別の場所に生まれても、きっとここに辿り着く。

朝焼けが二匹を照らし出した。
お互い、小さな胸の痛みを抱えながら黙ってそこへ留まった。

「終わったな…」
「お疲れ様」
「お前こそ。疲れただろう、ジェリー」
「いいえ、ちっとも。貴方は?」
「俺は……」

ハンサムな老猫は、強がろうと体に力を込めた。
そして、ふっと緊張を緩める。

「そうだな。疲れた」
「私も、そうね。本当は疲れているの。でも、眠くないし起きて目を開いていたいわ」
「ああ。俺もだ。
疲れているが…」
「もうよしましょう。黙って、ここにいさせて」

ばら色の光が空へ溶けて行く。こんな光景の前では、強がりなど無用だった。

「あなたのグロールタイガーを、私、この目で見たのね」
「なんだ、話をしないって言ったくせに」
「ひとりごとよ。しっ、ガス。この感じを楽しみたいの」

今宵も、ガスは選ばれなかった。

ジェリクルムーンは地平の裏側に隠れた。
夜の世界が終わって昼が始まる。でも、二匹に夜を惜しむ気持ちや悔いはない。あったとすれば、そう。

「もっと早く、舞台を用意すればよかった。そうしたら、貴方だって」
「そうして、体の自由が利かなくなる限界まで演じ続けるか?」
「ええそう!役者にとっての幸せとはそういうことじゃない?」

死ぬ前の日まで、演じ続ける。
舞台の盆の上で死にたい。

「毎年、ジェリクルムーンの輝くたび公演して、グロールタイガーを演じつづけて、そして、いずれまた他のやつにこの役を奪われるのか?」
「ガス…」

「ごめんだな。それが嫌だから俺は舞台を降りた。
俺はな、ジェリー。
腰が立たなくなる前に降りたんだ。落ちてから止めるんじゃない。落ちる前に止めた」

「そうね。あなたはまだまだやれる。その気になりさえすれば…」
「違うな。一回きりなら持つが。毎日の公演をどうやってこなす?
俺には無理だ。はっきり分かった」
「ガス…」
「俺は無理だ。俺は、もう役者じゃな…畜生!!」

ガスは痩せた拳を地面に叩きつけた。
ばら色の空が、ガスの毛並みまで薄紅色に照らしている。

「お遊びの、素人の趣味でならいいさ。
でも、毎日は無理だ。舞台は待っちゃくれない。
俺の声が戻るまで、息が整うのを待ってはくれねえ。
みじめになる前に辞めたのに、どうして俺を引っ張り出した。
綺麗に終わったのに、どうしてそっとしておいてくれなかったんだ!」

「ガス…貴方はたとえ、歩けなくなっても、起き上がれなくなったとしても、声が出なくなっても役者だから」

「ジェリー!
そんな役立たずならいらねぇんだ。
要るのは客を痺れさせることの出来る、本物の…」

「いいえ。貴方は役立たずじゃない。
貴方が舞台を降りても、貴方は役者です。
そして、私は貴方のファンなの」

 納得いかない顔でも、ガスは頷いてみせた。
 幸福だった夜の翌朝に、空気を汚す醜い言い争いをしたくない。

「ああ。今日は俺は…演じきったな。少なくとも今日は。
どうだった? お前、楽しかったか?」
「私のグリドルボーンを見て、どう思った?」

ガスは目を細めた。美しい悪女を賞賛するように。ガスの顔が少年のように、頬を紅潮させた。

「ガス、それが答えよ。貴方にひっぱられてここまで来た」
「お前はもっといくらでもやれる。俺に囚われるなよ」
「貴方に手を引かれてここまできた。だから、あなたは役者だというの」

盆の上で、誰の相手を務めようと、ジェリーロラムの芯にはガスの薫陶が根ざしている。

だからガスは、自分が舞台を降りても役者でありつづける。ジェリーロラムがそれを止めないかぎりは。ジェリーロラムが女優をやめない限りは。

「もっと若い役者とやってみろ。俺だけでなく」
「私は舞台に立ち続ける。それが貴方への、私の一番の…」

ジェリーロラムは言葉を切って、考える。上手い言葉が思いつかない。

「そうね、ファンコールなのよ。貴方に会って感動したという、それを伝えられるいい機会なの」
「舞台はそんな生易しいもんじゃねぇ」

「ええ、私自身、演じることを楽しんでいるのよ。でも、自然に溢れるの。
役を表現したいと思うと、貴方と交わした言葉、貴方と居て感じたこと、貴方の顔を思い出さずにいられない。
私が役を理解するのには、貴方が必要なの。演じるということは、憎むことも愛することも、私が感じた貴方をまるごと体で表現するということ…ごめんなさい、意味分かるかしら?」

「ああ、」

「そう? よかった。私にも上手く言えないの。
貴方の為に舞台に立っているわけではないのよ。でも、私が女優であるには貴方が必要です、と、そう言ったら正確かしら?」

ガスは大きく目を見開いた。
そうすると、目の下のたるんだ皮膚が動いていっそうガスの老醜を際立たせた。

けれど、視線は好奇心に溢れて若々しい。

「よくわかった。役者の役に立てるなら、俺はなにより嬉しいし誇りに思うよ」
「嬉しいわ。わかってくれたのね」
「ああ、よくわかった。
まったく、お前がどうしてそんなに俺を尊敬してるのか、俺は不思議だよ」
「ガス?」

「どうして、昔の俺ならともかく…まぁ、いいさ」
「ガス、私は、今の貴方を敬愛しているの」

「どうして、俺はお前と会っちまったんだろうな。こんな、何にも持っていない俺にどうして。
なんでお前がここにいるのか、俺は心底不思議に思うときがあるよ」

この美しい雌猫が、老いた自分をどうしてこんなにも崇拝の眼差しで労わるのか、ガスには分からない。不安に思う隙もないほど、ジェリーロラムはガスを大切に扱う。
恋猫よりもガスと居る事を最優先とし、話を聞き、ガスが一度言った事は決して忘れない。

ガス本猫さえ、話したことを忘れていても、ジェリーロラムは覚えている。ガスはそれに気付くたび、驚かされて愛されている自分を確認する。

なぜ、彼女が今、ここに、自分の隣にいるのか。
心底不思議でならなかった。これが運命のめぐり合わせというものなのだろうか。だとしたら、ジェリクルムーンに感謝を捧げずに居られない。

若さも、芸も、何もかも失ったが、たったひとり彼女がいる。

その、たったひとりに依存する恐ろしさ。ガスは身震いした。

「朝の光は清潔だけど、寒いわね。ガス、そろそろ戻りましょうか」
「俺はまだここにいる。
お前、早く帰れ」
 
ガスはだだっこのように、腕を取ろうとするジェリーロラムを振り払った。
彼女はちっとも傷つかずに、ガスへ掌を向ける。

「貴方がいるのなら私は残るわ。貴方の邪魔でないのなら」
「寒くないか?」

ふわりと、ジェリーロラムの華奢な体がガスを包み込む。老いてなお大きな背中に、彼女は抱きついた。

「私はあたたかいわ。心が暖かいというのかしらね」
 
 会うべきひとに会えた幸運。
 
お互いがそれを噛み締める。親子でも恋猫でもない。
けれど、なにより相手を求める気持ち。

ジェリーロラムは、掌の下にある、確かな体の手ごたえにため息をついた。
どこに生まれようと、ジェリーロラムはガスを追い求め、見つけ出しただろう。
若く傲慢なガスが自分の栄光に酔いしれているときでさえ、ジェリーロラムはまだ見ぬ彼を探して彷徨っていたと……そう思える。

これは、ガスに出会ったあとのこじつけだろうか。

「貴方に出会えて本当によかった」
 
それは、自分のほうこそだ。

ガスは言えずに蹲る。組んだ腕のなかに、頭を入れて丸まった。それを追う様に、ジェリーロラムがガスの頭を撫でていった。

ガスは朝の大気に紛らわせて、また身体を震わせる。本心は決して言えなかった。あまりに本気でそう思っていて、言葉にするのが恐ろしい。お前に出会えなかったら、どうなっていただろうか、などと…
 
鬼神に聞き咎められたら、ジェリーロラムを奪われてしまいそうだ。

「俺は、何処に生まれようと役者になった。すべての町を巡業する役者にな。だから、俺とお前が会うのは当然のことだったんだ」

ニ匹が出会わない運命などない。
ガスはそう納得して自分を安心させようとした。

孫のように若い雌猫。自分とはなんの共通点もない。
けれど、どんな世界だろうとニ匹の魂があれば必ず出会える。ふたりは役者なのだから。そう信じたかった。

「どこに生まれようとも、私はきっとここに…貴方に辿り着いてみせる」

ジェリーロラムはうっとり目を細めた。
ガスの豊かな毛並みに頬を埋めながら。

乾いて艶のないガスの毛並みを、ジェリーロラムの細い指が何度も何度も櫛削った。

たどりつくべきは場所ではなく、互いの胸の内だった。



『鬼神』
2006.12.06