「寒くない?」
「暑くない?」

「空腹じゃないか?」
「水がほしくない?」

「あの花、欲しいならとってあげる」
彼女が、立ち止まってその花をじっと見つめていたから。

「ああ、こちらに手を。水溜りがあるから、危ないよ」

君の綺麗な毛並みが汚れる、と言いかけたカーバケッティの鼻っ面を引っ掻いて、足音荒く彼女は去って行った。

後には、呆然として、しなしな座り込んだカーバケッティだけが残された。

「ひ、ひどい」

たらりと一筋の血が、唇まで垂れてくる。ヒリヒリしょっぱい。
でも、ひっかかれたことなんてそんなに大したことじゃない。彼女が全力を振るえば、こんなかすり傷ではすまなかったはずだ。(もちろん、そうなったら僕もきちんと避けていた。)

一番カーバの心を傷つけたのは、彼女が全身を膨らませてカーバを威嚇したことだった。まるで台所の隅に追い詰められたねずみがそうするみたいに、化け物を見るような目で見られたことだ。

「僕は、ただ、ディミータの役に立ちたいだけなのに」

騎士が姫に仕えるみたいに、尊敬する女性に奉仕したいだけなのに。
何がいけないんだろう。




「俺だったら、今まで俺を嫌いだったやつが急になれなれしくしてきたら、変な気分になる。それで前よりそいつのこと嫌いになる」

ギルバートははっきりした性格なので、言葉を飾ったりしないがそれは決して彼の美徳ではない。

「僕は、彼女を嫌ってなんかいなかった」

カーバケッティの言葉はなぜかどんどん小さくなっていく。ギルバートは不思議そうにカーバを見ていた。彼の背後には、背の高い葦がそよそよ風になびいている。葦に縁取られた池は、曇天を移して灰色の地に白い光を反射している。
今日も曇っているので、ふたりの上には雲がどんより立ち込めていた。

ギルバートのねぐらに近い公園は、猫たちの溜まり場でもある。ギルバートがどこを寝床にしているのかは知らないが、公園はあいかわらず草木が茂って隠れられる死角が多くて、居心地がいい。池のまわりにはいろいろな生き物が出没するので、狩りにも都合がいい。
ギルバートはゆっくりと自分の毛並みを撫で、カーバを見上げた。彼は食事を終えた後らしく、満ち足りた様子だった。

「そうか? 側にくると顔がひきつってたし、話してるとき声が違ってたぞ」
「そんな!……そんなだったっけ?」

カーバの胸にいまさら後悔の波が押し寄せる。こんなことになるなんて、あのときは思わなかったから。

さあっと風がふいて、また葦が揺れる。

「ああ。本当に。カーバは他の雌に話してるときは舌が絡まったみたいな話しかたするだろう。でも、ディミータにだけは喉の奥で押しつぶしてるみたいな……ああ、ヒキガエルの声に似てた」
「失敬だな! 僕は舌がからまってないし、ヒキガエルみたいな声は出せないよ! いくら友人でも侮辱するなら、受けて立つぞ」
「わりぃ。でも、昔からカーバはディミータと話すときはちょっと様子がおかしかったよな。なんで?」
「なんでって…」
「俺は、お前はディミータが嫌いなんだと思ってた」
「嫌いになる理由はないよ。彼女とはろくに話したこともなかった」

ただ、彼女の鋭い視線が苦手だった。
誰かに親切にしているとき、お礼を言われているとき、彼女の眼差しがこちらを値踏みするように見ているのを感じて、まるで見透かされているように感じていた。

「彼女を、少し苦手だったことは本当だ。だけど、どうして彼女を嫌う理由がある? 彼女が誰かに嘘をついたこともなければ、何かを貪るところを見たこともない。彼女は、禁欲的なひとだ」
「弱いものいじめはしてたけどな」
「ギルバート、もしそれがタントミールのことを言ってるなら、君はあまりに彼女たちのことを知らなさ過ぎる。タントミールはやられてばかりの弱いひとじゃない。彼女はれっきとした大人の女性で、ディミータと対等に付き合ってる」
「……分かってる。俺が口を挟むことじゃないってことは」

今度はギルバートのほうが痛いところを突かれたらしく、もぞもそしっぽをゆらしていた。ディミータは、弱いものにはとても優しい。彼女が自分より弱いものへ牙を向けるとしたら、それはグリザベラくらいなものだ。




どうやって声をかけたらいいのかわからない。

月の明るい夜に、いつものように踊り出した猫たちの輪を透かして、白くて潔癖症じみた彼女の顔を覗き見る。彼女は次々と誰かの手をとりながら、喧嘩するみたいに踊っている。
こんな日は、グリザベラも顔を出す。だから彼女は、いつもよりずっとぴりぴりして、いらいらして、神経質に視線を走らせていた。

勇気を出して僕も、一歩踏み出した。

猫たちの輪の中へ。彼女の視界に入っているのを確認しながら、正面から彼女に近づく。驚かせたくない。

「こんばんは」

彼女は目を動かさず、鼻の横だけを、ひくひくっと痙攣させる。明瞭な威嚇の顔。

「これ以上、近づかないよ」

僕の言葉を受け取った彼女は、ふと顔をしかめた。けれどそれは、さっきまでの威嚇の顔とは違って、なんというか、もっと彼女らしい表情だった。

「ぶしつけに君のまわりをうろうろして、悪かったね。僕は、お礼を言いたかったんだ。僕が動けないでいるとき、君が水を汲んできてくれたから」

ギルバートは、なぜ僕が突然、ディミータに興味を示すようになったのか面白がって、不思議がっていた。彼女は淑女には程遠い。確かに、僕は彼女のことがずっと苦手だった。

僕が彼女を気にしはじめた理由は、とても単純なことだ。僕が身動きできずにいたとき、彼女が、全身をずぶ濡れにして水を運んでくれたから。

僕はまだ若い。彼女がいなくてもきっと生き残れたと思う。けれど、全身が発熱して動けないのに、体中がひりひりするほど水がほしかったとき、彼女が与えてくれた水がどれほど気持よく身体を潤したことか。どれほどありがたかったことか。

「あの時、僕はとても嬉しかったから何か、君にお返しをしたかった。だけど、それでとても失礼なことをしてしまったね。謝る」

彼女の体から、ふと力が抜けたように見えた。しかめられていた顔も、いつもの無表情に戻っている。ここだとばかりに、僕はまくし立てた。

「もう、つきまとわないよ。だけど、もし何かあったとき、僕のことを思い出してほしい。僕にできることなら、どんなことでも力になるから、本当に」

彼女は何も言わない。けれど、何も言わない彼女の金色の瞳がまっすぐ僕を見つめていた。まばたきもせず、あまりに真っ直ぐ見つめてくるので、身がすくむ。彼女のこういうところが、とても苦手だった。昔は。

「じゃっ、じゃあ、僕はこれで!!」

彼女の前から離れる時、自意識過剰でなければ、背中に彼女の視線を感じていた。

「よう」

ランパスがにやにやしてこっちを見ている。ギルバートはひとのことには無関心なので何を言ってもどうってことはないのだが、このおせっかいな友達はそうはいかない。

「何も聞かないでくれないか」
「そんなら、こんなひとめのあるところで見せ付けるなよ」
「しかたがないじゃないか。彼女は、僕とふたりきりには絶対なってくれないんだから」

恥を忍んで告白する。
せっかくうまく自分の気持を伝えられた気がするのに、これ以上ランパスに何かを言われてるのを聞かれたらまた彼女は心を閉ざしてしまう。ランパスも悪いやつではないのだが、彼は本当に女心にはうとい。僕の心中も知らず、ランパスはまた口を開いた。

「そんなこともないみたいだけどな」

意味深な言葉だ。ランパスにどういうことだと聞き返す前に、誰かの気配を背後に感じた。
白い顔にふたつぶの、金色の大きな瞳。目が合うと思わず息を呑んでしまう。

「ディミータ…」

いつのまにそこにいたのか。いつから話を聞いていたのか。首を捻って彼女を振り返っている僕に、彼女は目線で踊りの輪を指した。

「あ、あの、それって」

猫たちが声を上げて歌い、踊る中へ、彼女はまっすぐ歩き出す。
問いただすより先に、彼女の後を追いかけていた。勘違いかもしれない。でも、彼女が踊りに誘ってくれたような気がしたから。

手を伸ばす。
彼女は僕の手を取った。握りこむと、驚くほど痩せた手触り。
鎖骨の浮き出して見える薄い身体が、息遣いも感じられるほど近くにある。そこからはもう音楽に飲み込まれて、何も考えられなくなってしまった。

「はぁぁぁぁー……」

何度思い出しても、幸福感が胸を温かくする。
彼女と初めて踊って、それで……もう、僕は何度も彼女と踊った。
彼女は、猫たちが集まる夜に踊るパートナーを僕に定めてくれることが多くなったから。

思わず笑いが込み上げそうになる。
僕は、彼女のお気に入りの猫になれたのかもしれない。