誰か。 誰でもいい。 助けて。 振り払われて、グリザベラは砂利に膝をついた。 誇り高い猫が、這い蹲る。 老いて痺れた身体を励まし、すぐに立ち上がると、もう若い猫はそこにいなかった。 彼女の虚勢を見守る猫は、だれもいなかった。 |
「シラバブはいい子だね」 そういわれると、おさえようとおもってもほっぺたが痛くなっちゃう。 マンカストラップは、にこにことシラバブをみつめていて、シラバブは、はしったよ。だって恥ずかしいもん。 マンカスが追いかけてきたらどうしようかとおもったけど、そんないじわるのするのはコリコだけだね。でも、コリコもほんとうはやさしいの。 いっつもシラバブとあそんでくれます。 「優しいね」 ぬいぐるみさんに紙のおふとんをかけたら、ジェリィにもそういわれた。さむいとかわいそうだからそうしたけど、ジェリィは綺麗です。 これからぬいぐるみんさんをみつけたら、ぜんぶあったかくしてあげる。 ジェリィに褒められて、それくらい嬉しかったぁ。 |
なぜ私を嫌うの? 私は売春婦だった。それが何? 私を買った連中は責められないのに、なぜ私だけ? 「勘違いするふりをするのはやめて。 あなたが憎まれるのは、娼婦だからじゃない」 ジェリーロラムは…現在の美女は、過去の美女に必要最低限だけを伝えた。 彼女の足元で、シラバブがこわごわと冷たい相貌を仰ぎ見ている。 |
「二度とあの女性に近寄ってはダメ」 ジェリィにあんなに怖い顔でおこられたのは、シラバブははじめて。 なみだがとまらない。 「ごめんなさいね。 でも、私に約束して?けっして近づかないで」 ジェリィの毛並みはシラバブと同じいろ。 おねえさんみたいなねこだけど、でも、ままみたい。たまにしかあえないの。ジェリィの一番はガスだから。ジェリィは「じょゆう」だから。 でも、あえるとやさしいの。いちばん綺麗。声もいちばんすき。 ジェリィが大すき。 あんなに怖いかおして、ほしくない。 「ごめんなさいね、シラバブ。 私のこと、嫌いになっちゃった?」 ジェリィは悲しそうなかおをして、それでもとってもやさしそうだった。 どうしてなの? 悲しそうなさびしそうなジェリィに抱きついて、だいすきなことをわかってもらって、でも、どうしてなの? シラバブにやさしいのに、どうして冷たくするの? みんなにやさしいのがすきだよ。 「シラバブには触らせない。 あの猫、グリザベラに殺された猫は、片手じゃ足りない… あの子だけは、ぜったいに私たちが守るわ」 泣きながら抱きついてきたジェリーロラムに、マンカストラップは深く頷いて、やっと彼女を安心させた。 |
もし売春婦が穢れた存在だというのなら、売春婦を汚す男たちは何なの。穢れそのものじゃない。 確かに私は泥をはねつけられた。 でも、泥そのものを責めないでなぜ私の汚れたコートばかりを蔑むの。 私は悪くないわ。 私が悪いというのなら、悪くない猫というのはどんなものなの。 哀れな雌猫を汚しておいて、幸せな群を守る男たちが清廉潔白で、見習うべき見本だというのか。そんな雄を私にとられたと、優越感を隠しながら私を責めたあの女たちがそうか。そんなわけない。 だから私に触れて。 私をたすけて。 食事をいっしょにして。 話を聞いて欲しい。 だれでもいい。 馬鹿にされてもいい。 嫌われてもいい。 傍に、誰か!!!! |
あのねこを今日みたの。 すぐに分かる。 だってとても、他のねことちがうから。 みんながかくしてる。 あのねこもかくしてる。 シラバブにはわかるよ。 さびしくないねこはいないんだよ。 みんな昼間はわすれてる。 あのねこはずっと忘れないで、それで、それで。 よくわからない。 うまくいえないけど。 でもシラバブにはわかる。 あのねこは悪くないよ。 |
誰か。 誰でもいい。 私と話を。 食事を。 一緒に眠って。 私を抱いて。 ひとりでもいい。 みつけたら決して放さない。 一時も傍を離れず、そのねこの歩く地面にすらキスするだろう。 二度と離れない。 ぶらさがって依存して取り殺す。 他のねこといっしょにいるのを、目をそらさずじっと睨んでおくだろう。 悲鳴をあげても許さない。 これだけ飢えた魂にかりそめの糧をあたえて、自分が食い尽くされる覚悟もないなんてそんなことは許されない。 私の話を聞いて。 これまで生きてきたすべてを同じだけの時間をかけて語ってあげる。私の不幸を余すところなく知ってもらう。私より知ってもらう。 もう眠らせない。 私は眠れないのだから。 食い尽くす。私に触れた猫の、それが運命。なれの果て。 |
あのねこは悪くないよ。 |
私に触れたのは、いちばん小さな雌猫だった。 誰からも一番愛されている子猫だった。 やわらかい手。 柔らかい未熟な小さな身体。 まだ、憎しみに染められていないまっしろな心。 今のうちになくなってしまえ。 痛みを知る前に、憎しみを覚える前に、苦しまずに。 彼女こそ天上へ昇るのにふさわしい。 『では、私は不幸だった?』 もちろん、蔑まれてたった一匹で不幸だった。 でも、本当に? 生まれなかったほうがよかった? 憎まれた。愛した。裏切られてそれ以上に憎んだ。汚い復讐に手を染めた。 私に同情する猫に取り付き、精気を吸い尽くした。 重さに耐え切れず、倒れていった猫たち……私を愛した猫。 身体を売るより、そのほうがよっぽど私のなかの穢れだった。 私は泥だらけだった。誰のせいでもなく、自分から吐き出した泥で泥まみれだった。 でも、心から魂の芯まで、心をゆすぶられて生きてきた。 それが愛という幸せな感情でも、孤独という不幸な虚無でも、私は本当に傷つけられ、生きた。 生きてきたという実感が、私を誇らしく包み込む。 私は不幸だった。でも、生き抜いてきた。幸せな過去を、輝く昨日をほんの数日、持っている。何百、何千、何万と繰り返された昨日のうち、ほんの数日。でも、その輝きを、すべての夜に思い返すことができる。 真っ暗な孤独な闇のなかで毎日、まぶしさを思い出しながら眠ることができる。 私は幸せな猫だった。 私は、この子猫を食い尽くす。 そんなことができる? 彼女のこれから味わう不幸も、幸福も、私が食べることなんてできない。 指一本触れられない。 私は天上へ昇る資格などない。 なのに、どうしていまさらみんな私に触るの。 毎日思い返しては幸せに思う、輝く一日。 今日がまた、その日になるというの。 |
ジェリィは、とっても優しいかおをしている。 シラバブはかのじょより綺麗な女のひとを見たことなかった。 いまでも、かのじょが一番すき。 でも、でもね。 だから、ジェリィがだれかを嫌いなのがいやだった。 でも、もうジェリィは嫌いなだれかはいないね。 あの猫、グリザベラのこと、ジェリィもすきになったから。 よかった。 ほんとうによかった…… グリザベラは、ずっとこっちを見てたよ。 はじめてのことだからシラバブはわからないけど、どの猫も、みんなあんなふうにここに残りたそうに天上へ行くのかな。 だったら、シラバブはまだここにいたいな。 あのねこは雲のなかに消えるとき、シラバブたちに手をふったよ。 |