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遠くに海鳴りが聞こえる。
気のせいだった。この町には海がない。だからこれは、ただの耳鳴りだった。
けれど彼女は、その音に耳を澄ませた。まるで、身体のなかに海がたゆとうているようだった。
彼女は、海を見たことがなかった。
海ってどんなものかしら。
ボンバルリーナは、このごろよくそれを想像する。
膝の上で、満足そうにごろごろ喉を鳴らしているディミータを撫でて、彼女の頭を抱え込む。覆いかぶさって、二匹で丸くなる。重いのか、彼女はぷしゅーと空気の漏れる音をたてた。ボンバルリーナの頬を、彼女の耳が、何度もぱたぱた叩いて不満を申し述べた。
「あぁ、ごめんなさい。貴女があんまり気持よさそうだったから」
ディミータは、無口だ。ボンバルリーナが身体を起こすと、彼女はしばらく怒ったように黙っていたけれど、また喉を鳴らしはじめた。ころころころころ、猫が喉を鳴らす音だけが響く。
ディミータが持つ、黒のまじってなお明るい毛色を、ゆっくり撫でながら、ボンバルリーナは空を見上げた。
ディミータの毛並みは、野生猫と同じ手触りがした。
乾いて、ぱさついた、強い毛並み。
彼女が鋭く威嚇を吐き出すと、細身の雌猫は恐れて身をすくませる。怒れるディミータと、一匹の雌猫が対峙する。
タントミールは、艶やかな毛並みを持っていた。
タントミールの身体にぴたりと寄り添い流れる、短い毛並みは、ビロードのように輝く。おそらく、その手触りはうっとりするほどしなやかだろう。ディミータは、彼女の名乗りを聞こうともしない。チョコレート色のタントミールは、際まで追い詰められていた。
ディミータが一歩彼女に近づく。そうすると、宝石と同価値に美しいタントミールも、圧されて引き下がる。
ディミータは、ぎらぎら目を光らせていた。絶えず威嚇を、喉から発する。ゆったりと優雅に、もう一歩彼女へ足を踏み出した。
タントミールの後ろ足が、屋根を踏み外した。彼女は、悲鳴を上げながら落ちていった。
ディミータがひょいと軒下を見下ろすと、もう彼女は居なかった。ほっそりした見かけどおりに、逃げ足は速いらしかった。俊敏と言い換えてもいい。
「酷いことするのね」
悠々と、ボンバルリーナは日向ぼっこ中だった。寝そべったまま、ディミータに非難を投げかける。下を覗き込むディミータの背中は、神経質に尖って固い。彼女は、嫌悪の表情を崩さないまま振り返った。
ディミータは、ボンバルリーナへ言い訳することもなく、その隣に近づくと音をたてて座った。
目を閉じたボンバルリーナは、脳裏に思い描いていた。微笑みながら歩み寄り、今、ディミータに追い払われたタントミールの青い瞳は、くっきりと印象に残っている。生きた宝石。そう呼ぶにふさわしい、美しい雌猫だった。彼女の全身から、贅沢な気配が香る。
なぜか、彼女のことがディミータは大嫌いだった。
「子どもなんかには、貴方はすごく親切なのにね」
「……」
あいかわらず、彼女は答えなかった。
ボンバルリーナは、無口な彼女の腰に抱きつき、汗をかいた身体を彼女の作り出す日陰に隠した。
その日も海鳴りに耳を傾けていた。
起き上がるのもおっくうで、投げ出されたまま自堕落に路へ転がる。まるでごみのように。
「ああ、貴女…」
起き上がるのが面倒だとは言え、親しい友への挨拶はかかせなかった。
「こんばんは、ディミータ」
ディミータは、無言のまま近づき、横たわる雌猫の傷口を舐めてくれた。
血の流れる音と痛みが共鳴し、耳の裏に耳鳴りが絶えない。海鳴りは止まない。
「大丈夫よ」
遠慮しても、彼女は斟酌なく手当てを進める。
テリトリーのはずれの、巨大な倉庫の前には、長く道が走っていた。朝になればそこに多くのトラックが身を寄せる。今は猫しかいない。
月さえ傾く深夜に、人間やカラスに出会う事はない。けれど、犬はまだ起きているはずだ。
外敵に、たやすく見つけられるかもしれない場所だった。
それでも起き上がって地に立つ気力を削いでいくのは、かすかに赤を滲ませる傷口ではなく、先ほどまで散々味合わされていた快感だった。
なにもかもがどうでもいい。
「ありがとう、もう大丈夫よ」
とてもじゃないけれど、身を守る気になれない。
ここで眠りたい。
道の真ん中で、腹と手足を投げ出して。
なにが来ようとかまわない。
朝日を全身に浴びて、暖かい道路に耳をつける。大きなタイヤを軋ませて、近づく鉄の轟音を、身体で感じたい。そこで初めて立ち上がり、ヘッドライトを、睨み返したい。
「マキャヴィティ…」
口の端から、自然に零れた。
「マキャヴィティ?」
「ええそう。マキャヴィティ」
「マキャヴィティ」
「マキャヴィティ…ああ、あのひと」
ディミータの腕を掴み、ボンバルリーナはのっそりと身体を起こした。
「とても素敵なひとよ。何もかもを持っているの」
「マキャヴィティ」
「そう。もう一度呼んで」
「マキャヴィティ。マキャヴィティ。マキャヴィティ」
鳴くのになれていないディミータの喉が、不器用にひとつの名前を紡ぐ。何度も繰り返した。
「マキャヴィティ。マキャヴィティ…」
ディミータの金色の目に、自分の影が映りこんでいるのを見ながら、雌猫は押さえきれずに大笑いした。
その間も、ディミータの声は止むことがなかった。
その日から、ディミータにとっても、「マキャヴィティ」は特別な名前になった。
全き月の輝く日に、猫たちは集う。ディミータの瞳のような金色だった。
ゴミ捨て場の、それでなくても狭い隙間を、すれ違おうとしてシャム猫が追い払われた。ボンバルリーナは雌同士の喧嘩を、冷めた目で見送った。
ふたりきりになったところで、我侭な暴君に訊ねる。
「あなた、彼女が怖いんでしょう」
ディミータは、目をむいてボンバルリーナを見つめ返す。
「ニンゲンの匂いがするし、彼女がほかのみんなと形がちがうから、怖くてしかたがないんでしょう」
「違う」
毛並みを膨らませてディミータは否定した。
ボンバルリーナは、にぃっと口許を吊り上げた。
「自分だって飼われ猫のくせに、他のニンゲンの匂いは怖いのね」
「違うってば! どうしてそんなこと言うのよ?!」
ディミータは、ボンバルリーナだけに見せる無防備な目をして、もっと何か反論しようと口許をもごもご動かしている。
ボンバルリーナは、彼女が可愛くてしかたがなかった。
「なんで笑うの? 違うって言っているでしょう」
「はいはい、そうね。じゃあ、なんで彼女を?」
「嫌いなんだもの…」
ふいと膨らませた顔を背けると、ディミータの目の色が一瞬で変わった。曲がり角に猫の影をみつけて、ディミータはいつもの表情を作る。彼女が、他の猫たちすべてに見せる仮面のごとき無表情を、ボンバルリーナはため息と共に見上げる。
「なぜ、あなたはそんなに私を信頼するのかしら」
その言葉を聞いて、ディミータはボンバルリーナを見下ろす。不思議そうに、目が若干見開かれていた。
「私なんて、あなたが大嫌いなタイプの雌だと思うんだけど」
ボンバルリーナはため息交じりにつぶやく。
「どうして貴女は、私が好きなの?」
ディミータは、やはり答えなかった。
星が輝きを増している。
闇がいっそう濃くなったのは、もうすぐ月が沈むからだった。
あと少しで、永遠に還らない猫が選ばれる。
だから、猫たちは相手を決めてそれぞれ別れを惜しんでいた。
ボンバルリーナの傍にいるのは、口が上手くて頭の切れる、背の高い雄猫だった。悪くない。妹分のディミータは、いつもどおりの相手といつもどおりに無口に向き合っているはずだ。
ふと顔を上げると、いつも一緒に馬鹿をする男友達が、神妙な顔で子どもの相手をしていた。
まだ、子どもと呼んだほうがいい、小さな少女。
同情と共に意地悪く目配せすると、彼は黙って彼女を見つめ返した。
真摯な瞳に射抜かれて、ボンバルリーナは思わず絶句した。
「どうしたの?」
「いいえ、なんでも…ない」
今日の相手に、優しく尋ねられても答える術はなかった。
友の瞳はあまりにも暗く、そこには少しの気まずさもなかった。
まさか本気だとでもいうのだろうか。
まさか。
ボンバルリーナは、作り笑いを浮かべる事もできずに内心で否定した。
彼は、自分と同じ種類の生き物のはずだった。
自分と、彼と、そしてあのひと。
誰かを大切に思うなんてありえない。
「力を抜いて。大丈夫だよ」
「ああ、私、そんなに緊張していた?」
宥めるように、優しい相手の痩せた手が、彼女を支える。今傍にいるのは彼だった。
友達は、もう彼女のことなど振り返らずに目の前の少女だけを見つめている。真摯に。ひたむきに。
「いいや。ただ、びっくりしていたみたいだね」
「そうね。ちょっと意外なものを見たわ」
ボンバルリーナは、首をすくめる。そうすると、華奢な肩がいっそう小さく見えた。その場かぎりの彼女の相手は、他に気を取られた彼女を鷹揚に許した。問い詰める無作法は犯さない。
見渡すと、猫たちはそれぞれ本当に大切な相手と、別れを惜しんでいるように見えた。互いを見つめあい、あるいは、月をそれぞれ見上げる彼らは、暗闇に身を寄せ合っていた。
ボンバルリーナは、共に歩んでいた雄猫から、ふいに離れた。
彼は、諦めたような悲しげな余韻だけを残して、鮮やかに身を翻した。その顔は、楽しかったよと言っているようにも、また今度、と誘いかけているようにも見える。本当に悪くない相手だった。
そして、彼にも、本当に大切な相手が他にいる。それは幸福なことだった。
傷もないのに、耳鳴りが止まない。
波の音を聞きながら、大海のなかを、本当に求めるものを求めて彼女は彷徨った。
なりたかった自分の姿の、代用品ではなく、自分以外に本当に愛するもの。
探すために、優しい相手から軌道を外したのだった。
同じ月の下でディミータが、丸い透明な目を開いて無心に相手を見つめている。
迷わず足を進めた。
自分の、本当に求めているひと。
それは誰だろう。
『純真』