それはなにも特別な日ではなかった。夜明け。遠くから投げかけられるひとすじの光が目の中に飛び込んでくる。
闇の中、暗い緑色に光っていた彼の目が、光の入った部分だけ温かい青に変わる。

「へえ…」

「どうかしたか」
マンカストラップは不思議そうにマンゴジェリーを振り返る。

「別に。なんでもない」

マンゴジェリーは首を振って否定する。ただ、それだけで済ませることもできたが…。

「ただ、あんたの目がとてもきれいだと思ってさ」
「はぁ…? それはありがとう」
「青い目っていうのは、少ないだろ。普通は昼間は黄色い。子猫は青かったり緑だったりするけど」
「ああ、まあな」
「珍しい物はいいな。じっと見てると」

マンゴジェリーは軽く膝を曲げる。それから一息吸い込んで、用心深く、口を開いた。

「盗ってやりたくなる」

ジャンプして怒ったマンカスの手の下から逃がれる。マンゴジェリーは舌を出して、塀の向こう側へ飛び降りる。マンカスがマンゴの後を追ってそこへ昇ったときには、彼の足跡さえ見当たらなかった。

「あの、バカ」
マンカストラップは苦々しく吐き捨てる。
「俺に話があったんじゃないのか」



最初の明るさは夜の闇との対比にすぎなかった。空にはすでに曇天の兆しが表れている。
マンゴジェリーは雲の向こうから淡く投げかけられる明るささえ避けて、ビルとビルとの折り重なった日陰の中を選んで歩いていた。頭と同様、いつもは軽い足取りが、今は引きずるようだ。それが自身にもわかる。
真っ黒いタイヤがわがもの顔で側ぎりぎりを走っていく。それに追いたてられながら、マンゴジェリーは薄汚れた道端をとぼとぼと歩く。アスファルトには薄い影がぼんやり伸びて、本体と同じように緩慢に動いている。その隣にランぺルティーザのちいさい影は寄り添っていない。

「あいつ、どこ行ったんだろう」

もう一週間も会ってない。あの甲高い声で憎まれ口を聞いてない。
マンカストラップも彼女の変わった様子に気づいていないようだった。彼が他の猫の心に鈍感なのはいつものことだからこれはまあ判断材料にはならない。しかしいくつもあるねぐらのどれにマンゴジェリーが行っても、彼女の姿を見つけられなかった。小さな虎猫のランぺルティーザは、どこへ行ってしまったのか。

「はぁ…」

思わず嘆息してしまう。
病気なら頼ってくれるはずだ。怪我なんて、あのすばしこいやつがするわけない。
誰かに捕まるわけがない。彼女を捕まえることは自分にもできはしない。

現に今、こうして彼女に逃げられている。

「マンカストラップを笑えないなあ」

いきなり曲がってきた車を避け、ゴミ箱の間に飛び込む。



今回は惜しかったらしい。ぎりぎりまで気配を消し、SWATの突入もかくやと踏み込んだねぐらの中を、さむざむしい風がふきぬけていく。マンゴジェリーの背後で、色あせて赤茶けたカーテンがまだすこし揺れている。彼はその窓をくぐって侵入した。窓から吹き込んだ風をうけて、猫一匹が通れるほど細く開いていた廊下に続くドアが閉まった。

だれがこの扉を開けたのか。
猫がぶら下がれば軽く回るドアノブに飛びついて、マンゴジェリーが再び扉を開くと、埃の上に綺麗に猫の足型がスタンプされていた。足型は廊下を駆け抜け、破れたガラスの前で消えていた。マンゴジェリーがブービートラップに細心の注意を払いながら急いで屋根に出ると、黄色い虎縞の後ろ姿が一瞬だけ目の端をかすめ、雑踏のなかへ消えた。朝の通勤ラッシュが始まったらしい。

「なんのゲームだ、これ」

聞こうにも本猫がつかまらない。

「おれ、こういうのあんまり好きじゃないんだけど」

何かを求めさせられるというゲーム。
もっともマンゴジェリーが嫌悪するもの。所有すること。また、所有欲。
自分に会いに来いと、誰かに願い誰かを変えること。それは支配の始まりじゃないだろうか。それなのに、なんで自分はあの子猫は自分といるのが当然だとこんなに思い込んでいるんだか。これじゃあ、まるで……
朝日を浴びて正反対に色を変える青い瞳。
好きなところと嫌いなところと、両極端なあの猫。今でも大嫌いなのかもしれない、その銀色の縞を持つ立派なしっぽに、鼻先をしっぺ返しされたような気がした。

頭が混乱する。ひどく混乱する。
何もかもが斜めになって見える。
路地にはごみだけでなく、小さなコインが落ちていた。鈍い輝きをゆがんだ視線で見分けて、それを骨ばった手に握りこむ。

ひどく暴力的な気分になって世界すべてにやつあたりをしたい気分だった。ほとんどこれを誰かに投げつけたいくらいだ。

こういうのは、少年のころに卒業できたと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
いままでたまたまそう思わせる状況にならなかっただけで…自分は状況次第で、いつでもあの頃のように自分本位になれる。まだ自分ひとりだけがここにいて、世界が全部、自分の前に立ちはだかるカキワリのような薄っぺらいものに見える。だからどれほど自分勝手な行動もできる。支配できる。そこには自分しかいないから。……本当にアホだ。現実を見ろ我ながら。

――カラスさんごめんなさい。おれのぶんどり品に手を出さない限り、あなたたちにコインを投げたりしません。

うすっぺらい小額のコインを投げ出し、マンゴジェリーはうんうん頷く。「命」って大事よな…とひとりで。
だから、自分もぞんぶんに命を使うことにした。
美人な女友達のねぐらへ逃げ込んで、優しくいたぶられ、苛められて満足するまでそこにいようと思う。

いいかげんさは自分の常であると、マンゴジェリーは考えている。



いくつの夜明けを迎えただろう。
その日は、マンゴは草はらに寝ころんでいた。

涼しいというよりは冷たい風が、猫のひげの先をくすぐって吹き抜けていく。毛並みがさわさわとそよぐのが心地いい。月がときどき、雲の間から顔を出す。それを楽しみに待ちながら、眠ったように瞳を閉じていた。

夜風の中に心地よい、懐かしい匂いを捉えたが、マンゴジェリーは眠ったように微動だにしなかった。それに安心したのか、温かな匂いはさく、さく、と草を踏み分けて徐々に近づいてくる。あともうほんのすこしで、手が届く。

一歩。二歩。あとすこし。
細い手首をマンゴジェリーは捉えた。彼の顔を懐かしそうにのぞきこもうとした、彼女と目が合う。

「やっと捕まえた。俺の勝ち」
「なによ! ずうっと捕まえられなかったくせに!」
「どんなに試合が長引いても、最後に勝ったやつが真の勝者だ。んで、お前何してたの?」
「放しなさいよぉっ!」

ランぺルティーザは小さな身体で精一杯もがきながら、爪を仕舞った手でマンゴジェリーを叩く。その手に叩かれて痛そうに顔をゆがめると、ランぺルティーザはその抵抗すら封じられた。

彼女がおとなしくなるまで待つ。
マンゴジェリーは捕まえている以外は何もしなかった。ただ、思い切り表情筋を働かせて内心を表現してやった。悲しい。

「逃げたかったわけじゃないんだよ。ただ、あたしの頭にもわかるようにいろいろ考えなきゃいけないことがあったから、ひとりになりたかっただけで…」
「そうか。それで、決着はついた?」
「ううん。まだわかんない」
「そうか。俺の聞きたいことはだいたい二つ。いい?」
「どうぞ」

マンゴジェリーは少女を解放してやる。
一時でも誰かを捕まえておくなんて、猫に対する最大の侮辱だ。まるで誰かさんみたいだ。
やっていながら、自分に嫌気がさして心臓を吐きそうだった。

「一つは、なんで決着がつかないのに俺のところに来たのかってこと。お前が逃げてることから推察するけど、お前が考えてることって俺に関係のあることだから俺に会いたくなかったんだろ。二つめは、どうやら俺にかかわりありそうなその問題ってなに」
「一つめは、あんたがあたしなしにドジを踏んでないか心配だったから。だって、あたしを探してるときにあんた食べてた?あたしが食べようとするとあんたがくるから、あたしは殆ど食べられなかった」
「なるほど、ここ数日俺がお前の邪魔をしないから、おれがぶっ倒れてるとでも思ってたのか。おれは食べてたし、寝てたよ。大丈夫。で、本題なんだけど、なんでおれから逃げてたの」
「そ、それは、さっきの質問とちがう」
「要はそういう質問だよ。さあ、答えて」

じいっとマンゴジェリーは彼女を見つめた。
今度は表情筋をこわばらせて、心の抜けた無表情で。別に特別な技巧はいらなかった。心の求めるままの顔を作れたという、それだけのことだった。

ランぺルティーザのカッパーオレンジの瞳は、闇の中にあっては他の猫とほとんど同じに見えた。いつもまんまるく見開いて、好奇心いっぱいな彼女の目は、今はきょときょとと落ち着きなく動いている。この期におよんで、まだマンゴジェリーから逃げていた。

はじめて、マンゴジェリーはあの銀の縞猫の心を理解した。
これは……どうしても捕まえたくもなる。捕まえて地面に引きずり落としたらさぞ面白いに違いない。まあ、自分はあんな野蛮人と違うのでそんなことはしないが。

彼に喰わされた土の味を苦く反芻しながら、マンゴジェリーはランぺルティーザの額に口を寄せて、彼女の夜風に乱れた毛並みを整えてやった。土のかわりに、彼女の毛並みに顔を埋める。捕えるのではなく、温かくしっぽで背中をなでる。
もう一度、オレンジの瞳を覗き込むと、今度は彼女はまっすぐ見つめ返してきた。いつもの勇ましいランぺルティーザだ。彼女の唇が意を決したように開かれる。

「あのさ、怒らないで聞いてほしいんだけどさ」
「はい?」
「なんでマンゴは、自分の悪いところがグリザベラにもあるからって、彼女をいじめるわけ?せめてほっといたらいいんじゃない?」
「は、自分の、わるいところ…」
「そう。でもグリザベラのせいじゃないでしょ。マンゴがずるいのも、姑息なのも」
「あのね、あの、俺は別に……」

そこでマンゴジェリーは思い出した。
そういえばそんなことを、言われなかったか。彼女がこの数日にわたる壮大なかくれんぼをおっぱじめる前に。

「そう、それは確かにお前の、言うとおりかもしれない」
「じゃ、するべきことは自分のずるさを受け入れるか、消すことじゃない。なんであのかわいそうなひとに肩代わりをさせるの」
「いや、それでも俺はあのおばさんをお前に近づけないよ」
「なんでよ。マンカストラップじゃあるまいし。あたしは自分のことくらい自分で決める!!」

その言葉だけはマンゴジェリーの胸に刺さった。『マンカストラップじゃあるまいし。』

「だって、あいつは危ないんだもの。マキャヴィティとおんなじ。
 だれでもいいんだ。そういうのは、一番あぶない。実際的に危険なんだよ」
言葉だけでは足りない。マンゴジェリーは、ランぺルティーザの瞳の奥に語りかけるつもりで、瞬きもせずその中を覗き込んだ。彼女の感情が揺れるにつれ、月も出ていないのに瞳の光が形を変える。

「お前は、俺がマキャヴィティに近づくなといえば、そうしてくれたな?」
「それは、そりゃあいきなり暴力ふるうような紳士じゃないやつとは仲良くできないからで」
「それはグリザベラも同じだ。彼女の暴力は予想できない。彼女の理由はほかのものにはわからないから」
「あんなかよわいひとに叩かれたって、あたしは逃げられるし、ぜんぜん平気なのに」

ランぺルティーザはマンゴの言葉をわかろうとしない。マンゴジェリーにも、ランプの考えていることが割り切れない。
でもグリザベラは選んで心を傷つける。そういう相手に、誰が近しいひとを親しくさせたいだろうか。
ランぺルティーザは、相棒が自分と同じ考えを持っていないことが不満で、いっそのこと怒った顔をしている。対するマンゴジェリーは、心底困っていて泣きたいくらいだ。

「あ、あ」

マンゴジェリーは嘆息する。
彼女が誰に親しもうと、マンゴジェリーの出る幕ではない。本当は、彼女はグリザベラに近づく権利がある。そうして、あの女の自己表現のついでに思い切り踏みつけにされて傷つけられる機会を得るチャンスが彼女にはある。

しかし、それだけはマンゴはさせたくない。
そのためなら、彼女のことを騙すこともやぶさかではない。ずるい、姑息…つまりは卑怯だと、ランぺルティーザは自分に言った。いいと思う。それは本当のことだった。
自分は自分のやり方で、彼女をコントロールしようとしている。

相手の心を無視して、自分の望みに従わせようとする。それがあたかも相手のためだと自分にいいきかせて。欺瞞だが、しかたがない。彼女が傷つくさまを見たくない。マンカストラップもすべての時、こんな気持ちなのだろう。
何かを守ろうとすると、どうしても彼に近づいてしまう。

忌々しい事だが、仕方ない。あんがい、彼女と出会ったのはあの世界と敵対しているつもりだった少年時代の、復讐だったりするのかもしれない。そういえば、彼女はマンカストラップが育てたも同然なわけで、そうなるともうあいつの策略さえ疑ってしまう……。

それでも、彼女を手放す気はさらさらなかった。
だいたい、そういう策略を考えるのは性格の悪いやつだけなわけで、それは自分のような、運命のようなものだろう。

「お前とは親友だけど、これだけはおれはゆずれない」
「あたしだって…」
「おれ、邪魔するから」
「あたし、あのひとを傷つけたくないのよ」
「だったら、おとなしくしてろ。お前が近づけば、俺だけじゃなくて誰かがグリザベラを退ける」
「そんなの…」
「それと、もう追いかけっこはなしな。
 やっぱり、お前といたほうがいい仕事ができるもん」
「それだけは、あたしも賛成する」

今はそれだけでもいい。いつかは彼女もわかってくれるだろう。
あの朴念仁のような手荒な手段はとるつもりがない。自分は、もっと巧妙にいくつもりだった。

ランぺルティーザは、マンゴのしっぽをしっぽで叩き落としておとなしくさせると、今度は新しい計画について話し始めた。それが彼女なりの仲直りだった。

「いいね」

相槌を打ちながら、マンゴジェリーは目を細める。
月が雲間から顔を出したところだった。

オレンジの瞳のなかに光がとびこんで、「いまはこれだけでいい」そう思ってるのが、自分だけではないことを知ったけれど、口には出さなかった。そうしてようやく、日常が月の光と共にふたりに戻った。



『普通の日』
2011.04.01