今しか見えない。
雨の気配が濃い。わずらわしいほど明るい太陽が地平に近づく夕方になると、水の匂いがあたりに立ち込めた。手で触れそうな空気の重さ。もがくように、ランパスキャットは飛び跳ねた。
無様に背中から倒れこんだが、手には、それでも獲物が握りしめられていた。
嫌も応もない。
どくどくと脈打つ肉にすぐさま牙をたて、あふれ出るものをすする。舌に喉に感じる快さ。腹を満たすという以上に、強い快楽を味わう。一欠けらも残さない。地面に落ちた褐色さえ舐め取る。地面にはいつくばり、舌を使うことに戸惑いはない。そのときは。
今だけがすべてだ。
ランパスキャットの頬を誰かが叩いた。青い目を上げると、どす黒い空から次々と生ぬるい雨が落ちてきた。
ごうごうと鳴り響く豪雨の中を、ジェミマは駆けていた。ほんの一瞬の油断が、とりかえしのつかない失態となる。全身を叩きつける雨にそれを実感させられながら、わき目も振らずにかけ続けていたのに、なぜか目の端に動くものを見つけて立ち止まってしまった。
「おいで」
ジェミマは答えられなかった。
もし雨で濡れていなければ、全身の毛が逆立っていただろう。背筋をかけぬけた戦慄は、決して雨の冷たさのせいではなかった。
気安く自分に声をかけた「早くしろ。それとも泳ぐのが好きなのか」彼のことを、決して許していないとどうやったら一番ひどく伝えられるだろう。その方法ばかりを考える口は、どうやっても動かなかった。どうして叩きつけたらいいのだろう。
さっきから、かかとから背筋に向かってぞくぞくと寒気が走る。ランパスキャットの青い瞳を睨みつけるたびにだ。雨は生ぬるさを通り越して、もう熱いくらいだった。
「逃げるのか」
ひくりと、口元が痙攣するのが自分でもわかった。
屈辱ゆえにか。いや、違っただろう。
これからの事を考えてどうなる。
ジェミマはなげやりにランパスの隣に腰を降ろした。彼などいないというように、雨を避けられるその場所を占領した。雫の垂れる身体を気にすることなく、むしろ彼などいないというように、
つくりつけの消火器の影に隠れて雨をやり過ごしていたランパスキャットは、おかげで半身を濡らした。
結果を予想して、猫は動かない。
今だけがすべてだ。
明日を憂えてなんになる。
「あの雨の匂いに気づかなかったのか。やっぱりお前は自分が思ってるよりどん臭いな」
「気付いていたけど、もうちょっとで仕留められそうだったから」
なんでもないという口調で彼と話す自分を、ジェミマは半ば驚きの気持ちで見ていた。口先とは逆に正直な心臓は、さっきから踊っている。
「ふうん。まあ、そっちはどうやら成功したんだな」
「なんでわかるの。においは雨で流れたと思うけど」
「餓えてるやつは見ればわかる。目つきがいつものそいつと違って物欲しそうになる」
「…へえ?」
「なんだよその疑ってるの丸出しな目は。俺は嘘は言わない。
……お前、あんがい頭がいいな。そうだよ。目つきじゃない。声の出し方と歩き方が変わる。腹をかばう感じになる。だからすぐわかる」
ジェミマは内心で舌を巻く。
自分はそんなふうに誰かを観察したことはなかった。彼には他の猫のことがよくわかるのだろうか。だとしたら、今、隣にいる子どもが必死で逃げ出したい気持ちと戦っていることもとっくにお見通しなのではないか。ジェミマは顔をゆがめないようにすることで必死だった。不自然なくらい無表情になっていることに気付いているけれど、どうしようもない。
向こう見ずで、気ばっかり強い自分に嫌気がさす。決して強くはないくせに。
認めたくなかったが、自身は偽れない。ジェミマは、怖れている。自分より遥かに強い固体の側にいることを、今すぐしっぽを巻いてねぐらに逃げ出したいくらいに怖がっている。怖い。隣にいる猫がとても怖い。
傷の癒えた手が、震えださないよう握り締める。頭は心臓の鼓動と一緒にさっきからガンガン痛み続けている。
暴力の記憶は薄らがない。側に元凶がいればなおさらだ。次の瞬間に、彼が牙を剥かないと誰かが保障してくれても、ジェミマの身体がそれを認められない。
「どうかしたのか」
「何が」
「顔がこんなになってんぞ」
ランパスキャットは盛大に顔をゆがめて見せた。輪郭の細い顔。手足も、そんなに太くはない。それなのに、力の差は明らかだった。
本当は自分が怖がっていることくらい、とっくにお見通しなんだろう。これはもう疑惑ではなく、ジェミマの中で決定していることだった。
「なんだよ。そんなに嫌うことはないだろ」
「なんだよ、って。自分のしたこと覚えてる? 言わせてもらえば、側にいるのも苦痛なんですけど」
冗談めかして本当の心を吐露する。そうすると、少しだけ恐怖が消える。それが錯覚だと意識するそばから、身体が強張る。しまった。意地をはってこんなに近くに座るのじゃなかった。触れていれば、筋肉の緊張は隠しようがない。触れた肌から、震えを読み取られていたのだろう。
次の瞬間に、命がある保障はない。
「お前は正直すぎる」
ランパスは、老練さえ感じる苦笑を浮かべていた。嘲笑がそこに見えなくても、蛇に睨まれたカエルのように、ジェミマは震えた。今更身体を離せないから、その動揺さえ彼に直に伝わっただろう。
「お前はまっすぐすぎる。さっき逃げるのかと俺が聞いたとき、そう言えばお前は絶対に逃げられないし、ここに座るとわかってた」
「あんたのように長く生きていたら、私のすることなんか見え見えだってこと」
「まあ、そうだけど。
もうちょっと楽に生きろよ。怖かったら逃げていいし、それは別に恥じゃない。俺だってけんかの相手が大勢が相手だったら逃げる」
「あんた、むちゃくちゃだよ。逃げろと言ってるくせに」
「そう。それなのにお前が絶対逃げられないように罠をしかけた。だけど、俺だけは大丈夫だよ。無害だから。お前には」
「だから、あんたは自分のしたこともう忘れたっていうの!」
ジェミマは思わず立ち上がろうとした。それで、消火器に頭をぶつけてよろけた。目から火花が散る。痛いなんてものじゃない。屈辱と痛みでもう、ぐちゃぐちゃだ。
彼の前だといつもこうだ。
この前だって、ランパスが何かをしたわけじゃない。叩かれたわけじゃない。自分勝手に怖がって、転んで、自分勝手に倒れた。滑稽だ。何をこんなにやみくもに彼を恐れているんだろう。どうして。
明日を欲しがっているのだろうか、猫のくせに。
恥のあまり、目を上げることができない。自分を恥じるなんて、一番の屈辱だ。それだけはしたくなかったのに。
ジェミマはもう恐れを隠せなかった。膝を抱え込んでうずくまる。もうどうにでもしたらいい。次の瞬間に消えてかまわない。むしろそうならない理由がわからない。
腕を強くひっぱられる。
せめて、最後は見届けよう。ジェミマは覚悟して目を開いた。屈辱も、卑小さも、どんな世界であろうと目に焼き付けよう。それがちっぽけな最後の誇りだ。
今だけがすべて。そのためだけに生きている。
掌に熱いものを押し付けられる。しっかりとした皮膚の手触り。骨が中に通っている。ごつごつした隆起の奥に、滲むように鼓動が伝わってくる。首筋は、白い毛並みに黒い線が走るランパスキャットの身体のなかで、一番無防備な場所だった。
「なに。なんなの」
「俺は無害だよ」
ランパスはぞっとするような愛嬌のある笑みを浮かべる。
まるで今日仕留めた獲物のように、ジェミマの手はもう一度鼓動を握っていた。
小動物の鼓動は数えきれないほど早い。けれど、今握っている雄の命は自分と同じ数だけ力強く脈打っていた。とても強い雄の生命で、同種の命を今、握らされている。ジェミマは悲鳴を上げて手を払いのけていた。
ランパスは、底の見えない例の表情でジェミマを見つめている。瞳がいやに透明で、それにもジェミマは戦慄する。嫌だ。怖い。
「怖がらなくていい。俺は、お前が不安になったらいつでも首を差し出してやる。俺が子ねずみくらいに無害だって証拠に」
「なに?! なんなのあんた!」
「よけいに気味わるがるなよ。まあ、本当に俺はお前を傷つけるつもりはない。どうしても信じられないっていうなら、試しに今みたいにするといい。俺は抵抗しないから」
保障はいらない。
「いやだ」
他の誰かの命を持たされた拒否感はちょっとやそっとでは消えなかった。ジェミマは先ほどとは別の意味で震えた。なんていう馬鹿なことを考える猫がいるんだろう。これは本当に猫だろうか。度を越えた事態に拒否感も消し飛ぶ。ジェミマは目を見張ってその猫を見つめた。凝視と同じ強さで気負わない青い視線が還ってくる。
「俺はお前をそれだけ信じてるって意味だよ。お前は、試しに俺を傷つけてみようなんて思わないだろう。次は、お前が俺にそれを信じてみろよ」
いらないはずの明日を、語るのは誰か。
「まあ、これからよろしくな。いろいろと」
今だけがすべて。それが真実だ。
その猫の瞳はまっすぐに心を覗き込む。その目が曇ってしまう未来など本当にあるのだろうか。なぜか、ないはずの明日がその猫の上に見えた。
『通り雨』