小雨の降り注ぐ地面はぬかるんでいて、乱暴に歩けば泥の飛沫で毛並みが汚れそうだった。だから、僕はなるべく高い場所を選んで移動していた。猫たちはみんな、そうだろう。

「こっちへおいで。ここを通ればいい」

猫は身体を濡らすのを嫌う。それ以上に、汚れることには我慢ならない。まるでぼろ雑巾でバイクの油を拭いたような猫だと、ニンゲンたちには評される僕だが、泥に濡れるのは勘弁願いたい。
ディミータは、屋根の上から僕のいるレンガの塀を見下ろした。あくまでも僕ではなく、彼女の通れそうな足場を、値踏みする目つきで鋭く見渡した。

濡れて色の変わったレンガの塀は、当然そう厚くない。猫がすれ違えるほどの広さはなかった。僕は彼女の返事を聞く前に、水を含んで光る地面へと飛び降りた。

歩くだけでも難儀そうなぬかるみに、やわらかく着地する。毛並みは汚れひとつなく、みごとに乾いたままだ。僕はそれに満足を覚えながら、隣の屋根にいた猫を、見上げようと振り返った。目前に影がさす。
すぐ側に何かが落ちてきて、冷たい泥が体中に跳ね飛ぶ。不意打ちに、口の中まで泥の味がする。

すっかり汚れてしまった毛並みは、彼女も同じことだった。
僕が歩いていたレンガの塀より、ずっと高い場所から飛び落りてきたディミータは、全身にかぶった泥を振り落とそうと、ぶるりと身体を揺らした。

細かい雫がぴしぴしと僕の顔に当たる。僕は二度も泥を浴びせかけられた。

「なんで……」

呆然としながら、僕はなんでと聞いた。泥を跳ねかけられたのに、僕の毛並みの模様が複雑に入り組んでいるせいで、泥と毛並みとの区別もつかないだろう。彼女はいつものとおり、答えなかった。ただ、冷たい瞳は自分の行きたい方向だけを見据えていて、僕を一顧だにしなかった。



雨は数日降りこめていた。
晴れ間を待ちかねていたので、僕は小雨をおして街をさまよった。この数日、ろくろく自分のテリトリーを見回っていない。狩りもしたい。今なら、町の中心にある公園に行ったら、雨に誘い出されたカエルがのしのし歩いているかもしれない。

数日ぶりに腹を満たせると、期待に膨らんだ気持ちは、彼女に叩き潰された。毛並みの奥にまで入り込んでしまった汚れを、爪や舌で削り落としながら、僕は泣き言を並べた。

「どうして、彼女はあんなふうなんだ!」
「おちつけよ、カーバケッティ」

雨雲は風にすっかり吹き飛ばされてしまったようで、数日ぶりに空が高い。気持よく晴れた公園で、旧友とばったり会ったのはついさっきのことだった。

ランパスキャットは、僕の背中の乾いた泥を叩いて落としながら、面白そうににやにやしている。手伝ってもらいながら何なのだが、彼の毛並みは黒は漆黒、白い部分は雪をざむくほどあくまで白く、憎らしいほど汚れていない。

「僕はしごく落ち着いている。ただ、腹を立ててるんだ」
「お前らしくないだろう。女には優しくするのがお前の身上じゃないか」
「そうされるにふさわしい女性だけだ」

ランパスキャットは無言のまま、顎で上を見るように合図する。
振り仰いでみると、葉陰の奥に鋭く光る一対の金の瞳があった。

「よお、ディミータ」

どうやって登ったのか、また、いつからそこにいたのか。彼女は山桃の常緑の葉に紛れるようにして、枝に腹ばいにまたがっていた。
昼寝の邪魔をされたというように細い目をしばたいた彼女は、つまらなそうに鼻を鳴らした。彼女は細い枝の上で器用に立ち上がり、がさごそと葉っぱの奥に隠れてしまった。葉擦れが収まると、盛大なあくびの声だけが降ってくる。

「睨むなよ」

ランパスはまだにやついている。

「睨んでなんていない。僕は、ちっとも気にしてないんだぜ本当」
「背中、膨らんでるぞ」

ぶわっと、背中側の毛並みが膨らむのを僕はまた感じた。



泥はなすりつけたように張り付いてしまっていて、どうしても全部を落しきれなかった。僕はやけになって、ランパスの静止も聞かず公園の噴水に飛び込んだ。数日のすきっ腹を抱えた体で、そんな無茶をしたのがよくなかったのかもしれない。

太陽があるうちはよかったが、雨上がりの短い陽だまりが夕闇に溶け込む頃になると、僕の全身に鳥肌が立ちはじめた。頬はやけに熱く、背筋はぞくぞくと落ち着かない。

「こんなことなら、ランパスを追い返すんじゃなかったな」

頭がぐらぐらするし、寒気と一緒にひっきりなしに吐き気がこみあげる。
自分のねぐらに帰るのもままならない。目の前には、飾りレンガで覆われた塀がそびえたっている。朝はひとっとびで越せたが、今は月と同じほどに高く見える。

ふいに、背後に何かの気配を感じた。
振り向きざまに鋭く威嚇すると、彼女は睫も動かさずに、そんな僕を見つめかえした。

「なんだ、君か」

体から力がぬける。腰が抜けて座り込んでしまいそうになるのを、必死に腿に力をこめて押しとどめながら、僕は微笑んでみせた。

「ねぐらへ帰るんだね。お先にどうぞ」

本当は、道をゆずるまでもなく自力では飛び越せない高い塀だが、ディミータにだけはそんなそぶりを見せるわけにいかない。彼女のために道をあけてやると、彼女は当然という顔で僕の鼻先をとおりすぎる、と思われた。

金色の瞳が目の前いっぱいに広がっている。飲み込まれてしまいそうだった。
彼女がひくひくと鼻をうごかすと、彼女の細い髭がちくちく僕の口許を刺した。

「あんた、鼻水くさい」

口付けてしまえそうな距離で、彼女は大真面目な顔をしている。

「風邪をひいたでしょう」

甲高い声は細いくせによく通って、彼女の見た目どおりに神経質そうだった。彼女の声をこんなにはっきり聞いたのははじめてだ。彼女は、ヒマラヤの山頂に住む山猫みたいに、僕たちの言葉をしゃべれないのだと僕は思ってた。

「失礼じゃないか…っ」
「さっきから、ずっとここに立ってた。ここを登れないの?」
「君には…関係ない」
「大丈夫?」

僕はほとんど逆上した。

「でしゃばりだな! 僕のことは放っておいてくれないか」
「いいけど…」

彼女はあざやかに身を翻した。ただつったっていただけに見えたのに、彼女は助走もつけないで、僕がどうしても上がれない塀の上から僕を見下ろしていた。

じっと、彼女の金色の瞳が僕を見つめる。
それは瞬きの間のことで、彼女のすんなり伸びたしっぽはレンガの塀の向こうにするりと消えた。




レンガの塀と、ゴミ箱に挟まれて僕は身を縮めていた。
せめて水が飲めれば……そう思うけれど、今だけは歩くのがおっくうだ。もう少し時間が経てば、眩暈はおさまるはずだ。身体が痛いときは、じっとしていればいい。それ以外に方法はない。

そうして、自分の身体が痛みと戦って、勝つのをただ待つしかない。

できたらもっと、誰の目にもつかない場所に行きたかったが、ディミータと別れた僕はもう骨が抜けたようになっていて、はいずってゴミ箱の陰に移動するので精一杯だった。

わき腹をつけていたゴミ箱が揺れる。
犬かニンゲンがそうしたのなら、どうあっても立ち上がって逃げなければならない。僕は気力をふりしぼって目を開き、低く威嚇を吐き出した。

そこにいたのは、僕と同じ種類の生き物だった。
あざやかな朱色と黒が交じり合う、薄汚れた野良猫。濡れた毛並みはところどころ固まって、束になっている。表情の読めない金色の瞳が、僕をじっと見つめている。どうして戻ってきたんだ、ディミータ。

彼女は、ぶるりと身体をふるわせた。全身ずぶぬれの彼女がそうすると、水がつぶてとなって僕の顔を打った。僕は口の周りを舌で拭う。きれいな水の甘い味がした。

僕の毛並みの上にも、透明な雫が玉となって留まっている。

彼女は、僕の鼻に自分の鼻を密着させて、親密な猫同士の挨拶をした。彼女と出会ってから初めてのことだった。彼女の顔を夢中で舐めると、僕の熱っぽく腫れた口の中を、おそらく汲んできたばかりの水が潤した。僕が貪るのをやめるまで、彼女はだまってそこにいてくれた。そして夜の冷たい空気の中を、雫をしたたらせながら去っていった。雨雲ひとかけらも見当たらない、満天の星空のもと、彼女の立っていた場所には出来立ての水溜りだけが残された。
彼女の去った方向へ一列になって続く足跡も、空で一番大きな月光を宿していて、彼女の一足ごとに月が降りてきたようだった。

僕が彼女を特別に思うようになったとして、それは当然のことだろう?



『泥の中からでも』
2010.04.02