遠くで雲が光った。だいぶ遅れて、雷鳴が届く。それよりも先に、雷の突き刺さった大地が震えた。全身むずむずする。
「あの空は盗れないもんね…」

ランペルティーザは残念に思って呟いた。ミストフェリーズが羨ましい。あの輝きを手にできたら、どんなにいいか。
そうだ。街一番の魔術師。小さな可愛い黒猫。今度は彼をさらってみようか。

マンゴがいれば、二匹が揃えば、どんな事もできる気がする。あの空にだけある稲妻を手に入れることだって、夢ではないかもしれない。雷にかき乱された大気のせいなのか、ひげの先がちりちりして、思わずランペルティーザは微笑んでしまう。

薄紫の空に、また斜めに稲妻が走る。雷雲はもう少しでどしゃぶりの雨をつれてくるだろう。でも、まだ雨の匂いは遠い。銀色に光る雨の檻に街中が囚われてしまうまで、もう少しだけ、猶予がある。
得物を抱えたマンゴジェリーがあわてたそぶりで振り返った。

「ああ、いいな。マジックで黒焦げにされないよう、注意が必要だけど。
なあ、そろそろ、行こうか」

薄ら笑いとは裏腹に、マンゴジェリーのこめかみは神経質そうに痙攣した。
たぶん、頭痛をこらえているのだろう。気楽そうな表情からは想像しがたいけれど、マンゴは気圧の変化やささいなことで、すぐに頭痛を起こす。どうして熱もないのに身体が痛くなるのだろう。彼の、鋭すぎる感覚のせいだろうか?

窓から空を見上げていたランペルティーザの足元には、立てかけられたまな板や、飴色をした皮をつけたままのたまねぎが転がっている。知らない家の台所は、何かが隠されていそうな気配がして、なんとなくわくわくさせられる。

「本当にそれ盗るの?」

マンゴジェリーが両手に掴んで離さないのは、異国風に味付けされた鳥の手羽先、二本だった。スパイスの匂いが鼻を刺す。

「これがくせになるんだって」
「こしょうの利いた肉をあたしが盗んだとき、あんた嫌がったよね?」
「こしょうだけはかんべん。くしゃみが出る」
「とうがらしとカレー粉はいいの?」
「うまいからな」

マンゴは匂いに敏感なくせに、舌がぶっ壊れている。ランペルティーザはしかたなく、相棒の荷物を半分持ってやる。仲良く一本ずつ、鶏肉を背負う。触れた手がぴりぴりしそうなほど、刺激的な獲物 だ。

多くの猫は香辛料のきつい味を好まない。
けれど、マンゴは一度でそれを気に入った。

マンゴは何か他の猫と違うところがある。他のおとなが何十回も繰り返しランペルティーザに聞かせた言葉だが、ランペルティーザもこのごろ、それを感じとれるようになった。

ランペルティーザは香辛料のついた指先で、ちょっとマンゴのひげをつまんだ。マンゴは鼻をむずむずうごめかして、ひとつ大きなくしゃみをする。それを聞き届けてから、ランペルティーザは窓を身体で押し開けた。まだ降っていない雨の匂いが、湿気とともに明るい台所へなだれ込んでくる。

「あれ? なんか頭が少し、軽くなったかも?」

マンゴが首をかしげている。

「でしょう。空気を抜いてあげたの」
「さすが俺のランペルティーザ。頼りになる」
「誰があんたのよ。あんたがあたしの相棒なの」
「どっちだって同じじゃん」
「大違い!」

ランペルティーザが開けた回転式の窓を、前かがみになってマンゴジェリーが潜り抜けた。水の匂いがますます近づいている。もう時間はない。ランペルティーザは、彼の後を追いかけた。背後からは、窓が閉まる音だけが追いかけてきた。もう、二匹がいた証拠はどこにもない。

「降ってきた!」
「どうする? 雨宿りする?」
「濡れんのはやだ。ねぐらに帰る前に、どこかへ入ろう」

そう言いあう間にも、ランペルティーザの額を大きな雨粒が叩いた。
マンゴのまぶたに跳ね返った雫は、彼の睫に留まって彼にしかめつらをさせた。頭をふるってそれを払いながらも、巧みにマンゴは自動車をすり抜ける。大通りを進むマンゴに、ランペルティーザも遅れなかった。

彼らの行く手にあるのは、シャッターの下りた軒先だった。しかし二匹が飛び込もうとした場所には、灰色の猫が立ちすくんでいた。ざあ、と耳元で音がする。グリザベラの毛並みはまるで生まれた時から雨に晒されていたように、あわれな様だった。
彼女は、強い雨に閉じ込められているように見えた。

立ち止まったマンゴの背中を、さらに雨粒が叩く。肩から色が変わり始めて、水を吸った赤色は濃い。

「行こう」

ここはやっぱりだめだ、とはわざわざ言わない。ただ、マンゴジェリーはもと来た道を、一息に駆けもどる。ランペルティーザは、少しだけ迷った。ひきさかれたコートの内側から、か弱く、傷ついた細い腕が、自分に向かって伸ばされいるのではないか。

グリザベラは、その場から少しも動いていなかった。ただ、なんとも言えない濁った瞳がじっと自分を見つめていた。

自分と、マンゴジェリーとを。

ランペルティーザは彼女を見つめかえすことはできなかった。飛び上がってそこから逃げ出していた。ねぐらに着くまで、盗んだばかりの獲物を水溜りに落としたことにも、気付かなかった。



ランペルティーザは温かいねぐらの中で、鶏肉へかぶりついた。けっきょく成果は、マンゴジェリーの持ってきた一本だけだ。しかし、充分だったかもしれない。

鶏肉にかぶりついたランペルティーザの口は、黄色いスパイスがまぶされたよう。眉が勝手に上下する。辛いといったらなかった。何より、その強烈な匂い。臭いというよりは、痛い。それを指差して、マンゴジェリーが笑う。

「おまえだって、前はこれが好きだったじゃん」
「確かに…」

きついこしょうや、とうがらしの赤を、昔はランペルティーザも平気で食べつけていた。そうだ。それで、マンカストラップにびっくりされていたっけ。
なんのことはない。ランペルティーザも、マンゴのことはとやかく言えないんだった。でも。

「今は辛いのもしょっぱいのもそんなに好きじゃない。なんていうか、そんなのなくても鳥の足はおいしいし」

昔は、自分が何を食べているのかわからなかった。
どんなにきつい香辛料をなめても、舌を刺す刺激を感じ取れるくらいで、味なんてしなかった。辛いとも痛いとも感じ取れないけれど、すべての食物が「咀嚼する作業」に過ぎないなかで、香辛料にだけほんのわずか、違和感を感じることができたから、ランペルティーザは飽きずにニンゲンの食べ物をほしがった。

なぜかこのごろ、ほんの少しの量を口に含んだだけでとても強く匂いと味が感じられる。草を噛めばほろ苦さと青臭さが鼻腔を満たすし、少しでも濁った水は埃の味がする。肉のかけらでも噛み締めれば、それだけで幸せな気分を味わえる。こしょうは今でもすきだ。少しなら、おいしい。
おいしいという感覚を、初めてのようにランペルティーザは味わっている。それも、マンゴと一緒に暮らすようになってからのことだ。

「そうかー? ただの肉なんてつまらんけど」
「前はあたしたち、双子みたいにそっくりだったけど、ここだけは違っちゃったね」
「お前みたいなチビと俺が双子?」

マンゴジェリーは鶏肉のかけらを噴出して、それから腹をかかえて笑いはじめた。ランペルティーザは彼のひげを両側ともつまんで、くしゃみをする寸前の彼の間抜け顔をながーく堪能してやった。

「ねえ、マンゴ」
「んだよ?」

さかんに鶏肉にかじりつきながら、目線も上げないマンゴが答える。ランペルティーザは、もうそれに口をつけようという気も失せていた。

「あのひと、いまごろどうしてるかな」
「グリザベラのことか?」
「そう。あたし名前を言わないのに、よくわかったね」
「わかるさ。あいつのことを、みんなが気にしてる。他猫のことなんかちっともかまわない冷たいやつだって、あの女のことだけは気にしてる」
「そう! そうなんだよね」

マンゴジェリーが、自分と同じことを感じている。それだけで、胸のざわめきが鎮められるようだ。ランペルティーザは、あらためて自分の心と向き合おうと、膝をつけて座りなおした。

「なぜだかはわからないけど、あのひとは特別な感じがする」

生まれてはじめて、誰かに手を差し伸べるのを躊躇した。くやしいけど、自分が心からしたいことを自分自身で制してしまった。彼女に触れることができなかった。
むしょうに、彼女が恐ろしかった。その恐怖に負けた。

マンゴジェリーは食事をすませて、背中をむけたままけづくろいをはじめている。肩甲骨の間はえぐれたようで、丸めた背骨の形が手に取るようにわかる。ため息と同時に、それがたわんだ。

「あいつは、俺らのなかの一番見たくないものを刺激するんだよ。だから、どんなに冷酷なやつも、あいつにだけはこだわる」
「そう、わかる。わかる気がするよ。でも、それってグリザベラが悪いんじゃない」

ランペルティーザはいきおい込んで頷く。彼女の名前がするりと口をついた。

その名を呼ぶのが、もう恐くなかった。
何が恐かったのか、わかったからだ。彼女が悪いのではない。自分の、心の問題なのだから。

もし今度彼女と出会ったら、ランペルティーザはきっと彼女の瞳を見つめ返すことができる。

「ああ、そうか」

痩せた背中を頼もしく見つめながら、ランペルティーザは微笑んだ。

「そうなんだ。なあんだ。そうか。すっきりした!
ねえ、雨があがるのが楽しみだね。あたし、計画があんの」
「計画? なんの」

振り返ったマンゴジェリーの額には、スパイスの黄色がくっついていた。

「ミストのことよ」

ランペルティーザは、わくわくしすぎてはちきれそうな自分を持て余していた。



心配事はひとつもない。
マンゴがいれば、何でもできる。
マンカストラップを捕まえて、みんなのリーダーを自分たちだけのものにしてしまった晩はとても愉快だった。今度は、町一番の魔術師を出し抜くことだって、二人が揃えばきっとできる。

嵐が過ぎ去った翌日。
草の裏にはまだ水滴がたまっていた。木陰や塀のそばの、陽のあたらない地面は水を含んでしっとりしている。しかし、それも暑いくらいの陽気に、ほどなく気化していくだろう。

気持ちよく乾いた石の上に座って、黒い仔猫が忙しそうに指の間を舐めていた。
黒猫の胸元には、燕尾服からのぞくシャツのように真っ白いひとふさが飾りを添えている。左足も靴下を履いたように白い。
石の上は平坦ではないし、座りにくそうだが、黒猫は優雅に毛並みを整えていた。漆黒の背中はどちらかといえば痩せていて小さいが、毛並みは朝露に濡れたような艶を放っている。

マンゴジェリーは柄の取れた虫取り網をかかげ、トランペルティーザは大きな麻袋をかまえて、じりじりと黒猫との距離を詰めていく。風向きもいい。二匹には黒猫の静かな呼吸音さえ聞きとれるが、黒猫からは泥棒たちの足音を聞き分けられないだろう。

マンゴジェリーが地面を蹴った。黒猫の頭上から破れかけた網が迫る。仰のいた黒猫が目を見開く。月みたいな丸い金色。

虫取り網ががつんと地面を削る。丸い網の中に黒猫はいなかった。

逃げようと飛びすさる黒い影に、今度はランペルティーザが襲い掛かる。麻布はほおりだして、少年の細い腰に両手で抱きつく。確かに捕まえたと思った。腕には、黒い毛並みの、濡れたように滑らかな感触があった。

それなのに、ランペルティーザは鼻先から地面に体当たりしていた。両手の中は空だ。

「なんでぇ?」
「逃がしたか?」
「しっ!」

二匹はすぐさま跳ね起き体勢を整え、敵の来襲に備えた。
不気味な静けさが続く。雲ひとつない青空から吹き降ろす、冷たい風が、マンゴジェリーの鼻先をくすぐる。思わずマンゴは小さなくしゃみを漏らした。その瞬間、何もないところからマンゴの額をかすめて地面へ雷が突き刺さった。

こげ一つないマンゴの腹の白い毛並みが、静電気で一直線に割れる。左右になでつけられた白い毛並みの隙間には、彼の荒れた地肌が細く露出している。マンゴは胸元で両腕を交差させ、「いや〜ん、へ・ん・た・い!」と、彼の痩せた平たいつまらない胸を隠した。

「くっそぉー敵はどうやらあたし達をからかっているようね」
「からかわれてるのはどう見ても僕のほうだよ」

マンゴジェリーの媚態に当てられたように、げっそりと黒猫が呟く。ミストフェリーズは、二匹のすぐ後に立っていた。いつの間に風下を取られたのか。

「ちっくしょー! 覚えてろよ!」
「次に会ったらただじゃおかないから!!」
「はいはい、しばらく会わないことを願うよ」
「ばかめ! 今夜中にはこの顔を見せてやる」
「今夜の集会を覚えてなさいよ〜」
「ああ、マンカストラップからの呼び出しね。了解。わざわざありがとう。
また今夜、ジャンクヤードで」



夜になっても、太陽のなごりがただよっている。星は水のなかにあるようにゆらゆらとまたたいている。月さえいつものようではなく、輪郭はあいまいにぼやけていた。

それでも、猫たちを熱狂させる夜の音楽はとまらない。むしろ、いつもより隔てのある月へ届けといわんばかりに、輪舞は激しさを増していく。

めったに汗をかかない猫であっても、回転するごとに自分の汗がきらきら飛び散るのを見る夜だった。ミストフェリーズはなおさら、黒いつむじ風さながらに踊っている。ひかえめな彼が、最初からあんなに激しく踊るのはめずらしい。おかげで、彼が猫たちの中心になってしまい、ランペルティーザもマンゴジェリーも彼に手を出せない。

「ミスト、こっちを見もしないね」
「だけど、警戒してる」
「そう? じゃあいいか」
「腕がなるなぁ」
「ほんと。難しいほど仕事ってやりがいがあるんだから」

ランペルティーザは、マンゴジェリーと額をつきあわせてささやきあった。

ダンスのステップでふたりの距離が離れても、気持はぴたりと寄り添っていた。同じ目標にむかって突き進んでいたからだ。それも月へ届こうと、激しく踊りながら。息も乱れず、足もますます軽くなる。

悪巧みしながら、マンゴと踊るのは楽しかった。他の誰と踊るよりも、本当に月まで飛び上がれそうな気がする。

急に音楽が止まった。
月が暗くなる。

猫たちの輪が乱れて、その先にグリザベラがいた。

「ああ…」

こんなに早く会えるとは思わなかった。
グリザベラは、めったに集会にはやってこない。だから、子どもはほとんど彼女と会ったことがないはずだ。仔猫は、いつもと違う空気を感じてきょとんとしている。
ランペルティーザは、今すぐ彼女に駆け寄りたくて足踏みした。

他の猫と踊っていたマンゴジェリーの顔を盗み見ると、彼はらしくなくこわばっている。緊張しているのだろうか。真面目そうな顔がおかしくて、ランペルティーザはまたふきだしそうになった。

含み笑いしながら、ランペルティーザは駆け出した。グリザベラへ向かって。

目の前に、痩せた背中が飛び出す。

ランペルティーザはマンゴジェリーに先を越されたと思った。あたしが先に、彼女に触れたかったのに。彼はランペルティーザとグリザベラの間に立ちふさがると、グリザベラへむけて鋭い爪を叩きつけた。

顔をかばった腕に傷が走る。

傷つけられた彼女へ駆け寄ろうとして、ランペルティーザはマンゴに制された。
誰かを傷つけた爪をしまおうとせず、彼は歯をむき出し、ひどく醜い顔で彼女を罵った。こんな顔は見たことがない。

彼に、こんな表情ができるとは知らなかった。
こんなに誰かを蔑むことができるひとだとは知らなかった。

マンゴはグリザベラが立ち去るまで、けして退かなかった。ランペルティーザは、ひきさかれた傷をかばう彼女の背中が、よろよろと小さくなっていくのを見送るしかなかった。表情を作ることもできず、涙もこぼれなかった。

自分が何かとてつもない思い違いをしていたことに気付いて、体中が凍り付いてしまった。



『君はそこにいる』
2010.10.11