あやしいバイト(仮) 2


 狭いけど、というセリフが謙遜ではなくそのまんまだったのは初めてだ。
 学生か単身者向けだろう1Kのマンションは、オートロックも付いていたし、エントランスも広かった。
 彼の、川島さんの部屋の玄関の前までは本当にごく普通の、いや、ちょっとこの人ほんとに結構お金持ち? と思っちゃうような作りだと思ったのだ。
 まずドアを開けた玄関のたたきに靴が散乱していた。
「あの……」
「ん?」
 その靴を蹴って場所を空けながら彼は自分の靴を脱いだ。
「どなたかがいらっしゃるのでは……」
 少なく見積もっても七、八人くらい。
 1Kに?
 ありえない。
「いないよ。ああ、これね。全部僕の靴。適当によけて」
 真っ暗な中で靴を履いたら、左右違う組み合わせで靴を履く。
 絶対間違って履く。
 私は出来るだけ靴を踏まないように、蹴らないように、隅っこで靴を脱いで上がった。それでも何か踏んだような気はしたけど。
 廊下にもごちゃごちゃと物が置いてある。古新聞、古雑誌、資源ゴミに出そうと思ったのだろうかペットボトルやアルミ缶もそれぞれ分別はしてあるのに、ゴミ出しの時間に間に合わなかったのかそのままここで待機してます、って感じだ。
 積み上げた新聞や雑誌の下の方はなんだか変色しているし、ペットボトルやアルミ缶を入れたビニールも埃が積もってカサカサした感じになっている。
「川島さん、掃除嫌いですか?」
「なんで?」
 すたすたと短い廊下の先にある台所へ入っていった彼はポットに湯を沸かし、インスタントコーヒーの瓶を手に取っていた。
「いや、あれ」
 台所の入り口、ってほどの入り口はないけど、そこに立って私は廊下を指さした。
「掃除したからゴミが出たんだよ」
 真理だ……。
 彼は鼻歌を歌いながらカップを出す。
「ただ、ゴミ捨て場まで持っていけないだけ」
 はあ、と返事をして部屋へ目を移して、また驚いた。
「やっぱり掃除嫌いなんでしょう!?」
 本で埋まっている。
 おそらく彼の定位置なんだろう、パソコンが置いてある小さなテーブルの前だけぽっかりと空白があり、あとは本棚と、本棚に収まりきれないのだろう本が壁のように積まれている。
 本の壁の延長上にベッドがある――ように見えるけど、もしかしてベッドだと思っているのは本の上に布団を置いているだけかも知れない。
「だから嫌いじゃないって」
 彼はそう言って手招きした。
 部屋でコーヒーを飲むのは無理だから、だそうだ。
 流しに向かって二人で並んで立ち飲みだ。この人、確か食事は保証するって言ったよね。
「僕の所有物がこの部屋の収納の限界を超えたの。それだけ」
 こともなげに言うけど、すっごく言い訳くさい。
「私、本当にここに住んでいいんですか?」
 人間が住めるとは思えないんだけど。
「いいよ。もちろん。実験に付き合ってもらわないといけないし」
「実験!?」
「ここに住む条件だったでしょ。きみがするバイト」
「あ、ああ」
 そうでした。なんかあやしいバイト、とか言われました。
 しかしこの本しかない部屋でなんの実験ができると言うんでしょう。
 むしろまだ、この部屋の掃除とか家事全般とか言われた方がよかった。
「夢を見てほしいんだ」
「夢? 夢ってあの、寝てるときに見るあれですか?」
「うん。寝てから見てください。起きたまま見られるとちょっと困る」
 この人どっかずれてる。
「でも、ただ夢を見られても困るのね」
 彼は空のカップを流しにおいて水を張った。
 コーヒー染みをつけないように、か。
 優しげな喋り言葉といい、わりと細かく気を配る感じといい、悪い人には思えないんだけどとにかくわけがわかんない。
「薬を飲んでから寝てほしい」
「薬? なんの?」
「まだ名前は付いてない。開発コードしか」
 あの大学、薬学部ってあったかー!?
 っていうか、あの研究室、みょうな機械はいっぱいあったけど、ビーカーも三角フラスコもアルコールランプも無かったぞ!
 私の、化学に対するイメージはすごく貧困だ、と自分で思った。
「危険は無い、と思う。マウスでの実験は済んでる。マウスは今も元気だ。どこにも異常は見あたらない。ただ――」
「ただ?」
 ごくり、と喉が動く。
 口の中がからからに乾いてくる。
 コーヒー……。あ、全部飲んでた。
「彼らは喋らないからね」
 彼は苦笑した。
 それが何かをごまかしているように見えたのは、絶対、私の気のせいじゃない。
「それ以上はどうしても人に頼らざるを得ない。本来は学生の有志を募るんだけど、あそこでも言ったように春休みに入ってしまって、学生は通学してこない。新学期になるまで待つしかないかな、と思っていたんだ」
 気のせいじゃない。
 胸がどきどきする。
 心臓が喉までせり上がってる感じがする。
 首の後ろのあたりがぞわぞわする。
 断った方がいい。
 逃げた方がいい。
 たとえまだ夜は時々氷点下になりますよ、な気候でもここで寝ちゃいけない。
「他に質問は?」
 頭の中は危険を知らせるなにかでいっぱいなのに。
 そう言って、ちょっと首をかしげるようにして笑った川島さんの顔に見とれた。
 こう言っちゃなんだけど、私の兄は美形の部類に入る。そりゃもう、男の恋人がいるくらいさ。あんまり関係ないか。
 母も綺麗な人だった。
 そんな家庭環境で毎朝毎晩自分の顔を鏡で見てると心底思うのだ。
 人間はやっぱり見てくれだ。
 見た目で第一印象が決まる。
 綺麗な人は何かにつけて有利だ。
 川島さんは、綺麗、とは違うと思う。
 それでもちょっと長い黒い髪がふとした拍子にさらりと額にかかる様子だとか、それを長い指がかき上げるのとか、細身の黒縁めがねの奥の一重の目が野暮ったいどころかきりりと涼しげに見えちゃうのとか。
 まだほんの数時間しか一緒にいない人の、こんなちょっとしたところに目を奪われてしまう。
 身の危険を感じているのに、身体が動かない。
 もしかしてこれは話に聞く吊り橋効果ってやつですか。
 私はなんかよくわかんないうちに、これは恋かも、なんて思っちゃってるんですか。
 そ、そ、そ、そんなわけないだろー!
「質問がなければさっそく……」
「あ、あの、バイト代は」
 さっそく実験、と言われるのが怖くて咄嗟に口に出した質問が金だった。
 屋根のある場所に寝かせてもらえるだけでもありがたいのに、まだバイト代を要求する気なのか、私は。どんだけ図々しいんだ。
 言ったとたんに急速に恥ずかしくなって下を向いた。
「ああ、じゃあまず契約書にサインしてもらって」
「契約書!?」
「無認可の薬物を摂取してもらうので、不慮の場合に備えて一応。ムリヤリ飲まされたりしたわけじゃないです、ってのがいるんだよ」
 なにそれ!?
 そのそこはかとなく怖い言葉はなに!?
 でもお金がないって言うのはそういう事なんだ。
 父さん。
 私、女としては値段が付かないかも知れないけど、人類としては値段が付くみたいだよ。
 ちきしょう。
 今度生まれてくるときは、もしも家族が解散しても身体で食っていけるくらいの容姿に生まれたい。
 家族解散前提か。
 なんだかすごく捨て鉢な気分で、川島さんの差し出してきた紙にサインをした。

2008年11月27日