「いたい、いたいってば〜〜」
「自業自得だ。馬鹿」
なんでいきなりボス猫クラスに戦いを挑むんだ。もっと小物から徐々にレベルアップしていけば、ダメージも少なくて済むものを。
「ひゃんひゃん言うな!お前は犬じゃなくて、猫なんだぞ。ちょっとは我慢しろ」
「ん〜〜〜〜っ、…、…、」

それでもランパスキャットはだいぶ手加減してくれたらしく、黄色い猫の新しい傷はあまりない。というか、あの目ざとさでランパスキャットはこの小麦色の毛並みの下が、すでに全身傷だらけだと気付いたのかもしれない。

あっさりと攻撃を避けられて、地面につぶれたこいつを踏み倒して去っていったランパスキャットはかなりカッコ良かった。
弟を守れなかった兄として、こんなことを思うのはいけないんだろうが、あの余裕、あの貫禄…やっぱり憧れる。

俺もいつかはああなる。必ず。誰にも守られることなく、自分を生かす。

「ギル?…どうしたの、なに考えてるの」
「いや、別に。ほら、終わりだ」
「ありがとう」
傷に息を吹きかけている、子供のような大きな猫にギルバートは聞いた。

「なあ、お前、名前…」
「お腹すいちゃったねー。結局今日も、鳥半分しか食べられなかったから」
「うん、お前、だるかったり体が冷たかったりしないか?」
「ううん、それはないよ」
「じゃあ大丈夫だ。明日また頑張ればいい」
「うん」
「なまえ…」
「あっ、僕、ギルバートに聞きたいことがあったんだ」
「なんだよ」
「う〜んと、あのね、あのね、あの大きな池のね、えーと」
「お前、名前なんていうんだ」
「……」
「な・ま・え。知らないと不便じゃないか」

ギルバートはもにゃもにゃ言う黄色い猫の言葉を遮って聞いた。結局それを言いたくなかったらしい黄色い猫は、今度はむっつり黙り込んだ。
睫がふわりと伏せられる。睫の先まで小麦畑色だった。
「言いたくないのか」

ギルバートは少なからず痛みを覚えた。誇り高い猫の名前は、簡単に漏らしていいものではない。けれど、それを許されるほどには自分たちは「親しい」と思っていたので。

「ギル、…どうしても聞きたい?」

昨日の晩、闇の中で開いた琥珀の瞳が、再びギルバートの前で輝いていた。満々と水を湛えたコップに映す、月光が、丸い瞳のなかにある。その揺らぎが、黄色い猫の瞳を覗き込むギルバートを不安にさせた。それでも迷い無く頷く。知りたい。

「ギル聞いて。知らないほうがいい事や、見なければよかったと思うことはいくらでもある。本当だよ。ギルだって、僕の名前を聞いたらきっと後悔すると思う。それでも、どうしても僕は名前を教えなきゃいけない?」
「どうしてもだ。
俺の名前はギルバート。お前の名前は?」

ギルバートは高らかに自分の名を宣明する。その名を名乗るとき、いつも決まって、背骨を旋風が駆け昇るように誇らしさが突き上げる。

琥珀色の瞳は静かに閉じられた。
瞼に少し、白い毛が混じっている。黄色い色のなかに混じって、泡のような白が瞼や頬に浮いている。

「ギル。こっちへ寄って」
ギルバートは黄色い猫の傍へ座りなおした。黄色い猫は耳に口をよせて言った。
「僕の名前はね…」
ギルバートの薄い耳に、息を吹きかけるように囁く声。それが告げる、彼の本当の名前
「ないんだ」






黄色い睫が間近で瞬きする。
いたずらっぽく微笑んでいる。
ナインダ? 名前? いや、『無いんだ』…。そう言ったのか。
この黄色い猫は…

「お前なんてだいっ嫌いだ!!」
ギルバートの罵声はツツジの葉を揺らすほどだった。





嫌な奴。そうだ、最初にそう思ったのに。どうして一緒に暮らすなんて約束してしまったのだろう。
名前を言うのが嫌なら、そう言えばいい。傷つかないわけではないが、無理強いして聞き出したりしない。ひょっとしたら、なにか理由があるのかもしれない…名前を言えない理由が。

それなら、正直に理由があって言えないと言えばいい。
名前のない猫などいない。生まれたときから、宿命のようにギルバートには自分が「ギルバート」であるということがわかっていた。そうでない猫など聞いたことも無い。

それを、言うにことかいて名前が「ない」だと?
いい気になって兄貴ぶっていた自分に腹がたつ。

約束は約束だから追い出しはしないが、黄色い猫を寝床から蹴り出し、ねぐらの隅に追いやった。そこでも寝るのに不便はなかろう。
しくしく泣き声が聞こえるが、知ったことか。

「ギル、お願いだから怒んないで」
「……」
「ねえ、そっちへ行ってもい」
「だめだ!」

ギルバートは黄色い毛並みが目に入らないよう、背中を向けて丸まった。

「ギル、僕寒い」
「もうすぐ春だ。寒いわけないだろ」
「そうだけど、でも昨日からすっごく寒くないか?なんでだろう。天気だって悪くないのに」

ばかやろう!

ギルバートは口に出さずに罵った。
さっきはだるくも寒くもないと言ったじゃないか。
あれだけの怪我をして、昨日今日と口にしたのがほんの小鳥一羽分。それだけの食餌では、失った血液を補えなくて当然だ。

丸めたギルバートの背中に、大きな手が当てられる。泣いていたせいか、昨日より指先が冷たい気がする。

ギルバートは寝た振りをした。

「ギル…」
小柄なギルバートを横抱きにすっぽり胸に収めると、黄色い猫は小さく息を吐いた。「あったかい…」

早く寝ちまえ。

寝たふりの苦しさに、ギルバートは息を殺した。




4. 名前