僕の手は魔法を握っている。

 灰色の雲が空を覆う。いつもどおりの曇天は、背伸びしたら届きそうに低い。

 今日は何をしようか。何をして遊ぶ?

 とろりと黒い幕が下りてきて、灰色の空が消えた。目を瞑ったのだと、自覚する暇もなく、眠りに落ちた。



「ミストフェリーズ!」

 大きな声で名前を呼ぶのが聞こえて、びっくりして目覚めた。何事だろう。

「何だよ。ここは教会だぞ。静かにしろよコリコ」
「あ、……と」

茶色の小柄な猫が、もっと小さい黒猫に耳打ちした。

「ごめん。今日は、お前ずっと教会にいるか?」
「そのつもりだけど、どうした? 何かあったか?」
「ううん。そうじゃないんだけどさ。よかったらいっしょに黄色いのと公園の池にいかないか? ほら、あいつ、前に魚がどうとか、言ってただろう?」
「ああ、ヴィクとふたりきりで行こうって約束してた、魚影の見える木の枝のこと」
「約束してないだろう!!あいつが勝手に、誘ってただけだ」
「しーっ、静かに…! でも、ヴィクトリアはけっこう好奇心強いから、もうふたりきりで出かけた後かもな」

膨らんだボールのように元気だった少年から、ぷしゅ――と音を立てて空気が抜けていく、のが見えた気がした。動きも語尾も、勢いをなくす。
本当は、黒猫と一緒を口実に、二匹のデートを邪魔するつもりだったのだろう。彼が純白の少女に憧れている事を、すべての猫が知っていた。
少年の稚拙な思惑は、傍で見ているだけでも、簡単に見透かせる。

「そうかな…ヴィクトリア、もう公園に行ってしまったかな」
「うん。そうかもな。
 あ、それと、俺は今日、長老に呼ばれてここにいるんだから、お前とは遊べないよ、悪いけど」
「ふーん…そうか。じゃ、またな」
「うん。あ、そうそう」

 窓を破る勢いで飛び込んできた少年猫は、ゆっくりとぼとぼ教会を出るところだった。振り返ると、眉が八の字によって、子供のように口を尖らせている。黒猫が思わず噴出した。

「俺と、黄色いのと、お前とで、明日一緒に公園にいこう。ヴィクは見たかもしれないけど、俺たちはまだ、そんな珍しい場所を教えてもらってないんだから」

 笑いながら、ミストフェリーズは幼友達にそう言った。
 不器用な友達への親愛と、そして彼のあまりに正直な表情が、気難しいミストフェリーズをいつも笑わせる。

「すみません、オールデュトロノミー。お騒がせして」
「いいや。わしこそ、すまないね、せっかくのお誘いを、断らせてしまった」
「いいえ…僕でお役に立てることなら、なんでもします」
「そうかね。じゃあ、手始めに何をしてもらおうかな」

 にっこり微笑んだ顔に、黒猫はとまどった追従の笑みを返した。




「あそこに稲妻おとして」
「えいっ!」
「あっちは」
「うっと!」
「ここは」
「はっ! …って危ないじゃないですか、オールデュトロノミー!」

 雷を長老猫の足元に突き刺してから、ミストフェリーズは抗議した。

「落としてからいうんぢゃもんな〜」
「あなたがテンポよく言うから、つい、乗せられてしまって…すみません」

 デュトロノミーの、長い前髪がちりちりにこげていた。それだけでなく、年季の入った長老の体に、一直線の軌跡が長い毛並みを刈り取っていた。
 電流の通った跡だった。

「すごい、すごいなあ、ミストフェリーズは! ひょっとして魔法使いかなんかじゃないのか?」
「オールデュトロノミー。そんなに興奮しないでください」

 長く生きていても、まったく予測のつかない事態があることを知っていた。その覚悟をさえ上回る、ミストフェリーズの魔術に、魅了されない猫はいない。
 あのタガーでさえ、彼には一目置いている。

「ミスト、お前は本当に、すごい魔術師だ」
「いいえ。…僕は、ただの手品師です」

 ひっかかりの残る笑顔で、黒い猫は答えた。
 この世は魔法に満ちている。




 あの空、なぜあんなに色が変わるのだろう。
 あの猫、なぜあんなにいとおしいのだろう。

 この身体は、なぜここにあって、こうして彼の目の前に立っているのだろう。
 僕の瞳と僕の手には、魔法が宿って、いつでも輝いていた。




「ミスト、それ、は…」
 そういったきり、コリコパットは絶句した。黄色い猫は何を考えているのか分からない笑顔でにこにこしている。こういうときは、絶対に彼は怒っている。自分にはわかる。

「…今日一日、よろしく頼む」
 ミストフェリーズは、頭を下げかねない勢いで頼み込んだ。
 彼の後ろで、ひらひら手をふるのは町いちばんの長寿猫、つまり…

「オールデュトロノミー、ええ、と。俺たち、別に悪いことしませんよ」
「若者のことを、常に年長者は信じているもんぢゃ! わしが君らを監視しているように思われるのは、ちょう悲しい!」
「無理に若者ぶらないでください。いつものままの長老でいいです。
 えーと、じゃあ、なんで俺らについてくるんですか?」
「わしも魚が見たい見たい!!」
「……こういうわけなので、皆、頼む…」

 もはや続ける言葉がないのだろう。コリコパットは黙り込んだ。もとから、黄色い猫は一言も発していない。ただ、醸し出す冷気で、この事態を好ましく思っていないと、全身で主張している。だらりと垂らしたしっぽが、それを雄弁に物語る。

 そんなに怒らなくても…と僕は悲しかった。

「まあまあ、別にいいじゃないか。男同士であることに変わりはないんだし、魚を見に行こうよ!」

 ミストフェリーズの高らかな声が、空しく路地裏に響き渡った。





「こっちだけど…」
「ふうん。黄色いの、よくこんな場所を見つけたな」
「別に…よく通るから」
「すごいな。本当に魚の影が見える。こんなに離れてるのに」

 岸辺に立つ緑葉樹が、肉厚の葉を折り重ね、水面に広く影を敷いた。
 湖は、正午の光を跳ね返す。一時も休まずに、さざなみが繰り返す。細めた瞳の、眼裏に、波型の残像が黒くまたたく。

 直視できない湖の、白銀の水盆へ、木の形のガラスを嵌めて、それを覗き込んでいるようだった。緑色した水中を、輪郭の淡い、流線の影が、身をしならせて進んでいる。
 ああ、なんて綺麗なんだろう。

 こんなものが、まだこの世にあったなんて。

「すばらしい!」
「別に。あんたに見せたくて、連れてきたわけじゃない」
「君は、わしが嫌いだね」
 怒りではなく、悲しみから言葉が溢れた。
 こんなに美しい世界で、心だけが苦痛を感じる。嫌悪に震える。明確な痛みは、それが幻だとしても猫を捉えずにいられない。

 憎しみや怒りと引き換えてもいい、価値あるものなんて、この世にひとつもありはしない。

「…ミストやコリコの前で、そういうことを言う神経が嫌いだね」
「え、黄色いのって、長老が嫌いなの?」

 茶色で綺麗なコリコパットは、大きな瞳を輝かせながら問うた。

「どうして?」

 この世は、魔法で満ちていた。憎しみも、その一つかもしれない。
 その魔法は、僕には扱いきれなかった。




 僕のこの手の魔術は、魔法は、ひょっとして役立たずかもしれなかった。

「ミストフェリーズ、安心しなさい」
「僕は、不安なんです」

 他の二匹はちりぢりに、それぞれのねぐらへ帰っていった。戻る家のあるミストフェリーズは、教会へ迷える身を寄せて、ひざまずいていた。
 彼の師ある僕へ、懺悔の言葉を繰り返す。

「僕の力が、誰かを傷つけることが、いつかあるんじゃないかと…」
「大丈夫。自分を信じなさい」
「あなたが僕に、制御する力を、教えてくれようとしたのに。僕は、あなたの毛並みを焦がした」

 ため息を吐き出して、黒い猫は続けた。

「ひょっとしたら、今度は毛並みだけで済まないかも…」
「考えすぎだよ。僕は、君にサーカスよろしく芸をしこもうとしたわけでも、ピアノの先生みたいに毎日稽古させようとも思っていなかった。
 ただ、ミストフェリーズの輝く力を、間近に見たかっただけなんだ」
「オールデュトロノミー、気遣ってくださってありがとうございま…」
「信じていないね! 僕がどれほど好奇心の塊であるか、記憶を辿ればわかって貰えると思うが」
「デュトロノミー」
「なんだい?」
「どうして昼間もそういう自然な話し方をしないんですか。「長老ごっこ」につき合わされてるみたいで、すごく背中がかゆいんですが…」
「わしはみんなの長老ぢゃからのう。それなりのきゃらを作らねばならんのぢゃ。ふぉっふぉっふぉ」
「…やめてください」

 魔術の塊である黒猫は、特別な力をいっさいもたない老いた猫へ、信頼と尊敬に満ちた眼差しを当てた。
 僕はいつも、彼、ミストフェリーズの力になれたら、と思っていた。
 群のすべての猫たちに、できるかぎりの助力と、そして、彼らと過ごす喜びの時間の、長からんことを。




 この世の魔術は、老いた身にも奇跡をもたらす。
 僕は両手一杯に、魔法を握って生きてきた。
 そう、例えば、満月が輝く夜。僕は、皆が呼ばれたがる世界への切符を、一枚だけ握っていて、これを手渡す猫を名指しする。

 なんて嫌なやつだと思っただろう。
 でも、考えてほしい。
 選ばれたら、絶対に行かなきゃいけないわけじゃない。

 また、もし、誰かが「みんなで一緒に行こう!」と叫んだならば、僕は喜んでしんがりを勤めるだろう。

 でも。そんな頭の柔らかい猫がいなかったとしたら、そして、僕が僕のこの身体に、限界を感じたならば。身体が朽ちる前に、僕は僕を天上へ昇る、ただ一匹の猫へ選ぼう。

 多くの友を見送ってきた。
 彼らと別れを惜しんで、涙を流した。

 彼らは幸せになったのだろうか。この美しい地上より、もっと美しい世界が? 想像もつかない。そもそも、天上へ行く事は本当に幸せなのだろうか。

 だから、僕は僕を天上へ上げる。

 そして、僕が送り込んだ魂が、本当に永遠に生きているのか、確かめるだろう。だって、それが僕の責任というものではないだろうか。




 星いっぱいの空のもと、まあるい満月に見守られて、猫たちは誇り高い顔を上げる。
 すべての猫の目に月が映りこんで、地上に月が、降りてきたよう。そのなかを進むとき、空を歩んでいるのと変わらない。
 猫たちは、星そのものだった。
 青い星の上に生きる無数の星たち。すべての手に、魔法と小宇宙が握られて輝いている。
 僕も例外ではない。

「今夜、選ばれるのは…」
 
 おごそかな声に、気難しい猫も、にぎやかな猫も、陰のある黄色い猫も、やさしい雌猫もじっと息を潜める。次の答えを待っている。

「わしじゃよ」

「……………」
えええぇぇぇぇぇぇぇ―――――?!

 驚く猫たちを尻目に、僕は灰色の毛並みをちょいと摘んで、輝く雲へとエスコートなしで駆け上る。
 あとには化かされたみたいに、ぽかんと口を開けた、大勢の猫たちが残る。
 朝日を浴びたら、彼らは正気に戻るだろうか。

 きっとすごくびっくりするだろうなぁ。

 くすくす笑っていると、黒猫が怪訝そうに僕を見つめた。
 僕の手の魔法の秘密を、継ぐのは彼だろう。
 そう意識しながら、年若い友へこの面白い考えを語り始めた。



『魔法』
2007.02.05