ご注意ください:
暴力、流血表現、殺害などが内容に含まれます




子猫が追い立てられていた。
当然だった。
餓鬼とはいえ、雄のテリトリーに侵入したのだから、それなりの覚悟があってしかるべきだろう。暗闇に潜む大きな影は、じっと事の成り行きを見守っていた。

「やめてください」

仔猫の口から飛び出した言葉に、思わず、噴出してしまう。
やめてください。

まったく滑稽だった。やめてください。そう言われてしまえば、仕方がない。ランパスキャットならすぐ諦めて、彼を逃がしてしまうだろう。雄の沽券にかかわるとも思わない。こんな馬鹿な餓鬼を相手にすることこそ、道化の仕業だった。

白い身体に黒い斑紋を浮き出したランパスキャットを見つけると、子供を追っていた猫は、急に身構えた。それまでは、傷つけたネズミをいたぶるように、仔猫の行く先ざきを遮り、牙を差し込む時期を見計らっていたくせに、彼はランパスだけを待ち受けて身体を膨らませる。

ランパスキャットはほっそりと長い手足を雑に動かし、ゆっくり歩み出た。落ちていたボルトに躓いて、肩を揺らす。

「おっと。あっぶね。
……なあ、まだ餓鬼じゃねえか。逃がしてやれよ」

顔中を笑顔に歪ませる。大きな牙が零れて愛嬌ある顔に白く光った。

「…ランパス。何の用だ」
「べ、…っつにぃ?」

直線に伸びた大通りから、毛細血管のこまかさで分岐する裏路地の一角に、彼らは立っていた。壁際に寄せられ、うずたかく積まれたゴミとも道具ともつかない塊。それらの影にくぎられた、落書きの不規則でくすんだ形、色は、見るものの心をささくれさせる。この一帯の道を取り仕切るのは、壮年の雄猫だった。

若いランパスキャットは、にやにや口角を吊り上げる。長身を生かして道の主を睥睨した。

「遊びに来ただけぇ。何か悪かったか?」

子供でさえ追い立てられるものを、若くしなやかな雄猫が、素通りできるわけがない。その道に根ざして長い年月をすごした主は、しかたなくランパスキャットに襲い掛かった。しかたがなかった。

それを望んで立っている、長身で若いランパスキャットには、「喧嘩」の二つ名があった。

「喧嘩」は、難なく主を叩きのめした。
仔猫がまばたきするまのことだった。若さと、もともとの体格の差は、結果をみるまでもなく歴然だった。

「さあて、と」

強く傲慢でしなやかなランパスキャットは、仔猫に大きく温かい手をのせた。小さな子供の頭を掴む指は、節だっているが白く長い。

「いまから俺がここの主だ」

仔猫は、目をみはって彼を見上げた。息を乱すでもなく、返り血に白い毛色をうっすら汚すランパスキャットは、心底楽しそうに目を細めていた。

「というわけで、なぁ、坊主」

するどい声が短く命じる。

「逃げろ」

仔猫はがたがた震えながら後じさりした。ランパスキャットの手の下から逃れた。

「追いかけてやるから逃げろ。他の雄に見つかったら、どうなるかは聞いているんだろう? さあ、逃げろ。……狩ってやる」




ランパスが爪先で地面をたたくと、音を聞きつけた仔猫はいっそう早く走った。ランパスに追われているつもりで、心臓が破けるまで走り続けるだろう。

「まさか本気にしたのか。へえ」

ランパスキャットは呆れてため息をついた。

「馬鹿なやつ」

もちろん、最初から、あんな洟垂れ小僧を相手にするつもりは彼にはない。
 クリーム色の仔猫が駆け抜けていった方向から背を向けて、行き止まりを見渡す。ランパスキャットはさて、どうするかなと思案をめぐらせた。
大通りの騒音が響いて、深夜も落ち着かない。一番耳障りなのは、ゴムの焼ける匂いさえたてながらタイヤを軋ませる、信号待ちの発車音だった。ランパスキャットはぶっきらぼうに背中を掻いた。粗野で乱雑な態度は彼の身に染み付いていた。

「こんな場所に長居するもんじゃねえし。やっぱ戻るか」

 せっかく先ほど、雄猫から奪い取ったばかりの場所だが、もっと居心地のいいテリトリーをランパスキャットはいくつも持っている。未練なく、彼はそこを後にした。

彼が生まれたのはもっと違う土地だった。
雨の多さも、大気の薄さも似通っているが、もっと息苦しい親密さが街中の猫をつなげていた。それに耐え切れず、ランパスキャットは生まれ故郷を逃げ出した。もう、帰り道さえおぼろだった。




行き止まりを作っていたのは、むき出しの階段を貼り付けた黒い壁だった。段差から眼の眩む地上が見渡せる、鉄の板を渡しただけの階段を、ランパスキャットは意味も無く登った。上空から吹き付けるビル風に、身体が浮くたび、彼は爪を立てて高揚して笑った。

階段は、てっぺんまで続かず途中で切れた。錆びたドアノブを見上げながら、ランパスキャットは瞳を凍りつかせる。外気に晒される小さな踊り場にランパスキャットは足を進めた。
真横には、明かりの消えた窓が壁を切り取っている。わずかに、窓枠がへこんでいた。さらにその隣に、雨伝いの細い柱が屋上へと伸びていた。

迷わず、踊り場から飛び出した。足下には、ごみためのような暗い道が、行き詰って閉じていた。

ガラスの窓を蹴り、猫の両手が回るほど細い柱にすがりつく。爪を立てて、一気に駆け上った。下を見てはいけない。

彼は久々に本気になって、火をふくほど手足を動かした。がらんとした屋上に着地したときには、彼はぜえぜえ息をとぎらせていた。爪はぼろぼろに欠けている。錆止めのペンキが、割れた爪の凹凸に付着し、色をつけていた。
それでもランパスキャットは、建物の縁に立ち、風に吹かれて満足だった。

「あぁ…」

細い肢体に纏いつく、短い毛足をなぎ払って上空の風が吹き降ろす。しけた田舎町だ。けれど、都会へ続くハイウェイには、テールランプが赤く流れて、そこだけ輝き、浮き上がっていた。
闇の中に光るふた筋の光に、鋭すぎる目を眩ませる。ランパスキャットはすべてを視野に納めた。彼が得たばかりの路地は、見渡す下界の、ほんの一部でしかない。

ランパスキャットに追い立てられた、老いた猫は、ここからどこへ消えるのだろう。若い雄に破れたからには、見渡す世界よりもさらに、遠くへ去らなくてはならない。しかたのないことだ。

おそらく、二度と自分のテリトリーを持つ事はないだろう。

ランパスキャットは世界を睨み付けた。黒い夜空には、月だけがある。おそらく、厚い雲が覆って他の星を隠している。月光は冴え冴えと冷たかった。
流れる車の照射だけが、ランパスキャットをぼんやり暖める。
壁伝いに見下ろすと、ランパスキャットの指より細く見える道が、光るハイウェイまで続いていた。猫の目にだけは、それがわかった。

黒い中空に身体を躍らせる。

指の太さだった道が、目の前に膨らんでランパスキャットを飲み込もうと迫る。落ちる速度は、一瞬ごと速くなるように思われた。

痛いほど冷たい空気が切りつける。

スピードを殺したくて、ランパスキャトはくるりと回転した。自らの回転により、すこしだけ冷静さを取り戻す。まだ状況はコントロールできる。

焦らずに、足先から地面を掴み、関節を柔らかく開放して、地面に降り立った。

「マジかよ」

衝撃を最大限殺すため、ランパスキャットは四足で降り立った。はいつくばったままで、今まで立っていたビルを見上げる。窓が、縦に7つは連なっている。下から見上げると、雨雲を突き破るほど高く見える。
自分のしたことに驚き、もう二度と衝動には屈しないと、ずきずき痛む膝をさすりながらランパスキャットは誓った。





ランパスキャットが降臨すると、どんな場合だろうと雄同士の談笑は途切れた。ランパスキャットはいつもどおりに乱暴に、それでいて音のない歩き方で彼らの中心に座った。

 ランパスを遠巻きにする猫たちの間から、知らない名前を聞かされ、そいつがどうしたかを聞かれたランパスは、それがこのまえ追い出した雄猫だったことを始めて知らされた。名前も知らなかった。

「さあ、どうしたかなんて、興味ねえな」
「お前、なんのためにあの場所を取ったんだ。お前には必要ないじゃないか」

恐る恐る近づく若い成猫を、もっと若いランパスキャットは睨みあげた。

「俺の歩く道は、俺が適当に決めてる。それだけのことだ」
「あいつは、…あそこを追われたら、これからどうやって過ごす? お前、何をしたかわかってんのか」
「関係ねえよ」

含み笑いに、そこにいたすべての猫が総毛立つ。当のランパスキャットだけは、頭の芯が冷えていた。その目じりは赤く、心なしか呼吸が速い。
間近に寄って話しかけた雄猫だけが、それに気付いた。

「お前、どうかしたのか」
「何?」

ランパスキャットがきつく睨み据えると、血走った目がますます目立った。

「ひょっとして、どこか痛いのか?」
「俺がか。よけいなお世話だな」

 鼻で笑ってみせても、雄猫は怪訝な瞳を逸らさなかった。

「…おまえ、この数日姿を見せなかったよな。どこにいた」
「関係ないだろう」
「ここまで言ったら、いつものお前なら完全に手が出てるよな。へえ。そうか。なるほどな」

いやな空気が、足元から這い登りランパスキャットのこめかみを締め上げた。手足の痺れる痛みは、ビルのてっぺんから飛び降りた時以来、消えずに彼を苛み続けている。

狩りなどできるはずがなかった。
少しでも、何かを口にいれたくて、普段はよりつかないゴミ捨て場に足を踏み入れた。そこに歓迎しない誰かの影を認めても、弱った身を恥じてこそこそするほどランパスキャットは要領が良くなかった。




四方八方から手が伸びる。容赦のない爪が、ランパスキャットを捕まえ、切り裂いた。

色々鬱憤をぶちまけられた。
生意気だとか、何様だとか。おまえが殺した、とも言われた。直接死ぬまで叩きのめしたことは一度もなかった。

けれど、放っておけば死ぬところまで袋叩きにしておいて、自分たちは手を汚していないと彼らが思うのなら、それはどんな欺瞞だろう。そして、そこを離れたら生きていけない猫から彼の住処を奪っておいて、ランパスキャットがだれも殺していないというのなら、それも同じほど欺瞞だった。

ランパスキャットは地面に横たわった。身を二つ折りにしても、腹のうけた衝撃で反吐を吐かずにいられない。視界が白く霞んだ。ぼんやりした影だけを追って、ランパスキャットはやぶ睨みに視線を突き刺す。

つぎつぎ攻撃を叩き込まれた。もういいだろう、といいたくなるほどの執拗さだった。だんだん、ランパスキャットは腹が立ってきた。

がんがんなぐられていると、痛いというよりわずらわしくて腹がしびれる。罵りに、ひとつひとつ返してやりたい言葉が思い浮かび、それを吐く間もなく次の言葉がヒステリックに重なる。お前にだけは言われたくない、と思うことばかりだった。

「いいかげんにしろや、クズがぁ!!」

俺に触るな、と叫びたかった。手加減なしで手を振るう。
普段、そこまで腕に力を込めたことはない。どこかで、制御しているのだろう。自制のたがが外れた。

ランパスキャットの周りに、怒号が膨らみ鳴り響く。雄猫の太い声が、忌むように遠ざかっていった。
ランパスキャットは立ち尽くした。

足元には、湯気を立てて血の池が広がっている。その向こうに、餌にもできない肉の塊が命なく転がっていた。
彼の名前さえ、ランパスキャットは知らない。





満月に近い欠けた円が、空の中心を飾り、星々がきらめいている。
ランパスキャットははっと思い当たった。明日は、年に一度の特別な日だった。だから、彼らはあんなにもここに集まっていたのだろうか。
天上に選ばれるものの至福を夢見て。

どんな猫も、あの瞬間には目を細める。
せつなく、月を見上げる。

ランパスキャットが傍にいれば、醜く顔をゆがめる彼らが、お互い同士でいるとき屈託なく微笑むのを知っていた。
自分が傍にいくと、どんな雄も醜く見える。

けれど、それは自分が招いた事態であることをランパスキャットは知っていた。己にふさわしい扱いを、自然に周りはとるものだった。

最後の馬鹿力をふりしぼり、追っ手をふりきった。いつかの路地でランパスキャットはごみの影に隠れていた。新しくできた傷口から、血が流れ出る。脈が頭の裏側に煩く響き、そのたびに鮮血が噴出すように感じた。
身体が冷える。

ランパスキャットは、ぼんやり座り込んでいた。見つかったら最後だろう。

頭上に、影が動くのを感じて、ランパスキャットはため息をつく。街の裁定者を見上げた。

そこに立っていたのは、クリーム色の少年だった。

「なんだ、てめえか」

子供にどうこうされる自分ではない。
けれど、彼が別のおとなを呼べば話はべつだろう。事態はそう変わらない。
ランパスキャットは出血のせいで眠い目を閉じた。

「さっさと逃げろ。狩るぞ」

三度息を吸い込んだとき、いくら待っても状況が変わらないことに、やっと気付いた。
目を開くと、あの少年は消えていた。

「なんなんだよ」

狩ってやる。あの日、そう呟いたランパスキャットが、彼を逃がしてやったつもりでいたことに、彼は気付いていたのだろうか。母猫のもとへ乱暴な手段で追いたて、安全な場所まで逃がしてやったが、それに馬鹿な餓鬼が気付くはずもないと密かな優越感に浸っていたことを、見抜かれたのだろうか。

ランパスキャットは、かっと顔が赤らむほどの羞恥を感じた。

とりあえず餓鬼に見逃されたことは、確からしい。

面倒にかかわりあうのが、嫌だったのかもしれない。あるいは、他の雄猫をおそれたのかも。けれど、この事実はかわらない。
ランパスキャットは、彼のおかげで命拾いした。

「ちくしょう」

じりじりと、ランパスキャットは這いずった。

「死なねえ…生き延びてやる」

雄猫たちは、ランパスキャットには残酷で、すこしの感情も見せない。ただ、軽蔑と隠し切れない力への憧憬を見せるだけだった。そんなものは、魂の真実とは程遠かった。

あの少年は、どうしてランパスキャットを見逃したのだろうか。
「喧嘩」と異名をとる、今のランパスキャットには到底つきとめられないことだった。それを知りたい、と思った。

「ここから、出てやる」

もうここで暮らす事はできない。群中の雄から命を狙われている。けれど、他の街へたどりつくことができれば、生き延びる可能性があるかもしれない。

瞼の裏に、故郷の風景があざやかに蘇った。

教会の老いた猫を中心に、愛と信頼で結ばれた猫たち。一度捨てた彼らのなかに、再び戻ろうと、ランパスキャットは決意した。

そして、見極めたかった。
それが、本当にあるものなのか。あったとしても、自分には身に着かない教養なのか。

外の世界で、殺伐のなかにいても真実には近づけなかった。命さえあれば、真実に出会うことがあるだろうか。
血に塗れた手を必死で泥につきながら、すこしずつランパスキャットは前進した。


『同族殺し』
2007.02.24