注意
タップの虫が出てきます




体温を宿さない、石の床が光を弾く。
大理石の白さに溶け込みながら、ヴィクトリアは長い廊下を歩んでいた。他人の庭を荒らす後ろめたさは、彼女にはない。招かれて朝食会に出席する貴婦人のように、しゃなりしゃなりと白いしっぽを揺らしていた。

薄暗い湿った土地だから、古い屋敷のいたるところに空気が淀みを作る。

それは、猫より小さな生き物にとって、格好のテリトリーだった。
壁に掛けられた、大きな額縁の下の僅かな隙間。そこから何かが這い出してくる。ヴィクトリアは、小さな命を見かけて微笑んだ。

目が会うと、子供はびっくりして硬直した。

「行きなさい。あっちがジェニエニドッツの部屋よ」

ついと白い指が、自分が向かう方向を指し示す。

「それとも一緒に行きましょうか?」

本能におびやかされて、小さな小さな昆虫の子供は、一目散に走っていった。生まれたての透明な羽根は、柔らかすぎて、まだ彼の身体を空へ送ってはくれないのだろう。
垂直の壁に張りつき、身体を横にしながらお尻をふりふり、一生懸命かけていくその子を見送った。、ヴィクトリアは優雅な微笑を崩さなかった。

けれど、氷の針のようにするどいひげは、今にも襲い掛かりたそうに前へ倒れる。口許が、牙を隠しきれずにむずむず動いた。


 


「ヴィクトリア、私のやんちゃ坊主と、そこで会ったでしょう」

温かい毛色をもこもこ膨らませたジェニエニドッツは、豪気に笑いながらそう尋ねた。
温かい台所には火が入って、ぐつぐつ何かが煮えている。シンクの上に飛び乗れば、何が作られているかわかるけれど、そんな無作法をヴィクトリアは当然、するわけがなかった。

さきぶれを受け取っていたおばさん猫は、部屋を温めてヴィクトリアの凍えた身体を待ち受けていた。

「ええ、一緒に貴女のところへ行きましょうと誘ったけど、嫌われてしまったんです」
「そりゃあ、あの子たちは私以外の猫が嫌いだもの。コリコやマンゴなんかが、あの子たちを追い回すもんだから…」
「まぁ…!」

ヴィクトリアは、青い瞳を吊り上げた。

「あはははは!そりゃあね、しかたのないことよ。男の子たちはどうしても我慢が効かないからねぇ。だから、私は女の子だけを食事にさそうの」
「光栄です、ジェニエニドッツ」
「正直言うと、私はちょっと心配だったんだ。ヴィクトリア、子供はどうしても、我慢しきれずに私のぼうやたちを追い回すから……それが猫の本能だもん。しかたのないことだけど。でも、そういう子たちは私の部屋にご招待できない。
でも、あなたは私の可愛い子供に親切にしてくれたよね。嬉しいわ。
あの子も、本当はあなたと一緒に歩きたかったんですって。ただ、やっぱりどうしても怖かったのと、それとね。あなたが綺麗で恥ずかしかったんですって」

ジェニエニドッツは、本当に楽しそうにころころ笑ったので、ヴィクトリアも愛想笑いを作る暇をなくしてしまった。よい子の仮面の下の素顔が、つい零れてヴィクトリアはぎゅっと唇をつぐんだ。頬が火照るのを感じながら、ヴィクトリアは何かを言わなければ、と焦って言葉を捜す。
何か、気の利いたことを。

優しくてあったかいおばさんを楽しませるようなことを、何か。

「ヴィクトリア、あなたは若いけど、でもあなたなら大丈夫だと思ったんだ。
あなたは、今年生まれたばかりの子とは思えないほど、本当におとなびてるのね」
「そんな…男の子たちが乱暴なんです」
「それもある!!特にコリコは、近年生まれた仔猫たちの中でも、ちょっと珍しいほど、元気一杯だからなぁ。あの子は、こんな湿った屋敷でご馳走食べるよりも、外で駆け回るのが楽しいんだろうね」

さびしさを滲ませて眉をひそめながら、ジェニエニドッツは口角をぎゅっと引き伸ばして見せた。今、おばさん猫と一緒にいる白猫は、ここに居ないコリコパットの、快活な笑顔を思い出す。ついでに、彼が自分にだけむける、気取った無表情も連想していた。ダンスの最中にヴィクトリアが微笑んでいても、彼はますます強張る。まるで、初対面の猫が相手のように。

ジェニエニドッツは彼がお気に入りらしい。ヴィクトリアは彼への、ちょっとした嫉妬めいたものに胸をざわめかせた。

「さあ! こっちにおいしいものがあるんだ。よかったら食べていってよ。ヴィクトリア、あなたの好きなものだといいんだけどな」
「私、好き嫌いはあまりないんです」

目を細めて、頬一杯に完璧な微笑みを広げて、ヴィクトリアは優等生の回答をした。今度はそつがなかった。





その女性は、誰かの手を待ちわびているように、頼りなかった。
ゆがんだ表情。
悲しみに崩れた顔。

暗い瞳。

長い年月が満足以外のものを、猫の身体へ刻みこんで行くことがある。生まれたばかりで、ひとめぐりの四季さえ経験しないヴィクトリアには、到底想像がつかない。彼女の持つ、どうしようもない不幸の匂いに、圧倒された。

すがりつく弱弱しい顔が、投げつけられる蔑みに強張り、自分の殻へ閉じ篭もってみるみる遠ざかる。

行かないで―――!

ヴィクトリアは、白い腕を彼女へ向かって精一杯伸ばした。



行かないで。
あなたはだれ。
なにをそんなに悲しむの。
そんなに悲しいことが、この世界にはあるの?

なぜ貴女はそんなに嫌われているの。

行かないで。
私にはわからない。
どうして誰かを嫌うのか。
蔑むとはどういうことなの。
どうしてそんな醜い、くるしい心を猫が持っているの。

あなたはそれを、私たちに見せるためにここにいるの。
違うでしょう。

行かないで。

私は知りたい。
あなたを知りたい。
それから、あなたをやっぱり嫌うことになってもかまわない。

あなたはだれ。

本当に、こんなに悲しんでいるひとを、嫌いになるなんてありうるのだろうか。




水の中でもがくように、もどかしかった。
心は光の速さで彼女へと傾いたのに、身体はいつも通りにしか、動かない。あと少しで彼女へ手が届く。あとちょっと。
灰色の彼女が振り返る。きっと嬉しそうに。

彼女の手を、ヴィクトリアは切望した。





大きな猫がヴィクトリアの青い瞳の前に立ちふさがって、それ以外のすべてを隠してしまった。
獰猛に動いたと思うと、白猫に襲い掛かる。

―――やめて!!

もちろん威嚇しただけで、マンカストラップは蹲ったヴィクトリアに危害を加えはしなかった。
ジェニエニドッツの、蛇のようにするどい鳴き声が、責めるように降って来る。白い顔を地面にこすり付けて汚しながら、ヴィクトリアはこの身が縮んで消えてしまえばと思った。

叱られた。しかもふたりに。

叱られた。
叱られた!
叱られた!!

この私が?!

多くの猫の前で、みっともなく這いつくばって、震えているのを見られた。
この、私が!!

悔し涙が喉に込み上げて辛い。
地面に顔を伏せていれば、泣き顔を見られない。
泣いている間、ずっと土に顔を埋めている自分を想像して、あまりの惨めさにヴィクトリアは意地でも泣かなかった。

泣き止むより長い時間がかかった。動揺を収めるまで、じっとそこに隠れていた。心配そうな視線が肩に突き刺さる。ミストフェリーズだろうか。
彼は、高い場所にいて彼女たちを見下ろしていた。

またぐっと涙の波が、ヴィクトリアの胸に高まる。どうにか耐えた。
ぽたりと何かが落ちて、土を泥に変えた。涙かとびっくりしたけれど、それは強張った体から搾り出された汗の一滴だった。

―――もう二度と、彼女に話しかけない。近づかない。

ヴィクトリアは決心する。こんな恥ずかしい思いをするくらいなら、彼女になんか近づかなかった。叱られた。この、私が!悔しい、恥ずかしい。

大好きなジェニエニドッツが、聞いた事もない声で自分をしかった。
いい子だとしか言われたことがなかったのに。悲しい。

おばさんの顔を怖くてみられなかった。
どんな顔で怒っていたのだろう。叱られたことなんて、今まで一度もなかったのに。悲しい。どうしよう。
悲しいし、悔しい。
どうしよう?

感情が堰を切りそうだった。耐え切れない。惨めさを呼び水に、いっそう涙が込み上げる。急いで物陰に飛び込んで、めそめそ泣きだしそうな自分を真っ直ぐ暗闇に立たせた。




マキャヴィティに揮った爪を胸に抱きこみながら、ヴィクトリアは足ががくがく震えるのを、ひとごとのように感じていた。
手ごたえが生々しく残る。
やってやったという誇らしさと共に、今にもマキャヴィティが足元から現れて、自分を攫って行くのではないかというわけのわからない不安が、ヴィクトリアの身体を地面に釘付けにした。

マキャヴィティの長い縺れた毛並みは、傷つけようとする指へ藻のように絡みついた。立ち尽くすヴィクトリアの前を、さっと女の腕が遮った。

ボンバルリーナだった。

平凡だと思っていた年上の雌猫の、厳しい横顔を見上げながら、ヴィクトリアは差し出されたその腕に両手ですがった。

彼女を庇って、赤毛の混じるボンバルリーナは、群の中へと彼女を導いた。





光が、胸を満たす。
夜明け前に、ありえない光量が夜空を切り裂いた。
ヴィクトリアの心のちっぽけな暗闇を、照らし出す。

ヴィクトリアは初めて見る神々しさに、胸を高鳴らせ、そして瞳を反らそうとする自分と戦った。
すべての猫に傅かれ、彼女の目前を通り過ぎていったのは、年老いた雌猫だった。

彼女に惹かれていた。

一度だけ触れ合った彼女は、それを最後にヴィクトリアの手のとどかない場所へと昇って行った。

結局、ヴィクトリアは彼女と向き合う事はなかった。それが出来たのは、もっと純粋な魂だった。

それでも、この光へのうしろめたさに負けたら、この先二度と顔を上げていられない。ヴィクトリアは目をそらさずに、彼女の幸福を見守った。
彼女と語り合いたかった。
けれど、もうその術はない。

猫の目にだけ届く、神聖な光は、毎日降りてくる優しい朝の光に溶かされた。一年に一度の夜が明けた。

ボンバルリーナも、眩しそうに消え残る光を見つめていた。




なんて、自分の世界はちっぽけだったのだろうか。
ヴィクトリアは、朝の寒さに身を震わせた。

「ジェニエニドッツ」
「あら、ヴィクトリア。帰らなくていいの?」
「これから、おばさんの家に行ってはいけませんか?」
「え、もちろん! 歓迎するよ」

ジェニエニドッツは、ヴィクトリアがほっとできる、あけっぴろげの笑顔を輝かせた。

「幸せだったね、昨日の夜も。ああ、ヴィクトリアは初めてのジェリクルムーンだったよね」
「ええ……」
「毎年、こうなんだよ。
幸せで、胸が苦しくなる。幸せだね。こんなふうな夜に毎年出会えるなんて、私たちは幸せだと思うよ」

胸の痛みを噛み締めながら、それを飲み込んでジェニエニドッツは言った。
幸せな夜だった、と。

「私は、二度と彼女に話しかけないと思ったんです」

ヴィクトリアは自分の抱える暗闇を、ちっぽけな心を初めて誰かに吐露しようとしていた。それは勇気の要ることだった。

「私は、卑怯だったんです。それを、おばさんに聞いてほしい」
「……いいよ。私も、懺悔したいことはいくらもある。そして、それ以上に、この幸せな出来事を語り合うことで誰かともう一度分かち合いたい。
ねえ、私たちは幸せな猫なんだね」

幸せ色のおばさん猫が、氷のような白いヴィクトリアに微笑みかけた。
春に溶かされる湖のように、ヴィクトリアの顔が歪んだ。

「ええ、とっても!」

氷の下には、すべての美しい春が眠っている。



『飛びたつ』
2007.01.18