンジ色が、隙間からキラキラ輝く。
「行ったよう」
「本当?」
子供っぽい高い声と、ざらりと低い声が、ひそかに囁き交わす。
オレンジ色の隣に、金色の丸い光がふたつ、灯った。
秋空に、取っ手のついた円盤を飛ばして、猫は路地へと躍り出た。
ポリバケツの蓋は、落書きに汚れた壁に阻まれることなく、青い空へ舞い上がる。二匹の猫があぶなげなく着地しても、しばらくは地面で回転しながら騒々しい音を立てていた。
猫らの背後に広がったのは、夕日のように温かそうな色を広げたぶ厚い毛布である。綺麗に畳まれていたのだろう。まだ折り目は重なっているが、二匹が好き勝手にひっぱるものだから、端がくずれて互い違いに裏表を見せていた。
キラキラ光るオレンジ色は、ばちりと片方の色を点滅させた。ランペルティーザは、高く澄んだ声で笑う。
「マンカストラップってば、こんな見つけやすい隠れ場所を見逃すんだもん。どうしちゃったのかな?」
金色の目と掠れた声を持つマンゴジェリーは、彼女へ向けて薄い胸をそらした。
「あんまりありがちで、逆に見逃したんだろう? 俺の作戦勝ち〜」
「そっかなぁ」
手触りさえ温かい戦利品を、嬉しそうに撫でまわしながら、二匹は顔を見合わせた。向かい合うとそれぞれの髭が、風にくすぐらていまにも触れ合いそうだった。耳元に、びゅぅっと風音が通り過ぎていく。
一段寒さが増した気がする。雲も少ない、小春日和のはずなのに。壁の上に立った背の高い影が、ランペルティーザの頭上へ射したからだ。
「そんなにうまくいくわけがないだろう」
毛布にかけた爪が、重みを感じる暇もなかった。
威勢の良い音と共に、毛布が巻き起こす風が泥棒猫たちの毛並みをかき乱していった。二匹が苦労して盗み出した毛布の中心へ、銀色と黒の残像を引きながら精悍な雄猫が降り立つ。
彼ら二匹を合わせたくらいはゆうにありそうな、街のリーダー猫を、オレンジと金の四つぶの瞳で見上げる。彼らの頭上へ降り注いだのは、容赦ない怒号であった。
「まったくお前たちは、いいかげん懲りたらどうだ!」
「なによぉ。マンカストラップってば、いっつも同じお説教ばかりしてぇ」
「そうだそうだ! お前に関係ないだろう!!」
「お前ら…盗みなんて不道徳なことをしてるかぎり、俺でなくても誰かがお前たちをたしなめるんだぞ。そんなの当たり前のことだろう」
「ひとのことでしょう。マンカス以外の猫は、本当は気にしてないんだから」
「そうだそうだ! 盗みは猫の本能だー」
「こらマンゴジェリー。ひとの尻馬にのって茶化すのをやめないか」
「あー、俺だけ怒るなんてひいき〜」
「そうよそうよ! あたしだってマンゴと同じことしたんだから、叱るならあたしも一緒に叱りなさいよ」
「一匹ずつでも面倒なのに、お前ら二匹そろうと手に負えないな」
黒白縞猫のマンカストラップは、呆れた顔をしてみせた。その、いかにも「やれやれ」「しょうがないやつらだ」という表情に、二匹の猫たちの目がくるりとひらめき鋭く光る。目の色が、変わった。
「なによ。いつも邪魔ばかりして。
褒めてくれないで、しかってばっかり」
「本当。俺達だって、いつまでもやられてばっかじゃないぞ」
「いつもはみんながいるから、しょうがなくおとなしくしてるけど…」
「今、マンカスは一匹きりなんだよな……。ここは猫っけのない路地で、助けはこない。
これどういうことか、わかる?」
マンゴジェリーとランペルティーザは、マンカストラップのいつも変わらず夏の空みたいに青い瞳をにらみつけてから、相棒を確認するまでもなく頷いた。
「盗んじゃおうか」
「ああ。盗もう」
冷たい疾風が巻き起こり、マンカストラップの目前を夕日色が遮る。
ふんがー?!とかいつも端正なリーダー猫から発せられたとは信じられない悲鳴と共に、二匹は大きな獲物を毛布の中へまるごと一匹包み込んだ。
内側から動く布の塊を、マンゴジェリーが頭のほうを、ランペルティーザは足のほうを抱えて走り出す。
「この秋一番の獲物だ!」
抵抗する獲物は重くて運びづらいが、二匹は踊りあがりながら路地裏を疾走した。三匹が通った後には、マンカストラップのうめき声のみが残された。
「お、おまえらぁ」
「へーんだ。マンカスなんて怖くないもんね〜」
「そうよぉ。家に帰して欲しかったら、あたしたちの言う事なんでも聞いてよね」
「あ、それいい!」
「何して遊ぼうかなぁ」
「うわーうわー。楽しみだなーこっから一番近いねぐらって、どこだっけ?」
わくわくと心臓を躍らせる衝動。
泥棒猫二匹は、体中熱くなるほど楽しかった。切り裂く風も、しめって凍えそうな日陰も、気にならない。毛布は暖かく、その中には生きのよい獲物がもがいている。
こんなに盗んで楽しいものなら、もっと早く盗めばよかった!
「…ちょっと注意しろ」
「え?」
担ぐ獲物がやけにおとなしい。
マンゴジェリーが先に気付いて、油断無く毛布に視線を注ぐ。肩にかつぐ重さが、ぐんと一段増したのはそのときだった。
ランペルティーザが、(なんで)言葉を紡ごうと唇を開く。柔らかいはずの毛布が、固く彼女の頬を叩いた。
ばらりと布がほどける。
毛布の蓑虫が内側から弾けて、力瘤をもりあがらせた逞しいマンカストラップが両手両足をふんばった姿のまま羽化した。力ずくで毛布の拘束から逃れたマンカストラップは、そのままアスファルトに落ちた。彼の石頭はそうとう堅いらしい……音が違う。
泥棒二匹は、虚しくばらけた毛布の端を、ぽかーんと握り締めていた。打った頭をおさえながら、獰猛な肉食獣がのっそり身を起こす。
「俺を甘くみるなよ」
「ぎゃーっ!!!」
「たすけて〜」
「諦めろ。こうなったら逃げられないぞ」
二匹は、襟首を押さえられてばたばたもがいた。
立場が逆転し、リーダー猫を捕えていた悪漢たちは今は地面に身体を押し付けられていた。
「どうしてやろうか…」
マンカストラップの声。笑いさえ含んでいるのが憎らしい。
二匹は、隣で盛大に地面にキスされている相棒を
「たよりないやつ」
「お前こそ!!」
横目で見ながら歯噛みするしかなかった。マンカストラップの力には到底適わない。
両手の塞がったマンカストラップも、どうすべきか思案中だった。さすがに、片手で二匹を押さえられない。どちらか一匹を逃がすか、それとも、このまましばらく懲らしめてやるか。
「逃げないと約束するなら、離してやる。どうする? こんなみっともないところを誰かに見られてもいいのか」
くぅ〜っと悔しそうな声を上げて、泥棒たちはいっそう抵抗した。二匹のむやみな動きをなんなく制圧して、マンカストラップは苦笑する。腕に体重をのせたせいで、マンカストラップの腰は宙に浮いた。
風のような二匹を手中に捕えて、彼は実際良い気分になっていたし、一瞬だけ油断した。
ランペルティーザが、隠し持っていた胡椒を後ろ手に投げつける。
盛大なくしゃみを背後に、二匹は駆け出した。連続するマンカストラップのくしゃみが遠く小さくなり、聞こえなくなるまで、二匹が脚を緩めることはなかった。
くしゃみの発作が止まるころには、マンカストラップの目には涙が溢れ、息はぜいぜい上がるし、鼻水まで垂れていた。白胡椒の粉が舞い上がる路地にいたのでは、いつまでたっても楽にならない。ろくに目の開かないまま、マンカストラップもそこから逃げ出した。
瞼の裏側がごろごろするのを感じながら、マンカストラップはニンゲンと暮らすねぐらに引き上げ、水を飲んで一息ついた。水桶に顔からつっこむと、毛並みは水気を吸ってしめったが、やっと頭もすっきりした。いまいましい泥棒猫たち。しかし天高くある月を崇め、自由に振舞う猫たちにとって、頭を押さえつけられ、無理矢理地に這わされることがどれほど屈辱か。
マンカストラップは、頭を振るって水滴を払った。
「あいつらも、少しは懲りるといい」
ふたりがかりでもマンカストラップには適わないと思い知って、あの風来坊たちは今頃どこのねぐらでどう過ごしているのか。
取り逃がしはしたが、マンカストラップは自分が負けたとは欠片も思わなかった。二匹から取り上げた夕日色をした毛布を、とりあえず自分の寝床にして、疲れた身体を休めようと横たわる。毛布はさすが二匹が目をつけただけあり、快適だった。明日持ち主へ返してこよう。
安らかに目を閉じて、違和感にふと目を開かされる。おかしい。いつもと感触が違う。
かちかちと秒針を刻む時計。
艶のある家具、古い絨毯。高い天井と、四方を囲む壁紙の色。ねぐらの中は運び込んだ毛布以外、光も、匂いも、異変ない。けれどどこかが違う。
マンカストラップはごくりと喉を上下し、そして慌てて指でそこに触れてみた。湿った首筋に直接指が触れる。そこが、いやに自由で涼しい。
「あいつら…!」
泥棒猫たちの甲高い哄笑が、遠くのどこかで響いた気がした。
その力強い爪を、奪い取ってやりたい。
『あいつが歳をとって』
きっと、マンゴジェリーがおとなの男になって、もっとも身体が充実して、もっとも力強い季節にさしかかっても、今の彼ほど強くはなれないだろう。
骨のつくりが違う。意思の強さが違う。
姿を隠さず、気配を消さず、一段高い場所に立ってすべてを睥睨するマンカストラップは、群のボスだった。誰も彼に適わない。
『あいつが歳をとって、役立たずのじいさんになったら』
そのとき、初めてマンゴジェリーは彼より毛並み一筋ぶんだけ、優位に立てる。
『そうしたら、俺がぜったいにあいつの面倒をみてやる』
彼を盗み出すことが、きっと出来るはず。
―――その力強い爪を、奪い取ってやりたい。
すっかり成猫したマンゴジェリーは、本日の獲物に唇を寄せてちゅっと音を立てた。同じ唇で相棒へ尋ねる。
「寒くないか」
とある民家の、軒先。
ふたりがこっそりこしらえたねぐらがある。天井も壁もない。風を遮るものはない。けれど、生垣がふたりの姿を隠してくれる。土を掘れば、冬でもほんのり暖かい。
ランペルティーザは、ふたりの狭いねぐらの中でも、一番温かい場所を探し、横たわる相棒の腹のそばでくるりと身体を丸めた。
「ちっとも」
星はさえざえと明るい。
黒く見える濃緑の葉が二匹の頭上に重なり、それでもなお遮れないほどの光が、マンゴジェリーの赤い毛並みと、ランペルティーザのオレンジの瞳の中へ降り注ぐ。土は柔らかい。
二匹のもくろみは外れたが、ただの毛布よりもっと貴重なものを盗み出した。
ランペルティーザがねだるので、マンゴジェリーは本日の獲物を彼女の頬へくっつけてやった。ランペルティーザも、うれしそうにそこへほお擦りした。
「マンカストラップの匂いがする…」
「そうだな」
黒い革の首輪は、マンゴジェリーの大きな手とランペルティーザのマシュマロより柔らかな頬に隠されて、銀の留め金だけが星の光を鈍く弾いていた。
深夜の空気は風がなくても冷たい。けれど二匹は、互いの体温に満足だった。大好きな縞猫の残り香をもろともに抱きしめながら、二匹はマンカストラップとは正反対に良夢にまどろむ。
「いつか本体も盗んでこよう」
そんな夢をみた。
『愛されマンカストラップ』