空は明るいが、空気はしんと冷えている。
陰すらかからない広いアスファルトの路面で、大きな猫が二匹争っていた。
「もう我慢ならない。君のその陰気な顔をみるのは今日が最後だ」
ボロきれそっくりの毛並みをもった雄猫は、若い澄んだ声でそう叫んだ。
彼は、同じくらいの大きさの猫に食いつく。やられたほうも、やはり若い猫のようで、額にVの字が白く浮き出すほかは黒っぽい体が、つやつや朝日を弾いていた。よく見れば、黒と思えた彼の毛並みは、濃い褐色であるのがわかる。
白いサークレットを誇らかに朝日に光らせるタンブルブルータスは、首筋に噛み付いてくるぼろ切れの下腹を、思い切り蹴り上げる。なんなく投げ飛ばされた。
腹を蹴られた猫は、立ち上がるのが辛いのか、うずくまったまま相手の顔をにらみつけた。ボロ布のなかから、金色の目がぎょろりと動く。茶色と黒が細かく交じり合う、カーバケッティの毛並みは、本当にみずぼらしいボロ布そっくりだった。
「この、陰険野郎…っ」
紳士に似つかわしくない罵倒を吐いてから、カーバはもう一度飛び上がる。タンブルの頭上に、身をたわめたカーバケッティが襲い掛かった。
「いくじなしが、どうした、かかってこいよ。
それとも、自分から手をだせるのは相手がか弱い女だったときだけなのか」
するりと交わされて、カーバケッティの爪はむなしく地面を掻いた。
どれだけカーバが罵ろうと、無口なタンブルは鋭く息を吐き出すだけで、決して罵り返そうとはしなかった。カーバの言葉だけが、いつもの上品さをかなぐり捨てて、下卑た響きを増していく。
「今にも死にそうなおいぼれにしか、喧嘩を売れないのか、てめえは…っ」
今度は、カーバの爪がタンブルを捉えた。二匹は幾度も組み合い、離れた。
踏んでいた平らなアスファルトが、互いの鼓動以外の振動を伝える。足元が揺れる。
風よりももっと乱暴な音が、生き物にはありえない規則正しさで近づいてくる。タンブルブルータスはぎりぎりまでカーバの頭を踏みつけていたが、メタリックブルーの車体が猫たちに気付いてハンドルを切る直前に、喧嘩相手を連れて白線の向こうへ逃れようとした。一瞬遅く、カーバはタンブルを残して自分だけ脇の植え込みの影に飛び込んでいた。
毛並みを逆立たタンブルが、カーバの隣に転がり倒れると、二匹のいる植え込みの緑をこするばかりにして車は通り過ぎていった。白線を中心にした広いアスファルトに、くまなく陽があたる。
日陰に逃げ込んだ二匹の猫は、深いため息で目前の葉っぱを揺らした。
しばらくしてから、ぽつりとタンブルブルータスが呟いた。「気がすんだか」
「は? お前それ、もう一度俺の目を見ながら言ってみろ!」
派手に傷だらけのカーバケッティは、特にひどい前脚の傷を指差しながら迫った。が、タンブルはつーんとそっぽを向いたままだった。
そのタンブルも、無傷ではない。褐色のなかに紛れている規則正しい縞模様を、深い傷が縦に引き裂いて血をにじませている。
カーバは自分の鋭い爪に、血とわずかな皮脂が纏わりついているのを見下ろして、顔色を変える。
「気なんか、済むか」
互いの傷は、一週間は消えないだろう。今日の夜も、踊るたびに引き連れて痛むだろう。
カーバは、自分の腕を庇いながら仰向けに寝転んだ。葉の重なり合う隙間に、青い空と雲だけが見える。
「おま…君をいくら痛めつけたって、気なんかすむわけないだろう」
「そうか」
「痛めつけたい相手は他にいる。君だってそうだろう」
都合の悪い問いかけに、タンブルはまた、重い口をつぐんだ。
「いつもいつも…。なんだよ。たかが、一回だけ、あいつがジェリクルに選ばれたからって、それですっかり態度を変えたりできないだろう」
「そうか…」
「もし、あいつがまた現れたら、君はどうする。ぼく、は」
「謝るのか?」
「そんなことができるか!」
「安心しろ。グリザベラは、もう天上へ昇ってしまった。もう二度と、お前の前に姿を見せることはない」
「そうだ。そんなことは分かってる。ちくしょう!」
もし来年の満月の夜、唯一匹のジェリクルに選ばれれば、またグリザベラと会うだろう。しかし、それは今の二匹にとってありえないことに思えた。
いつもの気取りを捨てて荒れ狂うカーバケッティに、憐れみの視線を投げかけるタンブルブルータスにせよ、後暗いところがあるのは彼と同じだ。
陽はみるみる高くなり、夜とは違う昼の音が空気に篭もり始める。けれど、二匹の猫が逃げ込んだ葉陰は、まだひんやりと冷たかった。
隠れ家を作ってくれる枝を、手を伸ばしてカーバケッティは折り取る。乾いた音が、二匹を打った。
「謝らないというのなら、お前はどうする。もう一度、彼女をひっかくか」
タンブルの低い声。カーバケッティは手の内の葉をくしゃくしゃに握りつぶしながら、鼻で笑ってみせた。
「そんなことが出来ていれば、ここで君とぶざまに取っ組み合いなんてしていないね」
もう月の仕舞われてしまった空の、まばゆく瞳を貫く太陽に向かって、カーバは汚れた手を伸ばす。光を握りつぶすよう掌を握りこんだ。逆に、タンブルに聞いてやる。
「どんなふうだった?
さんざん蔑んできた女に、『それでもあなたのことが好きだ』と言われた気分は」
タンブルブルータスは、表情を凍りつかせ、また、口を閉ざした。
お前は醜い。
お前は愚かだ。
お前を決して受け入れない。お前の罪を許さない。
自分たちは、何度もそう彼女に突きつけてきた。
そう言ってやったのに、グリザベラは歌った。
――愛してる。
私に触って。私を抱いて。
たとえ永遠にかなわなくても、それでもいい。愛していることをわかって。
歌う彼女の影に撫でられて、本当に触れられたわけでもないのに、タンブルブルータスは痛そうな悔しそうな顔をした。こんなにお前を拒絶したのに、それでも、お前は俺を愛していると言うのか? 猫たちの無言の問いかけに、彼女は応えた。歌い続けた。
――愛し続ける。愛していられる。それほど、この世界は美しかった。美しかったことを思いだした。私は、あなたたちをずっと愛していた!
彼女は叫んだ。
愛している――。
伸ばされる手を振り払い、傷つけ、軽蔑し、罵声をあびせかけてきた相手に、それでもなお愛される気分はどうだった? 「あなたが必要だ」と、言われた気分は。
それはまるで、醜く卑小な自分を、まるごと肯定されたかのような…
「もし、僕が心底からの卑怯者だったら、そんな彼女をいっそう貶めることができただろう。はやし立てて、傷つけて、それで、自分を守ることができたに違いない。」
お前なんてちっとも必要ないと、あの時、真摯に涙を流す彼女を、拒絶していたら。
「そうだな…」
「もしそうだったら、もっと楽だっただろうと思うよ。こんなに、恥ずかしくて消えたい思いになる事はなかっただろう」
「ああ」
けれどふたりは、それでもグリザベラの手に触れた。彼女を受け入れ、彼女の愛に応えた。
そして、彼女を天上へ押し上げた。
愛したときが、別れのときだった。
「俺は、お前が心からの卑怯者でなくてよかったと思う。…俺も」
「ちくしょう……お前はいいよ。お前が陰険なのは誰だって知ってる。見りゃわかるもの。でも僕は、明日からレディたちにどんな紳士ぶった顔をしてみせればいいんだ…」
「案外、彼女たちも同じ思いでいるかもしれないだろう」
にぎった拳の裏側から、日食の要領で陽射しが零れてカーバを射る。どこに逃げても、逃れることのできない強さで。
「もう、黙ってくれないか」
たまらず腕で目を覆う。轟音が、責め立てるようにふたりのいる葉陰をゆらす。また葉っぱをこすって、車が遠くへ通り過ぎていった。
『車に乗ってよその町へいこう』