酒気まじりの息をドラゴンのように吹きながら、男は聞いた。
「お前は誰だ」

ひるまずに少女は答える。
「貴方のファンです」




「そんで、そんでどうなったの?!」
目をきらきらさせて、続きをせがむ。
彼の話に、自分以外がこんなに熱中するなんて、いったいどれくらいぶりなんだろう。

彼も嬉しそうだ。いつもよりずっと話に熱が入るのが早かった。いつもは、乞われて仕方なく語るのだ、というポーズをつけなければ話し出せない、彼は。

「一族そろって、宮殿の中から出てきた事もないような猫だ。
彼女は言ったよ。
『私は、一族始まって以来、初めて、王宮以外の床を踏んだ猫です』って」

お姫様だぁーと、気の強そうな大きな釣り目を細めて、ランペルティーザはため息をついた。
この子は本当に、女の子らしいところがある。おとなしいシラバブより、ひょっとしたらずっと憧れの強い夢見がちの猫なのかもしれない。

可愛らしく思って、ジェリーロラムはそっと彼女の背中を撫でた。
それに気付かないくらい、話に夢中になっている。
酒場に程近い、猫の部屋に、変わらずガスの太い豊かな、美しい声が鳴り響く。

「俺は言ったね。
『あんたが上に立って、踏みしめて、好き勝手移動してきたのは、床じゃねぇ。
そりゃあ、大地っていうんだ
そんなことも知らねえのか』」
「お姫様に! ガス、おつきの猫にぼっこぼこにされちゃうよ!!」
「そんな面倒なやつは引き連れてなかったな。
秘密で、たった一匹きりで抜け出してきたんだ。ぶるぶる震えてる様子ときたら、俺のファンのそこらの小娘と変わらんかったなぁ。
でも、今でも思いだす。しっぽと手足だけが綺麗な色をしてて…信じられないくらい、がりがりに痩せた雌だった。その目の色ときたら…
何ていうんだろうな。
カッパーオレンジ、ってのかな。他の色がすべて消えうせるくらい、彼女の目だけが鮮やかで、あの目だけは今も忘れられない」

ランペルティーザの目は動かなくなった。
会ったこともないお姫様の姿を思い描いて、現実を全然見ていない顔だった。

「『あんたのことなんて興味ない。俺は忙しいんだ。
楽屋から出てってくれ』」
「それで、お姫様どうしたの」
「俺は衣装を脱ぎ出した。
もういなくなっただろうと思って、彼女のほうは見もしなかった。でも、まだ居たんだ。鏡に向かう俺の後ろに立って、俺の手を取ってこいつを握らせた」

ガスは、ゴミ捨て場の中に住んでいる。
もっとも多くの猫が同じような住まいをもっている。
ごみでつくった壁の中から、迷わずちいさな石をとりだした。

白く濁った、半透明の石。
すべらかに丸くて、ガスの手の中に揺れた。

『黙って出て来てしまいました。こんなに心を動かされたのに、貴方に差し上げられるものを何も持っておりません。
王宮には、わたくしが下賜できるような絹や、扇など、いくらでもございますが、今はこれだけがわたくしの身分を証明するよすがとなるでしょう。
貴方に』

「俺は聞いた。舞台のお代はどうしたって。
彼女は言った。
『失礼させていただきました』」

「うそっ!」
 ランペルティーザは、断然お姫様に親近感を抱いたらしい。彼女も、高い壁の中だろうと軍の要塞だろうと、どこへでも紛れ込んでしまう猫だったから。

「よく知らないが、これは彼女が彼女のお母さんから受け取って、ずっと大事にしていたもんらしい。王宮のなかからずっと出てこなかった猫と一緒に、はじめてそれ以外の空を見上げるこの宝石を、今日の記念に一緒に旅へ連れて行ってほしい。
『せめて』自分は『一緒にいけないから』、ってな。
その後は、追われるみたいに帰って行ったよ」

「その子、ガスのことが好きだったんだ!」
「さあな。
でも、どんな演劇の賞をもらおうが、こいつほどの勲章はなかった。
俺が一番誇らしく思うものだよ」

ガスは最後に言った。

「嵐の日だった。
他のお客は恐れをなしてみんな帰ってしまったから、役者たちは不機嫌だった。客席に、ほんの数匹残っている猫のために公演を続けたが、いっそ全員帰ってくれればいいのに、って思ってたんだぜ。
稲妻に、グロールタイガーの決め場を邪魔されて、俺にとっても満足いく舞台じゃなかった。
でも、そんな最悪の中でも彼女は感動したらしい。
ひょっとして、役者が思うほど、周りの状況なんてのは関係ねぇのかもな。夢中になっちまえば、腹にひびくようなカミナリも聞こえなくなっちまう。
役者の声だけが世界のすべてになる。
本来役者ってのは、そういう生き物だよ」

ジェリーロラムの耳のなかにも高らかな嵐の轟音が吹き荒れるような、鮮やかな武勇談だった。

異国の姫君との、一瞬の恋。

そんな話は初耳だった。




子猫が帰ってしまうと、ジェリーロラムは初めて口を挟んだ。
「ねえ、ガス。さっきのあの話…」

早くも、ガスは酒瓶に手を伸ばしている。

「ん? ああ」
「あんな話、初めて聞いたわ。
とっても素敵なお話しね。どうしていままで黙ってたの?」

それを初めて聞かされたのが自分でないことに、ちょっとした嫉妬を燃やしながら、ジェリーロラムはおだやかに尋ねた。大好きな猫の、思い出を邪魔するようなことだけはしたくない。

「ああ、なんだかあの話だけは、誰にも言ったことはなかったな」

ガスは、懐かしむ遠い目をした。いつも彼がする表情だった。

「あの話をしようとすると、なんだか胸が閉まって、…もったいなくてな。誰にも言う気になれなかった。
でも、嫌なことがあったときは思い出すんだ。俺は、あんなすごい体験をした猫なんだぞ、ってな」
「そうなの…」

そんなに大切な思い出を。

自分だけの胸に秘めた勲章を、誰にも汚されずに大切に仕舞っていた思い出を、守っておけなくなるほど、彼は寂しい猫になってしまったのだろうか。
私が傍にいるのに。

『初めてのお話しは自分だけで聞きたかった』
そんなふうに思った自分を、ジェリーロラムは恥じて悔いた。ガスの大切な思い出なら、ガスだけのものにしておいてほしい。

「でも、あの子の顔を見てたらなんだか言ってもいいような気がしてな。
べつに、いいじゃないかと思ったんだ。
あんなに楽しそうに聞いてくれたし。女の子はやっぱりお姫様が好きなんだな。お前もか、ジェリー。
お前は舞台の上なら、お姫様にだってなれるぞ。今度は、おまえを姫君にしてやろうか」
「新しい舞台の構想? 素敵ね」
「ああ。グロールタイガー以上の当りがくるかもな。恋愛劇は、俺には向かんが、お前はそういうのも体験してみるといい。芸の幅が広がる」

ガスの声が、まだ酒によって乱されないうちに、ジェリーロラムは彼の新しい舞台の話を聞きだした。実現される日は、果たしてくるのだろうか。いや、たぶん。




舞台のはけた後にのこる熱狂。
拍手の余韻も冷めやらぬうち、ジェリーロラムは客席から抜け出した。どうしても今夜の「グロールタイガー」に会いたい!

まだ子供だった彼女は、小さな身体を見咎められることもなく、カーテンコールから戻ってくる役者を待ち構えた。
片目に眼帯を巻きつけた、荒々しいグロールタイガーを出迎えて言う。

「誰だ、お前は」
「貴方のファンです」




酒に負けたガスは、床に蹲った。
寝床に連れて行きたくて、ジェリーロラムは懇願した。立って。立ってください。

このままでは風邪を引いてしまう。

「誰だ、お前は」

血走った目が、初めて見るようにジェリーロラムを見上げ、酒臭い息が彼女を傷つけた。
泥酔したガスは、全盛期の彼にもどってしまっている。グロールタイガーを独り占めして、多くの喝采を一身に浴びた、若かりし日の傲慢なアスパラガスがそこにいる。
老いてから彼を愛した彼女は、今は彼の記憶にいない。まだ会っていない猫なのだから。

彼女は答えた。

「貴方のファンです」

彼は納得して、その尊い身の世話を、彼のファンに許した。
触れられただけで雌猫が痺れる彼の視線が、満足そうにジェリーロラムを撫でる。




ジェリーロラムは、ガスがもっとも懐かしがっている時期の彼を知らない。
まだ子供だったとはいえ、ジェリーロラムが観劇できたのはそう昔の話ではない。舞台に立っていたのは、盛りをすぎて、なお残光を残す役者の姿だったのか。

正直いってジェリーロラムにはわからない。

あのとき、すでに「グロールタイガー」はガスだけのものではなかった。若い役者が、これに取り組み、成功を治めていた。
だから、ジェリーロラムはどっちの「グロールタイガー」を観たのか、本当に確かめる術はない。
あの日、彼女に「お前は誰か」と聞いた声は、毎晩繰り返されるこの声と同じ声だったろうか。

けれど、どうでもいい。

ジェリーロラムはガスの思い出が好きだ。
今、思い通りにならない状況に、役者の魂を焦がす彼が好きだ。
彼の不幸、彼の思いのままに動かない、自由にならない身体ごと彼を愛している。たぶん彼のグロールタイガーを観たことはない。でも、異国の姫君が羨ましいとは思わない。

昔の栄光に跪きながら、今を生き抜こうとする彼の姿がどれほど崇高か。
その見事な年月。不幸な今のガスが、ジェリーロラムのすべてだった。




「お前は誰だ」
 
問われれば何度でも答えるだろう。

「貴方のファンです」

いつか、その美事な不幸が、拭われる日を願って祈る。
最大級の幸福が、彼に約束される日がくることをジェリーロラムだけは信じた。
月は、彼女にとってそのためだけにあった。

嵐の気配もない空を、輝く幸福の象徴が照らしている。月に隠れて暗闇のなかでなら、ガスは昔の彼と変わらなかった。



『嵐の日に光る月』
2006.10.29