夏の真昼だというのに、空は暗かった。
「シラバブもお空に行きたいか?」
「ううん」
クリーム色の子猫は、華奢な首を小さく振った。
身体までぐらぐら揺れる。
「なぜ?
みんなジェリクルキャッツに選ばれたがるよ」
「シラバブはいいよ。
皆が嬉しいなら、皆が選ばれたらいいと思うよ」
細い爪を一生懸命研ぎながら、シラバブはそのひとに答えた。
「お母さんや、お姉さんたちのところへ行きたくない?」
「いいよ」
「どうして?
会いたくないの?」
シラバブは手を止めた。
幼い表情は無垢で、純粋な魂の存在を見る人に感じさせた。
そして、そこには拭いがたい悲しみの影が差していた。
「マンカスたちがいるから、いい。
会えなくてもさびしくないよ」
「いい子なんだ、シラバブは…」
「あなたはお空に行かないの?」
シラバブはじっとそのひとを見た。
パンダのぬいぐるみは薄汚れていて、片目が取れそうだった。その黒々とした丸いボタンに、じっとシラバブは視線を注ぐ。
心のないはずの、ぬいぐるみに話しかける。
『僕は……』
「お空はね、あっちだよ。
行かないの?」
シラバブは天を指差した。
研いだばかりの爪が、小さなゆびから棘のように突き出している。
昼間で雲もないのに、あたりは薄暗かった。
『僕は……行けないんだ。
シラバブ、酷い、冷たいやつだ。
お母さんたちを捨てて、自分だけが生きていたいのか。
なんて酷いやつだ』
「シラバブ、悪い子でもいいよ」
シラバブは、悲しみばかりを映す目で、『彼』をじっとみつめていた。
「死にたくないよ。
だから、まだお空にはいかないの。
お母さんたちに怒られてもしょうがないの。
みんな居なくなっても、ここにいたいよ」
『だめだ。
つれていくぞ。
君は僕の傍に来るんだ』
間抜けな表情をしたパンダのぬいぐるみ。薄汚れて、誰かに捨てられたもの。こころのない人形。
そこから、冷たい風が吹き付ける。
「行かないよ。
シラバブは行かないの」
ぶるりっと、身体を震わせて、シラバブは恐れなかった。
悲しみだけが募る。その丸い透明な瞳の中に。
ぱしっ
ふいに、陰風が止んだ。
シラバブが繰り出した猫パンチに驚いたように。
「わがまま言っちゃだめ!!」
シラバブはつぎつぎとパンチを打つ。
一生懸命な顔には、何かを堪えている色があった。
恐怖ではない。
「ダメなの。
ワガママダメなの。
会いたいけど、行かないの。
シラバブはここにいるの」
いつのまにか、彼の気配は消えていた。
剣幕に圧されたかのようだった。
「シラバブ、誰と話しているんだ?」
マンカストラップが、眩しい日差しを背負いながら屈みこむ。
ふいに現れた太陽に、シラバブは少しだけ目を細めた。
大好きなお兄ちゃんの登場に、彼女は一人遊びをやめて彼に抱きつく。
「おかえりなさい」
「ただいま。
お腹が空いただろう?
ネズミを捕って来たよ」
ゴミ捨て場は格好の狩場だった。
いろいろな小動物が蠢いている。
命のないものさえ、そこには吹きだまる。
「おーるじゅとろのみぃには?」
舌ったらずな呼び方に、マンカストラップは微笑みそうになって、慌てて頬を引き締める。
危ない。機嫌を損ねてしまうところだ。
「長老には、教会のニンゲンがいろいろ注意をはらった美味しいものを…」
パテとかチキンとか。
「うん。でも、おみやげがないと可哀そう。
シラバブが何か探してこようかな?」
優しい提案に、マンカストラップは今度こそ頬を緩める。
だらしない顔には、ボス猫の威厳は欠片もなかった。
「そうだな。
なにか探そうか。
オールデュトロノミー長老の喜びそうなものを」
こんなに可愛い紅葉の手から渡されるなら、なんであれ宝物であるに違いなかった。
「うん。
探そう。
お友達に挨拶するから、ちょっと待ってて」
シラバブは、片目が取れかけたパンダのぬいぐるみにほお擦りする。
「またね」
子供っぽいしぐさと行動に、マンカストラップは思わず微笑む。
「お友達なのか?」
「そう。
長くニューイン、してたんだって。
寂しいみたいだから、また来てあげるの」
「そうか。シラバブは優しいな」
褒められて、シラバブはぽっと頬をそめて嬉しそうにきゃっきゃと笑った。
彼女のよさを、優しい心を、そのまま伸ばしてあげたい。
マンカストラップは心底そう願っていた。
―――誰もが忌み嫌う、娼婦猫にまで近づこうとするのは、いただけないが。
それも、彼女の優しさゆえだとマンカストラップは考えていた。
シラバブとグリザベラ。
彼女たちの孤独が共鳴しあっているとは、マンカストラップには考えつかなかった。
―――命の無い、言葉をもたないぬいぐるみを友達に見立てるほど、彼女は寂しいのか。
そう思うと、マンカストラップは自分の不徳を恥じる。
彼女よりほんの少し年上の少女がいた。虎縞で、華奢で小柄な体つきをしていた。大きな瞳の、目じりの釣りあがった、生意気そうな可愛い少女。
本来なら、一緒に教会で暮らして、シラバブと睦みあうはずの年齢だ。
彼女がいれば、シラバブをこんなに寂しがらせることもなかっただろう。
出て行った少女の名前は、ランペルティーザと言った。
『マンカスなんて大嫌い!!』
そう言って、少女は教会を後にした。マンカストラップのもとを去った。
いまいましい、コソドロのマンゴジェリーのねぐらへ。
彼なら、彼女をわかってやれるのだろう。
マンカストラップにはどうしても理解できなかった。
彼女の盗癖は、マンカストラップにとって矯正すべき悪癖以外の何者でもなかった。厳しく育てた。
それが、彼女を萎縮させた。
恐ろしいほど笑顔が減った。
いつでも拗ねたような暗い目をしていた。
あせればあせるほど、彼女の心はマンカストラップから離れていった。
マンゴジェリーは、彼女を認め、一人前扱いし、そうして彼女の美しい個性を花開かせた。
マンカストラップにはどうしてもできなかった。
今、彼女はマンゴと暮らしている。
そのほうが、彼女にとっては幸せだろう。
けれど、もし彼女がまだ教会で暮らしていれば。
実際、年齢的にはそれがふさわしい。
そうすれば、姉の存在にどれだけシラバブが慰められただろう。
マンカストラップも、彼女を失わずに済んだ。
今ごろ、彼女はマンゴジェリーと家業に精を出しているのだろうか。
マンカストラップは、始終シラバブの傍にはいてやれない。
寝起きも、教会の外でする。
シラバブはそれについて何も言わない。
「お昼寝したくないよ」「もっと食べたいよ」
「まだ遊ぶ!!」
子供じみた我侭は言っても、本気でマンカストラップを困らせることは、言ってみもしない。
その瞳は透明で純粋だったが、悲しみと孤独が深く根ざしていた。
教会で、長老とひっそり二匹きりで暮らす。
本来なら、猫は多くの兄弟たちとコロコロまつわりながら育つものだ。
彼女はひとりきりだった。
幼い彼女に、それは深い深い、消せない悲愴として刻み付けられてしまった。いつでも悲しそうな目をしている。
マンカストラップは思う。
彼女たちの幸せのためなら、何でもしよう。
ランペルティーザは、春の花が咲き乱れる頃、唐突にマンカストラップに会いに教会へやってきた。
「ごめんね、マンカス。
あたし、酷いこと言ったよね」
そう謝れるようになったのは、マンカストラップではなくマンゴジェリーが彼女の傷を癒したからだ。
「大嫌いって、あれ、嘘だよ。
本当は大好き。
今も、スキだよ。今はマンゴのほうが好きだけど、あの時は世界中で一番マンカスがスキだったの…こ、こまらせるのが…いやで!!」
「もういい。
俺のほうこそすまなかった。
すまない。お前は、ずっと俺と向き合ってくれていたのに、俺はお前じゃなくて、お前の表面ばかりを見ていた」
「叱られるのは良かったの!!
…でも、もし、み、み、見捨てッ…見捨てられたらって!
だって、どうしてもあたしッ」
「いいんだ。
すまなかったな。
マンゴはいいやつだろう?
俺も本当はあいつが好きだよ。
面白いし、何より器が大きい。
あいつはいいやつだ」
「うん。うん。
大好きなの。
マンカス、本当に大好きなの。
ごめんね。酷いこと言って。
本気じゃ、なかったんだよ。
ごめんなさい」
もう、あんな思いを大切な子供たちにさせるのはまっぴらだった。
ギルバートは一刻も早く教会から離れようと一生懸命だった。
ランペルティーザのことは、深く傷つけた。
シラバブだけは、シラバブのことだけは、もう二度と同じあやまちを繰り返したくない。
マンカストラップは、どうやっても彼女を守りたかった。
「シラバブは、……お母さんに会いたいか?」
「うん」
長老へ、綺麗なガラスの欠片を拾って、シラバブはやっと満足したようだった。
家路をたどりながら、マンカストラップは彼女の柔らかさに、こころから安堵する自分を自覚する。守るつもりで守られているのは、マンカストラップのほうだった。
「会いたいよ。
今日、友達にもそう言われたの。
でもね、今はいい。
マンカスがいるから」
「そうか」
自分ではちっとも代わりにならないだろうに、そう言ってくれるシラバブが、マンカストラップはいじらしかった。
「明日は、また違うところへ遊びに行こう。
楽しいことがあるといいな」
「本当?!」
ぱっとシラバブの顔が明るくなる。
太陽の明るく輝くなかを、遠くまで道は続いていた。
「ああ、約束だ。
コリコパットも誘おうか」
「楽しみ!!
コリコのことも、シラバブは大好きだよ」
道は四方八方へ伸びている。
けれど、その中で教会へ続く道はひとつしかない。
そのたった一筋の道をたどって、眩しい真夏の午後を歩き続ける。
明日はここに来られないのか。
そう思って、バブは後ろを振り返り、ゴミ捨て場に向かってバイバイした。
黒い影のように見えるそのなかに、シラバブと同じように孤独な魂が、助け出してくれる誰かを待って、ずっと立ち尽くしているはずだった。
『夏の午後』