ご注意ください:
近親相姦要素があります



ニ匹の仔猫は、歓声を上げて転げまわった。

薄暗い教会は、人の手が行き届いて、どこもかしこも清潔だった。窓の外には星が明るく煌いて、月光が差し込む。
身体を膨らませた猫たちが、互いを追いかけて暴れると、わずかな埃が舞い上がった。気にせず、姉と弟は狭い室内を駆けた。

「ほら、タンブルブルータスをつかまえた!」
「いやだぁ!!」

子供にしか上げることのできない、笑い声。
どんな楽器よりも楽しげな、明るい音色が、月光と共に教会の一室を照らす。
ニ匹の親は、狩りの為にか居なかった。

「カッサンドラ! こっちだよ」
「ずるいよ、さっきつかまえたじゃないか! こんどは君が追いかけて!」

額にVの字を、白く浮き出す褐色の猫が、ひらり背中を向ける。長いしっぽが翻った。
そっくり同じ模様を、小さな頭に頂く猫が、すばやく彼女を追いかけた。

「ほらね、つかまえたよ」

また歓声が上がる。
ふたつの声がぴったり重なると、笑っているのは一匹だけに聞こえた。

「タンブルブルータス、こんどは僕が追いかけるよ。早く逃げてよ」

小さな耳を激しく震わせて、カッサンドラは弟を追い立てた。タンブルブルータスは、べたべた触って逃げろと促す姉の手に、くすぐったそうに笑うだけで、一向逃げようとはしない。嬉しそうな彼の目に、小さな指が今にも触れそうで、はらはらするほど距離が近い。

タンブルブルータスは二本の腕をかいくぐって、仔猫に抱きつく。彼も、彼女にそっくりのちいさな仔猫だった。

「タンブル、ちょっとこっちへおいで」

おとなが声をかけると、じゃれあっていた良い子のニ匹は、ぴたりと動きをとめた。大きな二対の目が、じっと声のした方向を見つめる。

無遠慮でまっすぐな眼差しに、ジェニエニドッツは苦笑する。双子の片割れだけを招くと、とことこ足を動かして、華奢な猫が彼女の前に立った。

「タンブルブルータス、のどの具合はどう? せきは?
もうそろそろ、食事をして眠る時間よ。風邪をひいているときは、いつもよりじっとしている時間を長くとるものなの」

仔猫の背中に軽く手を触れて、安心感をあたえながらジェニエニドッツは説得した。子供のあそびを中断させるのは、おとなにとっても骨の折れる仕事だった。けれど、彼らのためを思うなら、そうしなければならないときがある。

「ごめんなさい、おばさん。
タンブルブルータスは、もう寝なきゃいけないということはわかっていたんだけど、でもどうしてもまだ僕と遊びたかったの」
「あなた、カッサンドラ?」
「うん。そう」

ジェニエニドッツは、にこにこ笑っている目の前の猫を見つめた。
視線のしっかり定まった、頭のよさそうな目。折れそうに細い身体に、暗い毛並み。彼女の肩ごしに見やると、ぽつんと離れている彼女の弟猫は、遊んでいた体勢のままじっと床を見つめていた。よく似たきょうだいだった。彼女等が、自ら明かさなければ、容易に見分けがつかない。

「カッサンドラ。あなたは弟思いのいい子ね」
「ありがとう!」
「でも、タンブルブルータスのことはタンブルブルータスに言わせなさい」

心外そうに、聡明な瞳が見開かれる。
自分と他者の区別もまだない、幼生の仔猫に、ジェニエニドッツは微笑みかけた。

「だって、タンブルにだって自分の言いたいことをいう気持よさを知ってほしいじゃない?誰かに判ってもらえたらとても嬉しいから、今は苦手でも、きっと練習すれば説明するのが上手くなるって。あなたが弟に優しくしてくれて、とてもおばさんは嬉しいわ。
でも、タンブルだって自分でできるよ」
「だって……僕たちきょうだいなのに」
「そうね、カッサンドラ。
でも、姉弟だって、タンブルのことはタンブルにやらせるべきよ」

聡明だとはいえ、おとなに頭ごなしに言われると、反論する術を彼女は持たない。でも、納得はしていないようだった。低い位置にあってうつむく、小さな褐色の頭を見下ろしながら、ジェニエニドッツは愛しく思う。
その距離のぶんだけ彼女は幼いのだ。

「さあ、カッサンドラ。あなたはもっと遊んでおいで。まだまだ夜は長いよ」
「いいえ、おばさん。カッサンドラは僕と一緒にいます」

 黙り込んでいたタンブルブルータスが、急に喋り出したので、ジェニエニドッツはびっくりした。そっくり同じ声が離れた場所から響いたので、カッサンドラの小さな魂が、今抱きしめている身体から逃げ出したかと思った。

「あらら、さみしくなっちゃった? タンブル。でも、おねえさんはお風邪をひいていないから、まだ眠たくは…」
「いえ、カッサンドラも風邪をひいてます。だって僕がひいたから、彼女も風邪になりました」

ジェニエニドッツは、不可解な言い分でも精一杯理解したいと思った。幼い彼に歩み寄ろうと、腰を上げる。けれど、宥めるため触れていた姉猫の頬が、本当に赤いことに気付いて慌てて屈みこみ、鼻と鼻をあわせる。
たしかに、からからに乾いていた。

「あら、大変!!
どうしよう。本当にうつったね。あなたも寝なくてはだめだ」
「はい……」
「カッサンドラと僕は、同じベッドで寝てもいいでしょう」
「ええ、もちろん。そのほうが温かいだろうし。すぐに食事を…」

 ばたばたと忙しなく、おばさん猫は支度に取り掛かった。





「おこられちゃった…」
「おばさんは怒っていないよ」

こつんと額を合わせて、仲のよいきょうだいは語り合った。
二匹の呼吸する身体を、寝床は柔らかく受け止める。丸めた古い毛布を、紙でできた頑丈な箱に敷き詰め、その中に二匹の小さな猫がもぐりこんでいた。
空気は冷たい。湿り気を帯びた呼気を、相手の瞳に吹き付ければ、窓ガラスにそうしたように白く凍るのではないかと思うほどだった。
互いの身体が、暖かかった。

「カッサンドラが僕の代わりに言ったのって、そんなにいけないこと?」
「そんなことない。おばさんは怒ってないよ」

同じ声が行き来する。
どちらの猫の言葉か、名前を呼ばなければわからない。

「カッサンドラ。おばさんは怒っていたんじゃないけど、僕のことをカッサンドラが言うのがいやみたいね」
「いやがってなんかない」

『V』のサークレットを戴く彼らの顔よりも、ずっと小さな手が、互いに相手を抱きしめた。
姉が力を強く込めると、弟もそうする。褐色の毛並みが艶を宿して、彼はカッサンドラとそっくり同じ形をしていた。そのひらひらと幼い手、指も、やはりぴったりと重なる。
これから、もっとずっと大きくなるはずの二葉の手だった。

「僕のこと、どうしてカッサンドラはそんなによくわかるの?」
「え?」
「僕も」

姉が抱くのより二倍強い力が、タンブルブルータスの腕に篭もって、痛さと気持よさに抱き返されたカッサンドラは震えた。

「ずっと」

弟が続けて何を言いたいか、カッサンドラにはわかった。
彼女も同じ気持だった。

いっしょにいたい。ずっと。

不器用に抱き合う二匹は、頭をぶつけて痛みに顔をしかめながら、それでも隙間無く身体を重ねて眠った。




のどの奥から血の味が込み上げる。
呼吸が胸の辺りで止まる。深く吸い込めない。
塊が気道を塞いで、すずやかな空気がそこで止まる。泥にせき止められて水が濁るように、掠れたわずかな息だけが、隙間を潜る。

小さな猫が荒い息を絞るたび、焦点を失った瞳から、苦しみの涙が溢れる。

「頑張って。あなたは強い子よ」

ジェニエニドッツは、仔猫の褐色の毛並みを撫でながら、芯の通った声で励ました。内心の動揺はけっして見せなかった。

 小さな身体のどこからこんなに、苦しそうな声がでるのだろうか。
呼吸自体が拷問であるように、仔猫は身体を痙攣させる。

「どうだ、様子は」
「オールデュトロノミー、お願いですからこの部屋に入らないでください」

爪先を滑らせる静かな足取りで、灰色の大きな猫が病床に近づいた。その毛並みは、彼が生きた年月を表して長い。温かそうに、縺れていた。

老いたものや仔猫にこそ、病はとりつく。
 尊敬する猫を、大切な可愛い仔猫から引き離そうとして、それでも握った小さな手を放せず、中腰でジェニエニドッツはおろおろする。

「僕は大丈夫。それより、具合はどうだい? 薬草は効かなかったのか?」
「わかりません。ただ、双子の片割れはよくなりました。こんなことが…あるんでしょうか」
「おなじきょうだいだ。きっとこの子もよくなる」
「はい……タンブル!!」

入り口は、それまでぴたりと閉じて光さえ漏れなかった。
けれど、オールデュトロノミーが扉を開いたせいで、そこにかけられたまじないが薄れたのだろう。

ジェニエニドッツは、けっしてここを開けてはいけませんよと、彼に言い聞かせていた。

「タンブル、お外へ出ておいで。カッサンドラは大丈夫だから」
「……」

タンブルブルータスの褐色の毛並みは、細く開いた扉の影に隠れた。ジェニエニドッツがほっとする隙もなく、彼の姿は再び現れると飛び跳ねて駆け出し、部屋の中へ、カッサンドラの枕元へ来ていた。

「タンブル!」
「僕はもう直ったんだもん。だからカッサンドラの傍にいる」
「直ったから、そばに居ちゃいけないの。またお熱で苦しくなるでしょう?」
「うそだ!!
この病気は一度治ったら、二度とかからないってオールデュトロノミー言ってた。僕が傍にいたっていいんだ!」
「タンブル…」

タンブルブルータスは、すっかり癒えた身体を姉にすりつけて寝床にもぐりこんだ。止める間もなかった。彼の拾ってきた病は、彼自身には根ざさず、二日で通り過ぎていった。

まったく同じ血をもつはずのカッサンドラを、病は深く侵食した。
血を吐くような苦しみを、幼い彼に見せつけたくなかった。ジェニエニドッツは、なんとか理由をつけて彼を姉から引き離そうと、こまかしの言葉をさぐる。

「いい子ね、タンブル。私たちがそばにいるから、カッサンドラは大丈夫よ」
「僕もここにいる…っ」
「ごめんね。でも、一緒に寝ていたらかえって苦しいのよ。ひとりでゆっくりすることが、一番の薬なんだよ。ごめんね」
「…カッサンドラ、僕が傍にいないほうがいいの?」
「優しい子ね、タンブル。
元気になったら、きっとずっと一緒にいられるから。だから、今は」

こんなに酷い症状はめったに見ない。荒い呼吸が、小さな身体から溢れて部屋中を満たす。ジェニエニドッツは、汗に塗れていっそう小さく見えるカッサンドラを見下ろした。そして、耳鳴りのするような悲しみを堪える。
ここまで悪化すれば、最悪の事態を覚悟すべきだった。
目の前で、おなじ形をしたきょうだいをなくす経験だけは、タンブルにさせたくなかった。おそらく、自分が葬られるほど彼を傷つけるだろう。
彼らにはまだ、境目がない。

「さあ、ここを出て。
カッサンドラがよくなれば、一番にあなたを呼んであげるから」
「いや、いや!」
「しーっ、静かに。カッサンドラが、目を醒ましてしまう」

枕元にもみ合う声を聞きながら、カッサンドラは目を開いた。視界は霞んで、ぼんやりと色が滲む。褐色の影が一番傍にいた。伸ばした自分の腕と、全く同じ色。彼は悲しそうに震えている。よく見ようと、カッサンドラは一生懸命目を細めた。

「じぇ…つ、……だ、う」
「カッサンドラ。ああ」
「だ、…じょう、ぶ。がんば、る、から」

のどが塞がった。
吸い込むはずだった息が塞き止められて、ごぼ、と身体の中が泡立つ。

塊を吐き出そうと、仔猫の華奢な身体は大きく波立った。

「しっかり! ああ、しっかり、カッサンドラ」

骨の突き出た薄い背中をさすり、ジェニエニドッツは悲鳴まじりに励ました。身体を折って激しく咳き込んでいたカッサンドラは、苦しみながらなんとか気道を確保した。

すこしだけ呼吸が楽につける。
血の味がする塊を吐き出した後、彼女の喉は薄皮を剥がれたように頼りなく、吸い込む息にさえ痛んだ。
羽化したばかりの蝶の羽のように、ぬれて痛む体の中を感じながら、ぜえぜえ喘ぐ。彼女は、半身を起こしながらほとんど意識を失っていた。
 首の後ろに手を入れて、ジェニエニドッツは彼女を寝床へ横たえた。

「タンブルブルータス。出て行きなさい」

ジェニエニドッツの固い声は、ともすれば冷たくも聞こえた。

「出て行きなさい!」

姉の突然の発作に、タンブルブルータスは震え上がっていた。傍にも寄れず、それでも目を離せなくて、じっと彼は身を縮めていた。
タンブルブルータスは頑固に病床のベッドにすがり付いたが、カッサンドラが苦しんでいるとき何もできなかった。同じ部屋にいて、同じ空気を吸っているのに。ただ、息を殺してみていることしかできなかった。

「嫌だ。ここにいる」
「タン…」

仔猫はひらりと寝床から降りると、姉の足元に侍った。

「これなら、邪魔じゃないでしょう」

ジェニエニドッツも、オールデュトロノミーでさえ、言葉を呑んで立ち尽くす。彼の決意を、竜巻だとて翻せないのだと、真っ黒くきらきら光る瞳が教えていた。

「…寝床を、もうひとつ用意してあげよう。タンブルブルータスのために」
「オールデュトロノミー…」
「それがいいよ。だって、それをふたりが選んだんだから。
ああ、ここにいていいよ、ジェニー。僕がすぐに、寝床をこしらえるから」

年季の入って長い毛足からは、とうてい想像できないほど、長老猫の身ごなしは軽やかだった。彼がずるずるタオルを引き摺って戻ってくると、タンブルブルータスは彫像よりも固くひとりの猫を見つめていた。

「やあ、お待たせ。ジェニーもお休み。ここは、僕が見ているから」
「だめです。…あなただけでも、ここから出てください」
「ジェニー。僕は大丈夫。病など跳ね返せる。無駄に人間たちに愛されていないよ。僕のようにたっぷり眠り、たっぷり食べている猫を、僕は僕意外にひとりしかしらないね」

彼がぱちりとウィンクすると、目の上あたりにくしゃくしゃ縺れる、灰色の毛並みまでが上下に動いた。ジェニエニドッツは苦笑する。多少とはいえ、不安が癒される。だから、彼はどんな猫にも愛され、尊敬されるのだろう。

カッサンドラも苦しい息の下で微笑んでいた。それに気付いて、タンブルブルータスは期待にしっぽの先をちょっと動かした。

―――早く、元気になって。

傍にいても何も出来ない。けれど、知らないうちに彼女が苦しんでいるのは絶対に嫌だった。傍にいて、かたわれの苦しみを吸い取ることは、できないけれど…

―――それでもいい。そばにいて。

「カッサンドラ?」
「タンブル、どうかした?」
「今、カッサが何か言った」
「本当? 何を言ったのかわかる? してあげたら、彼女が楽になるようなことかな」
「うん。わかんない」

わからないといいながら、タンブルブルータスは寝床にこわごわ手を触れた。

「さぃ…」
「カッサンドラ、どうしたの。何か欲しいものがある? してほしいことが」

ヒューヒューと、木枯らしのような息を吐き出しながら、彼女は応えることができなかった。何かを見ようと眼球が動いて、汗に塗れた紅い顔に、涙が滲んでいった。

カッサンドラは、唇を小さく動かして謝った。ごめんなさい。

そばにいて。

―――頑張るよ。きっと元気になる。

呼吸するたび、喉にできた蓋が閉じる。
深く吸い込もうとすると蓋も大きくせり出して、力を込めれば込めるほど痛くて苦しい。胸の疲れが溜まって、背筋から頭がぼうっとする。でも眠ったら、きっと自分は息をするのをやめてしまう。

息をしようと決意した。いっぱい頑張ろうと思う。でも、もし、精一杯頑張っても、だめだったら。息ができなくなって、目が閉じなくなって。そのときは。……それでも、傍にいてほしい。

『ごめんなさい』

悲しませたとしても、傷つけたとしても、最後の瞬間に「あなた」が傍にいてくれなくては、「わたし」の魂は迷ってしまう。

そばにいて。
離れたくない。

「たんぶ、…ルぅ、たす…」
「ここにいるよ。カッサンドラ」






「ワインは唇より、恋は瞳より流れ込むもの
老いて死すまで、それだけが真実
ため息つく唇にグラスを傾け、瞳にあなたの姿を捉える」
「池の上の四羽のアヒル……おいしそうね。
かなたに草の堤
春の、青空
風に雲がたなびいていた
平凡な出来事でも、いくとせも胸から去らず、涙とともに思い返す」

 草地に青い縁取りのある、白い花が咲き乱れる。星型の花弁を冠の形に編みながら、少女たちはおぼえている限りの詩を暗誦していた。ところどころに、少女自身の感想が差し挟まれる。

「こんなのはどう?
昨日聞いたばかりの異国の定型詩よ。
古い池に、蛙が…」

円を描いて座っていた彼女たちの中心に、でっぷり肥えてつやつや濡れた、本物の蛙が投げ込まれる。
花弁のごとき唇から、つぎつぎ悲鳴が上がる。

すべての少女の瞳が、ギラギラ光を放つ。

「あたしが貰う!」
「捕まえたもの勝ちでしょうっ」

和やかな朗読会の午後は破れた。彼女たちは猫の本性をむき出して、たった一匹の獲物に我先にと飛びかかった。
喧騒の輪から、毛並みを乱した暗褐色の猫が抜け出し、叫んだ。

「タンブルブルータス!」

 呼ばれた少年は、蛙の分泌する粘液に、わずかに湿った手を下げて、花の中に立つ姉を見下ろした。

「何をするのよ。こんなことをして…」
「みんな、喜んでるじゃないか」

 ぐい、と顎で少女たちの輪を示してから、タンブルブルータスは真っ直ぐ姉猫を見下ろした。彼は丘の上に立ち、彼女たちは少しだけくぼんだ草地に座っていた。

「あなたも、仲間に入りたかったの?」

カッサンドラが苦笑する。彼はかっと頬を赤らめた。

「僕が、女の子たちの中に入れるわけないだろう」
「だったら、仕方がないわね。
私たちはここにいるから、あなたは、男の子たちと遊んできたら?」

カッサンドラは怒ったように頬をふくらませている。
ふっくらした顔から、病の影はすっかり消えうせていた。

「カッサンドラ、このごろどうしたんだよ。おかしいよ」
「タンブルブルータス」
「自分のこと、「私」なんて気取った言い方して、女の子と遊んでばかりじゃないか。喋り方だってヘンだ!!つまんない詩なんかより、もっと…」
「だって、私のしゃべりかたが全部タンブルブルータスに移っちゃうから。私が自分のこと「私」って言ったら、タンブルブルータスも真似して私って言うから、だから私は私のこと「僕」って言うしかなかったんだよ。女の子とばかりいると、タンブルブルータスが男の子に馬鹿にされちゃうし、だから、ずっと男の子と居たんだよ。でも、もう、いいかと思って。
もう、タンブルブルータスは大きくなったし、私とずっと一緒じゃなくてもいいでしょう。
それに、詩は素敵だよ。あなたには、わからないでしょうけど」

春の目覚めに、蛇は地中から湧き、蛙も池から揚がる。
池は日差しにぬかるみ、今、多くの獲物がそこに集まっている。すぐそこだ。
タンブルブルータスは、彼女だけをそこへ連れ出そうと目論んでいた。彼女は、未練そうにちらちら背後を振り返っている。女の子たちは、まだ蛙を追い掛け回していた。嬌声が遠くから響いてくる。
 たぶん、彼女は一緒に来てはくれないだろう。

「もういい」
「じゃあ、後でね、タンブルブルータス」

カッサンドラは振り返らなかった。
タンブルブルータスも、決して彼女を呼び止めなかった。





「遠い国には、知らない花が咲き、季節さえ逆転するんだよ」
「すごいわね」
「例えば、君が薔薇を一番好きな花だと、思っていたとする」
「ええ、薔薇は一番好きな花よ」
「でも、違うかもしれない。
世界には、君の見たことのない花が、知っている花の数十倍存在していて、そして、君が本当に好きな花は、いまだ君の見たことのない花かもしれない」
「一生、自分の本当に好きな花を、みつけることができないかもしれないのね」
「だから、旅をおすすめするよ。
見つけにいけばいい。そうすれば、きっと見つかるよ」

スキンブルシャンクスは微笑んだ。





離れた場所で、それぞれ彼の話を聞いていたカッサンドラとタンブルブルータスは、ふと目線を合わせて、微笑み合った。

「すごい話ね」
「俺たちの数十倍大きいっていう、蛇のことか? それなら、俺も食べてみたい」
「ああ、タンブルブルータスはそこが気に入ったんだ」
「カッサンドラは違ったか?」
「うん。でも、それも面白かったね」

歩み寄り、顔を見合わせる。
スキンブルの話に耳を傾ける、大勢の仲間を邪魔しないように、小声でこっそりやりとりした。

タンブルブルータスは、カッサンドラの小さな耳に唇を寄せる。気付くと、彼女に耳打ちするにはこんなに屈まなくてならなかった。彼女は、これほど小さかったのか。
病のせいだろうか。

タンブルブルータスは痛ましげに顔をゆがめた。けれど彼女の頬は、彼の鋭い相貌よりも、よほどふっくらと健康的に膨らんでいた。
もう、二匹を見間違えるものはいなかっただろう。

「私は、スキンブルが列車の窓から見たという、海の話が気に入ったの。
すごいわね。この町よりも大きい水溜りなんて。
もしできたら、私、海に船出してみたいと思ったんだ」
「……いいな」
「うそ!」

ころころ声を上げて、カッサンドラは笑った。すぐに無作法に気付いて、はっと唇を押さえて周りを見渡す。幸い、非難がましい目線はどこからも投げられなかった。

久しぶりに多くの猫が一箇所に集まった。
深夜の集会には、満月と星がつきものだった。ゴミ捨て場に点々と、挨拶を交わす猫たちの声が上がる。静寂を破らないような、沈めた声が闇夜に囁く。

みんな、それぞれの会話に夢中だ。それでも、遠巻きにスキンブルの顔を見つめる猫は多い。自分たちの話の輪に、彼も加わってくれないだろうかと、そっと窺う。彼は、人気者だった。

 タンブルブルータスは、闇夜の中に自分と同じ色をした猫を見つけたときから、彼女の傍へ来ようとそわそわしていた。

「嘘よ。タンブルブルータスは猫みしりだもん。せっかくできたお友達を置いて、新しい町になんか行きたくないでしょう」
「カッサンドラ」
「怒った? ごめんね。でも、タンブルブルータスはここにいるのがいいと思うよ」
「カッサンドラ…」
「ん? なあに?」

おずおずと、不思議そうにタンブルブルータスは尋ねた。

「どうして楽しくないのに、笑うんだ」

星が音を立てて光る。
流星だった。
猫たちも一瞬空を見上げる。いっせいに。

星に気をとられて、同じ速さで頬を滑り落ちた彼女の涙に、気付くものはなかった。彼女の前に立っていた、タンブルブルータス以外は。

「カッサンドラ、こっちへ」

彼女を胸に庇い、小さな手をとってそこから抜け出したタンブルの胸に、カッサンドラは顔をふせて赤い目を隠していた。





どうして私はここにいるの?

「どうかしたのか? 俺のせいか?」
「私、私は…」
「カッサンドラ。落ち着いていい。ちゃんと聞いているから」

 宥める彼の言い方が、カッサンドラの気に障った。

「どうしてタンブルブルータスは、この町に生まれちゃったの?!」
「……」
「なんで、私の弟なんかに生まれてきたの」
「そんなことを言われても」
「わかってる。私、へんなこと言ってるよね」
「変というか、とてつもなく理不尽だ…」

タンブルブルータスの、耳の内側が青い。いつのまにか、感じている事を顔に表すのが、彼はとても下手になっていた。その彼が、今すごい衝撃を受けているのを知っていたけれど、それ以上に傷ついているカッサンドラの口は、止まらなかった。

「私は海へ出たかった。スキンブルみたいに、旅をしてみたかった。遠い土地へ、何かを探しに行きたかったのに、あなたがここにいるから、私はどこにも出かける必要がないのよ。酷いわ!」
「な、…カッサンドラ」
「あなたがあんまり私の近くに産まれてしまったから、私はあなたが本当に私の一番好きな薔薇なのか、わからないじゃない。
本当に、あなたが私の一番なのか、気付けないの。酷いよ」

 タンブルブルータスは、禁忌を蹴り飛ばして彼女の細い身体を抱きしめた。同じねぐらに暮らしているのに、これほど近くで、彼女の香りを聞く。一体どれくらいぶりだろう。

「だから、俺から離れようとしたのか」
「ちがう。ちが…」
「小さいころ、俺たちはひとつだった。それを無理やり二つに裂かれて、とても苦しかった。でも、君の言ったことは本当だ。
 カッサンドラ、俺と離れて、わかったんだろう。俺たちはどこへ生まれようと、同じ運命を辿る。きっとだ」
「わからない!
あなたを探したことがないから、わからない」
「俺を探すと、決めたときから、もうカッサンドラは俺のものだ」
「わからない。ただ、子供のころ、あなたとひとつでいるのがとても苦しくなった。それだけ。私にわかるのは、本当にそれだけ」

 ひとつでいては、いけないと思った。
 道づれに死にたくなかった。生きていてほしかった。
 離れて、ふたつでいて、それでも惹きあうか知りたかった。

 そのために離れた。彼の手を放した。

「わからない。ここに生まれてはいけないのは、私だったかもしれない」
「カッサンドラが望むなら、地の果てまで旅をしよう」
「違う。ただ、彷徨いたいんじゃないのに…」

群から離れて、放浪したいわけじゃない。
ただ、見つけたい。

たとえどこに生まれようと、本当にみつけるのは、彼だということを。

「俺はここに生まれて心底よかった」

タンブルブルータスは戸惑いのない顔で、星空を仰いだ。そこにおわす何者かに、感謝を捧げるように、目を細める。

「会えないより、疑いながら傍にいるほうがいい。世界中ただ捜し求めて、一生をすれ違うより、同じ産床を分け合うことがどれだけ尊いか。俺は求めてここに生まれた。それが今ならわかる」
「どうして。私は探したかった」
「俺は、きっとカッサンドラを追って生まれた。だから、悲しまないでほしい。必要なら、本当に旅をしよう。そこで、俺以上のものがあるか、確かめればいいだろう」

そんなものがあるはずない。
それがわかっているから、慟哭するのだ。
なぜ世界は、こんなに小さく閉じているのか。ふたりきりがすべてだった。

「タンブルブルータス」
「約束する。きっとカッサンドラを、外の世界へ連れて行く。そこで、望みのものをみつければいい。俺はもう、見つけているから」

果たされない約束。
思いやりにみちた本気の嘘に、カッサンドラの瞳から、またひとつ流星が堕ちた。
 


『ふたり』
2007.03.24