その日も、僕は彼女と踊るつもりでいた。
初めて僕が彼女と踊って、もう月が満ち欠けを一巡していただろうか。相変わらず天気ははっきりしないし、時々びっくりするほど肌寒い。そんな日が続く中、その晩も水を含んだような空気が雨の近いことを伝えていた。夜空には雲が垂れ込め、新月の輝きはもとより細く頼りないが、雨雲を吹き飛ばす勢いで猫たちは歌っていた。

僕もやけくそぎみで声を張り上げていた。
今日、ディミータがガ踊りの相手に選んだのは僕ではなく、黄色い毛並みをした名前も知らない猫だった。どこかで顔は見たことがあるが、言葉を交わしたこともない。けれど、きちんと見てみれば背は高いし格好も悪くない。どうして今まで彼を無視していられたのか、不思議なくらいだ。

けれど、ディミータが彼の手をとったのは彼が思いのほか立派な体格をしていたからとか、踊りがうまかったからとか、そういう真っ当な理由からではない。踊りの輪を恨みがましく見つめるグリザベラへ見せ付けるように、彼女は手近にいた雄の手を引っ掴んだ。そこにたまたま、彼がいたというだけのことだ。

どこかで雷鳴が轟く。
かなり遠くだが、無粋な音色に興をそがれる。僕も、歌をやめてその音に耳を済ませた。
次々に猫たちが散っていくのに、ディミータは黄色い猫を振り回してまだ踊っている。
わかっている。グリザベラが物陰に潜んで、まだ彼女を見ていたからだ。

壊れたものがうず高く積み重なるゴミ捨て場には、隠れられる場所が多い。グリザベラは今日の夕方捨てられたばかりの首が折れた扇風機に手をついて、それがぐらぐら揺れたのであわててそこから身を退いた。

見られていることに気付いていただろうに、ディミータはグリザベラを一瞥もしなかった。

「ディミータ」

聞こえないふりをする彼女へ、もう一度声をかける。彼女の名前を叫んだ。

「彼が呼んでいるよ」
「なに?」

パートナーが足を止めたので、ディミータもようやく動きを止めた。

「もう、帰ろう。みんなも帰ってしまった」

彼女の顔に、神経質のさざなみが走る。
それを見かねたように、黄色い猫も口を添えてくれた。

「彼の言うとおりだ。僕も、もう帰らなくちゃ」
「勝手にすればいい。私は雷を見るまでここにいる」

彼女のすることに口出しをすれば、もっとも彼女の怒りを買う。そんなことはわかっていたが、それでも言わずにいられなかった。

「ディミータ。さっきから無理をしすぎだ。少しも休まず踊り続けで」

足元にぽつりと水滴が落ちた。
それを追いかけるように、次々と雨が地面で弾ける。彼女の毛並みにも当たり、粉々に砕けた。

「本当に。彼の言うとおり、君は無茶をしすぎだ。ごらん、グリザベラがこっちを見て笑っているよ」

黄色い猫の言葉に、電流を流し込まれたようにディミータの毛並みが逆立った。

「ディミータ!」

彼女はグリザベラの潜む暗がりへ飛び込んだ。
グリザベラはあわてて身を翻し、不器用な身体を壊れて捨てられた扇風機に思いきりぶち当てた。

あやうい均衡を保っていたものが、壊れた部分を下にして崩れ落ちる。グリザベラはもうそこにはいなかったが、彼女に飛びかかろうとしたディミータがその餌食になった。

「動くな! どかすから、それまで動かないで!!」

もし、破片が食い込んでいたら、無理やり身体を引き抜こうとすればもっと深手を負う。黄色い猫を手伝わせて、何とかその鉄の塊を浮かせる。ディミータは這うようにしてそこから抜け出した。

彼女が脱出したのを確認して、その重い塊を投げ出す。男ふたりで支えた重さが、それでなくても折れそうに細い彼女の身体にのしかかったのかと思うと、ぞっとする。

「あぁ、血が…」

震えながら立ち上がったディミータの腿を、雨水にぬかるんだ泥と血が汚していた。彼女の背後から腰を押さえ、傷口に顔を埋めようとすると、眼も眩む痛みが腕を裂いた。

「なんで…っ」

一瞬の後には、彼女の骨ばった体は手の届かない場所へ逃げていた。
遠くから、敵を見る目つきでディミータが威嚇を吐き出している。その顔からは感情というものが消えていた。ただ、明確な攻撃性だけが現れていた。

金色のふたつぶの目が、ぎらぎらとこちらを睨みつけている。

「ディミータ!」

傷ついた足を引きずり、それでも彼女は飛び上がった。触れられるのを拒み、そうしてゴミの山の向こう側へ消えた。僕の腕には彼女につけられた傷と、ひりつく痛みだけが残された。

「なんで、僕のことを助けてくれたくせに、なんで…!」

僕に、君を助けさせてくれなんいんだ。

雷鳴は着実に近づき、打ち捨てられたゴミをけざやかに夜に浮かび上がらせる。星がやさしくそうするようにではなく、醜いものは醜いとはっきりあからさまにして雷光が過ぎ去っていく。

彼女が戻ってくるかもしれないという一縷の希望を持ち、僕は嵐に耐えて廃車のトランクへ潜んだが、青空が広がり朝日が目を射るまで待っても猫いっぴき通ることはなかった。

水滴が、太陽を移して丸く輝き、トランクスポイラに溜まって落ちる。水滴の行方を見守ることに飽きるまで、僕はそこを動けなかった。

夜明け後間もない道は、あちこちに水溜りが口をひらいて手足を濡らす。こんなに最悪な状況だというのに、それに止めをさすのが無遠慮に通り過ぎる車たちだった。
水を撥ねかけられそうになって、あわてて塀の上へ登る。僕は、すこしだけ町を見回した。





公園の中にある池は、いつも実入りの良い狩場だ。
冬でさえそうなのだから、今の時期は黙っていても油断した獲物がやってくる。

今、狙っているのは大きな亀だった。水の中に行かれては手がだせないが、その獲物は陸に上がり、日光に甲羅を乾かしていた。

陽射しはうららかで、雲が薄く空にたなびいている。東の空に雲に紛れて白くぽっかり浮かんでいるのは、薄っぺらい半月だった。今は猫の毛並みをざわざわさせる輝きもなく、ただ公園に生えている木々より少し高い場所にひっかかっている。

月に尾を向けて、カーバは草陰に身を伏せていた。

亀なんて動きは鈍いし、捕まえるのは簡単だ。けれど。

――あいつを捕まえる勢いで波打ち際に毛並みをふれさせたくない。

もうちょっと水際から離れてくれないだろうか。

そう思って待っていて、どれほどの時間がたっただろう。
風が吹いて、カーバの隠れている草や、池のまわりを囲んでいる大木の枝を渡る。いっせいに葉を鳴らし、風は通り過ぎていった。

気の長い猫もいいかげん焦れてくるころ、亀がゆっくり動き出した。前のひれがもがくように地面を掻き、甲羅がゆっくりと回転する。
亀は水の中に戻ろうとしていた。

あわてて草むらからジャンプし、襲い掛かる。
固い甲羅を捉えたと思ったとたん、それはつるりとすべって宙に舞い上がった。

「しまっ…」

思わず前脚で叩き落すと、そこはちょうど水の上だった。バチャンと盛大な水しぶきをあげて、亀が水底へ沈む。飛び掛った瞬間に仕舞われた手足がにょきっと甲羅の四方から出てきて、もぞもぞと池の中心へ消えていった。

「…ぷっ!うふふっ!」

甲高い笑い声が、頭上から響いた。
鈴を転がすような、心底楽しそうな声だった。

「ディミータ?」

いつからそこにいたのだろうか。笑われたことなんて、どうでもいい。
ぶなの木の上に、葉っぱの影に金色の大きな目が光っている。彼女は張り出した枝に腹ばいになって、水面とカーバを見下ろしていた。

「今までどこにいたんだ、ディミータ!」

細かった新月が六回も沈み、東の空に白い七日月が昇るまで、いったいどこで何をしていたのか。彼女は何も答えなかった。

ただ、高慢な顔をして足元の雄猫を見下ろしてから、ふと姿勢を買えて逞しい枝の中に完全に身を隠してしまった。カーバにふきつける風は、爽やかな新緑の匂いだけを運ぶ。そこに泥も血もまじっていない、さわやかな香りだった。

「僕に、姿を見せてくれたのか?」

彼女ではなく、風に揺らされる梢が代わりに返事をする。

「僕に、無事を知らせてくれたのか」

ざわざわと葉が鳴る。

カーバの濡らされた毛並みを、さわやかな風がなでていく。濡れた肌を愛撫されたようで、カーバの背筋が粟立った。ぶなの節くれた幹に触れると、そこは陽に暖められ、温かく、そして固かった。

額を押し付けるようにして、そこへ擦り寄った。

助けさせてはくれなくても、こうして生きていることを知らせてくれたのなら、自分はここにこうしていていい気がした。



『寒くない?』
2011.08.17