月は傾いて、もうすぐ太陽にかき消される。
夜明け前の暗闇に星は飲み込まれ、月だけが丸い輝きを一筋投げかけていた。光の中に、この世ならざる階段が浮かんでいる。
スキンブルシャンクスの名前が呼ばれると、その場に居た猫たちは皆そろって納得の微笑を浮かべた。
彼は誰より幸福に似つかわしい。王子より王様より、その黄色の毛並みはこの世の幸福そのものだった。
「え、僕…
でも、僕よりもアスパラガスのほうが……」
「なにを言うんだ、スキンブル」
「そうよ、選ばれたのは貴方なのよ」
「俺に遠慮するな、若いの」
アスパラガスは鷹揚に頷いた。
「俺には、まだまだやりたい芝居もある。
育てたい役者もいることだしな」
アスパラガスは、ちらっと後ろを振り返った。居心地悪そうに身動きした猫は、誰だったのか。暗闇に紛れて雌雄の判別さえ難しかった。
「でも、タガーとか、他にも立派な猫はいるだろう？」
その場の全員が大笑いした。
「タガー？おいおい、冗談はよせよ！！」
「あいつが立派？お世辞にもほどがあるって」
「タガーは……素敵だけど、ねぇ？」
ボンバルリーナがディミータに目配せする。
「ああ、私も彼は立派な猫ではないと思う。立派というなら、スキンブルのほうがよっぽどマトモだから、安心して天上へ行っていいんじゃないかな」
こんなふうに言っても、ディミータはタガーを嫌いなわけではない。ただ、彼女は非常に……口と態度が悪かった。
「でも、ギルバートとか…いいやつだよ？」
スキンブルは遠慮深くて、手を振って栄光の座から後じさろうとする。
「ええ、彼はいい猫よ」
だけど、と、それに続く言葉をジェリーロラムは飲み込んだ。
だけど、地味だから選ばれないでしょうね。
毎年何匹もの子猫が生まれている。それなのに、選ばれるのは年にたった一匹なのだから。やっぱりそれなりにキャラの立った猫が選ばれるんじゃないの。
っていうか、自分のナンバーのない猫がいきなり選ばれたらお客さんが戸惑うじゃないの。
同じ理由でコリコパットも、……ごにょごにょ。
「いいんだ！スキンブル。
今回選ばれたのはお前だ。
胸をはって階段を昇れ。
俺もいつか同じ道をいけるよう、いっそう精進するからな」
さわやかに白い歯を光らせて、ギルバートが右手を差し出す。
がっちりと握手しあう雄どうしを横目にみて、女優は偽りの笑顔を浮かべた。
「そうね、ギルバート。
―――がんばって…」
「でも、僕じゃなくても、ランパスキャットとか…」
熱い握手を終わらせて、真赤になった掌を振りながらまだスキンブルは迷っていた。
「他の場所じゃありえるけど、少なくともここじゃないわね、それは！」
ジェリーロラムが断言する。
「じゃあ、マンカストラップがいるじゃないか」
名指しされたリーダー猫も、照れくさそうに首を横に振った。
「嬉しいが、スキンブル。俺なんかより、お前はよっぽど唯一匹にふさわしい。さあ、生まれ変わりの準備を……
天上へ昇るんだ」
「でも、君はいつも群の…みんなのことを考えて」
「だからこそ、俺はまだまだこの地上でなすべきことがある。
スキンブル、遠慮するな。
さあ、夜明けが近い。
天上へ―――」
天上へ―――
天上へ―――
至福の世界へ―――
生まれ変わる為に―――
誇り高い猫たちから選ばれた、唯一匹―――
さあ。
オールデュトロノミーは腕を差し伸べてスキンブルを待った。
「ありがとう、みんな」
目じりの涙を拭いながら、黄色い縞猫は仲間との別れを惜しんだ。
これからは、彼に会うことが出来なくなる。
楽しい旅の思い出を聞かされることもない。艶やかに磨きこまれた木目が光る、古い駅へ行っても、そこで迎えてくれた姿はもう、なくなる。幸せな、黄色い姿がステーションから消えてしまう。
なんて惜しいんだろう。
旅から戻った彼が、街中に配るお土産と眩しい笑顔も、今日が見納めだった。彼の話は、いつでも新しい世界の刺激に満ち溢れていて、誰の胸にも冒険心を灯した。その彼が、二度と手の届かない場所へ行ってしまう。
彼ほど街中に愛された猫がいただろうか。
本当に、彼は幸せな猫だった。
そして、そんな猫がいた街は、とても幸福な場所だった。
大好きだ、という感情で、すべての猫の心が満たされる。溢れる。
涙となって零れた。
ジャンクヤードは男泣きの吠え声と、レースのハンカチで鼻水を噛む甲高い音色で満たされ、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「さあ、スキンブル―――！」
長老の厳正な声音が、重々しく彼を呼んだ。
その声に導かれて、スキンブルは月光に照らされた天上への階段を昇ろうとする。
「あ、僕、明日から湖水地方へ乗務予定があるんでした。
すいません。
来年にしてもらえますか」
煌々と輝く月光が衰え、白く擦れて行く。
ええええええ―――？！
「だっ…！！何言ってるんだすきんブル？」
「そうよ！そんなこと行ってるばあい？！」
「お前がいかなきゃおれが、おれが…」
「裏切るのか、すきんぶるーっ」
「え？裏切るって何？
僕何か悪いことした？」
「いいからさっさと天井へ行け！！」
「あはは、マンカス、やだなぁ。
天井へ行ってどうするの。
屋根裏にでも上るのかい？
僕は赤毛のアンじゃないんだから、そんなところで暮らさないよぉ」
「いいからさっさといけぇぇぇええええ」
マンカストラップがスキンブルを蹴り飛ばしたが、もはや階段を乗せた雲は地上２メートルの高さまで消えつつあった。
「あー、行っちゃうねぇ」
「早く飛び乗れ！！
お前ならできる！！！！」
「いや、だから、僕お仕事なんだって…」
「長老〜〜〜」
もはや違う意味の涙で全参加者が途方にくれる。
ジェリクルリーダーは、厳粛に言い放った。
「本年は、該当者なし！！」
夜明け前の一番暗い時間に、不気味な沈黙がゴミ捨て場を漂った。
毎年大勢子猫は生まれる。
その中で、選ばれる栄誉を勝ち取るのは一年で唯一匹。
恨みがましい視線が、スキンブルの黄色い毛並みに突き刺さった。
「…ごめんね、みんな☆( ^ - °)」
本当に恐ろしいのは、これ以後もスキンブルシャンクスの人気が、欠片も、毛筋も、CPUに一億乗っかっているトランジスタ一個ぶんほども衰えることがなかったという、事実だった。
男女にこれほど愛される猫がいて、ジャンクヤードは本当に幸せな街だった。
ただし、これ以降、どのようなことがあろうとも、スキンブルシャンクスが天上へ昇る猫に選ばれることは決してなかった……。