灰色の空から遮るもの無く日差しが降り注ぐ。
純白のヴィクトリアは陽だまりの中、天を仰いでいた。蒼い目を細める。
アイスブルー。
春の日に覗き込んでさえ、あまりに冷たすぎる瞳の色だった。
いつのまに傍に来たのか。黄色い猫は、陽だまりそのもののように光って艶めく、手入れのいい毛並みをヴィクトリアに擦り付けた。特別に親しい猫への挨拶として。
ヴィクトリアは黙って受け入れた。
暖かな日差しと、暖かな猫の体温。
それは珍しく彼女の心を雄猫に向かって開かせた。
花開く微笑が、彼女の顔を彩る。
黄色い猫はうっとり彼女を見つめていた。
「幸せな日だね」
「そう?」
「珍しいくらいよく晴れて、温かくて気持ちがいい。
何より、君に逢えた」
黄色い猫は無謀にも、ヴィクトリアの喉をころころ鳴らそうと試み、彼女の長い優雅な首すじに何度もキスを送った。
迷惑そうに鼻筋に皺を寄せていたヴィクトリアも、触れるか触れないかで繰り返される愛撫のような触れ方に、徐々に快感を覚えて怒った顔をとろけさせた。
「君は誰より綺麗だから、一緒にいられて僕は光栄だよ」
「……」
「ボンバルリーナより、ずっと君のほうが綺麗だ」
「ボンバルリーナ? なぜ彼女の名前が出てくるの?」
あの地味な猫が一体どうしたというのか。
ヴィクトリアは困惑して、うっとりと名前も知らない雄猫を見上げた。
たとえば、タントミール。すらりと鋼の体に、針のような短毛を輝かせる、彼女のような美猫ならともかく、ボンバルリーナのような、あんな凡庸な猫と、なぜ美しい自分を比べるのか。
彼女が動かなければ、背景と同化してしまって、そこにいるのかさえヴィクトリアには判らない。彼女は心底不思議に思った。
彼は、いたずらを見咎められた子供のように焦った顔をして見せた。
けれどその一瞬前に彼がした、舌打ちしそうに忌々しそうな顔をヴィクトリアは見逃さなかった。
その冷血の本性を見逃しはしなかった。
「あの青い空。君の瞳のよう」
他の女の存在を匂わせてしまった。黄色い猫は失言を上書きしてしまおうと、歯の浮く台詞をぬけぬけと口にした。
「空?」
「うん、そう」
「太陽じゃなくて?!」
柔らかく寄り添っていた体が離れようとする。黄色い猫は自分から擦り寄ることで親密な気配を保とうとした。
「太陽じゃなくて、空?
私が、あんなぼんやりしたモノだというの?」
彼女の顔には、ありありと侮辱された不愉快さが滲んでいた。
鮮やかな赤毛猫よりも純白の君が美しいと賛美した黄色い猫は、宇宙に続く空の抜けるような青さになぞらえたヴィクトリアを怒らせたのが、何だったのか分からず戸惑う。
嫉妬でないことは分かっている。そこまで自惚れていない。
まだ、彼女はそこまで自分に夢中になってはいない。
黄色い猫は、コントロールできない状況にいらいらしながら気弱そうな微笑を反射的に頬に刻んだ。それが彼の防衛本能だった。
「太陽も…美しいけど……ごめん。僕が悪かった。君はこの世にあるどんなものより綺麗だ」
「さっきはそうは言わなかった。貴方、何がいいたいの?
太陽ははっきりそこにあるのが分かるわ。光ってるもの。でもあなたは、空だと言った。あんなぼんやりした、あるのかないのかつまらないもの…私を、動かなかったら他のものと見間違えそうな地味なひとと比べてみたり。私がその程度の猫だとでも言いたい?」
「ボンバルリーナは…群で一番美しいと思うよ……あくまで、君が居なければの話だけれど」
「彼女のどこが?
他の猫とどこが違うというの。そっくりのディミータと並んだら、どっちがどっちか判らないわ」
「彼女たちはぜんぜん似ていないよ! ボンバルリーナほどの赤毛は滅多にないし、彼女たちじゃ全く色が…」
言葉を区切って、黄色い猫は体の動きさえ一瞬止めた。すべて飲み込めたと、目を細める。自分を見下ろすその顔が、いかにも何でも知っていますという訳知り顔だったので、ヴィクトリアは嫌悪感を覚えた。
「ヴィクトリア……君、色が視えないんだね」
この季節には珍しく、空には雲ひとつなかった。
それでも、ヴィクトリアは感じていた陽だまりが消えたと思った。
寒い。悪寒がする。
「かわいそうに。ごめんよ、可哀そうに。
そんなつもりじゃなかったんだ」
体の中で炎が燃え上がる。
ヴィクトリアは空のようにぼんやりした、「黄色い」猫に襲いかかり、押し倒した。
「可哀そうですって!!」
頬を思い切り叩いても、彼は抵抗しなかった。女の力など、たかが知れていると思っているのだろう。
マキャヴィティになりたい。
ヴィクトリアはそう思った。
マキャヴィティになりたい。自分を侮辱した猫に、迷うことなく罰を与える力が欲しい。
「私は光と同じなのに!!
このぼんやりした世界のなかで、私だけが鮮やかなのに、その私が可哀そう?
貴方みたいな猫にそんな風に言われるのは最大の侮辱だわ!!」
鏡を見るたびうっとりする。
ヴィクトリアの世界では、彼女だけがくっきり周りから浮き出して見える。
白。
彼女のなかでもっとも鮮烈な色は白だった。
「色なんてもの、視えないからといって、それが何だというの。
見る間に変わって行く、朝と昼でさえ移ろうそんな不誠実なものを、私が視られない事がなぜ可哀そうなの?
私はこの目に誇りを持っている。
嬉しいわ、そんなまやかしに囚われずに済むんだから」
ヴィクトリアにとって鮮やかなもの。
純白の自分。
他と全く形の違うタントミール。
そして、グリザベラ。
色を映さない瞳には、真実だけがはっきり視える。
彼女たちの美しさ。
目の前に居る、彼の残酷さ。憐れみと同情の裏に押し隠した、好奇心の瞳。
私は惑わせない。
「貴方など、見る価値もない」
ヴィクトリアはしゃらりとしっぽで撫でながら黄色い猫から離れた。
自分が彼にどれほど魅力的に見えているか知っている。
自分から視たって、自分が一番鮮やかだった。
ジェリクルムーンに与えられた自分の「色」が、白であることを彼女は運命的に感じていた。彼は「黄色」いらしい。
他の猫が呼ぶことによると、そうらしい。
自分が見ている世界は、他の猫たちの言葉から推し量るなら、そう。
灰色の世界。ヴィクトリアの目から世界を見たら、他の猫はそう言うかもしれない。
鮮やかなのは光と影。
光が白。影が黒。灰色の空の下で、それらだけが鮮烈だった。
もし自分まで彼みたいな、他と同じ、他とまじってしまうぼんやりした「灰色」であったら、この世界で自分の形さえ見失ってしまうのだろう。
けれど自分は光だ。
誇り高い白。
憐れまれるなど許せない。
「君を侮辱するつもりじゃなかったんだ。ごめんね」
「貴方の顔を見ていたくないわ」
「当然だね。
でも、僕は嬉しいよ」
黄色い猫はにやりと笑った。
「他のやつらは誰も知らない君の秘密を、僕だけが知ってる。
ねえ、覚えておいて。
僕と君だけの秘密だよ。
誰にも言わないって、約束してくれる?」
まるで、黄色い猫がヴィクトリアに秘密を暴かれたような言い草だった。
「誰にも言わないでね。
このことを知っているのは、僕と君だけでありたいんだ」
弱みを握られていることを忘れるな、と意地悪い顔が暗に告げていた。固い声でヴィクトリアは答えた。
「さようなら」
しつこくするつもりはなかったらしい。黄色い猫は、ひらりと身を翻して消えた。ヴィクトリアにとっては、彼も多くいる「灰色」の猫の一匹に過ぎない。
世界の中心に光たる自分。
それ以外はみな、同じに見える。
わずかに心を動かされるのは、個性的な雌猫たち。
彼女たちは、他と紛い様がない。
雄猫など……
彼女は知らなかった。
その一瞬後に、自分の氷の心が、タガーへの恋に溶けるとは。
『ヴィクトリア』