あやしいバイト(仮) 3


 契約書を見て手が止まる。
「住所、無いです」
「あ、そうか。いいや、ここのを書いておいて」
 川島さんは胸ポケットの財布から免許証を出した。
 書き写す。
 ペンのキャップを閉めると、川島さんが
「じゃ、これ」
と厚みのある封筒を渡してきた。
 薬? 薬ですか? もう?
 中を覗く。
「うわ!?」
 万札だ。
 束だ。
 いや、銀行で見るような、紙で巻いてある束じゃない。
 そんな分厚さでもない。
 でも私にとっては充分束だ。
「実験が終了した時点で残りを渡すので、それは前金」
「前金!?」
 全部じゃないの!? こんなにたくさんあるのに!?
 ちゃんと数えてないよ。でも20万はある。なのに、全部じゃない、って言う。
『川島さんったらなんてお金持ちなの』なんてことはさすがに思わなかった。
 やばい。これは本当にすっごくやばい実験をさせられるんだ。
 現金を見たとたんにものすごいリアルが襲ってきた。
 封筒を持った手が震える。
 なんでサインした、私。
 臓器売るのと変わらないんじゃないのか、これ。
 川島さんはパソコンの前に座った。
「僕はまだ仕事あるから。お腹すいたら冷蔵庫の中のもの適当に食べて。フロも好きなタイミングでどうぞ。眠くなったら――」
 その瞬間だけ川島さんはちょっと怖いような真剣な目で私を見た。
「薬を飲んでもらいたいので教えてください」
 そうして台所に突っ立ったままの私に背を向けてパソコンに向かった。
 このまま逃げちゃえば?
 お金あるんだよ。逃げられるかも知れないよ。
 私は封筒からお金を出して、一枚ずつちゃんと数えた。
 ほんとに20万入ってた。
 20万あれば。
 でも20万しかない。
 これが無くなる前に何か稼ぐ方法なり住む場所が見つかってればいいけど、その補償はない。
 なんか妙に貧しいな、と思ったことはあっても、父さんはちゃんと家に金を入れてくれた。
 就職した兄ちゃんも家に金を入れてくれた。
 私の高校の学費も出してくれたし、屋根があってすきま風も入らないちゃんとした家に住まわせてくれて、食べる物も贅沢はできないにしても普通に三食食べさせてくれてた。
 それはすごくありがたいことだったんだ。
 解散、と言われる今日まで、父さんは――まあ兄ちゃんの力もあったけど――頑張ってたんだ。
 なんと言われようと私は世間を知らない、高校を卒業したばかりの甘ちゃんで、しっかりした屋根や壁のないところで寝た経験といえばキャンプのテントくらいのもので、本当の意味でお金を持っていない怖さを知らなかったんだ、ってことに今やっと気が付いた。

 そろり、と本の壁の隙間を縫ってベッドの上へ移動する。
 この部屋は他に居場所が無さそうだ。
 お腹は空きすぎて、なんだかよくわからなくなってしまった。だから。
 お金をもらう、ってことの怖さと大変さを私は覚悟した方がいい。
「川島さん」
「なに?」
「寝ます」
「眠くなった? フロは?」
 川島さんは目も上げずに私と会話する。
「さっき、先にシャワーだけいただきました」
 先にお湯をいただくんだから声をかけるべきだろうと思ったけど、仕事のじゃまをするのも悪いと思って黙って入った。
「僕のシャンプーや石けんで平気だった? 明日にでも結衣ちゃん用のを買いに出ようか」
「平気です」
 そういうものを揃えないといけないほど長期の実験なのかな、と想像したらまた寒気がした。
 布団を被る。
「わぷ」
 男の人のニオイがした。
 母さんが死んでから、父さんと兄ちゃんとの三人の暮らしだった。だから男のニオイなんて嗅ぎ慣れてるはずだった。
 でも、父さんとも兄ちゃんとも違う。
 川島さんはめがねを外して、目頭のあたりを揉んでいた。
 仕事はまだ終わってないのか、その顔をパソコンのモニタの光が照らしている。
 ふい、と立ち上がり、川島さんは台所で水を汲んできた。
 そして、瓶に入ったカプセルをひとつ取り出す。
 それ、インスタントコーヒーの空き瓶じゃないですか? そんなのに入れてて平気なんですか、その薬は。カプセル、しっけませんか?
「はい」
 差し出された手のひらに乗ったカプセルに、そろりと手を伸ばす。
 震える。
「あ」
 摘んだ指先に力が入っていなかったのか、それとも逆に力が入りすぎて滑ってしまったのか、カプセルはつるりと逃げて床に落ちた。
 川島さんがかがんで拾う。
「3秒ルールでいい?」
 緊張しているせいだろう。こんなことで笑ってしまった。
 頷くとコップを渡された。
 一口水を含む。
 カプセルをもらおうと手を出す。
「また落ちちゃうといけないからね」
 小さく笑って川島さんは私の手からコップを取ると、自分も一口飲んだ。そしてカプセルを自分の口に入れる。
 なにをしようとしてるんだ、とかそんな疑問を挟む余裕もなく、川島さんの唇が私の唇と重なった。
 うそー!?
 叫びそうになったのがまた悪かった。
 口を開いちゃったのだ。
 そのせいで、川島さんの口の中だったカプセルは水と一緒に私の口の中に流れ込んできて、しかも一緒に川島さんの舌も入ってきて、そろっと唇の内側なんかを舐められちゃったせいでビックリして口を閉じたら――。
 そのあきらかにやばそうな薬をしっかり飲み込んでしまった。
 唇が離れた後で自分の唇を両手でしっかり押さえたって意味はない。
 意味はないけど。
「あらら。真っ赤になって。かわいいなあ」
 川島さんはちょっと楽しそうに笑った後で、はっとしたような顔をした。
「まさか初めてだったりしないよね。十七って言ってたよね」
「……初めてです」
 世間での十七歳がどうかは知りませんが、残念ながら私にはそういう機会はありませんでしたよ。
 うなだれてしまう。
「それは……ごめん」
「いえ」
「せめて聞いてからにすれば良かった」
 するのは決定事項だったんですか!?
 驚いて、ベッドの横に立っている川島さんをがばと見上げた。
 川島さんはなんだかすごく優しい顔で笑って頭を撫でてくれた。
「おやすみ。良い夢を。そしてお願い。夢をちゃんと覚えたままで起きてきて」
 夢を覚えたまま?
 そりゃ、すごく難しいお願いだと思います。
 でもそれが私の仕事だ。
 私は頷くとベッドの中に潜り込んだ。
 知らない男の人のニオイはなんだか妙に落ち着かなくて、そのそわそわした感じが不思議と嬉しくて、私はすぐに眠ってしまった。

 普通、ってものを知らないけれど、こういう睡眠時の実験って、脳波をはかるような装置を付けるもんじゃないだろうか。
 たいていの人は夢を見る。
 夢の役割については諸説あって、記憶の整理だったり、脳がリラックスしている間にいろんなものを垂れ流し、だったり。
 そういう話は専門家にまかせる。
 とにかく私はよく知らない。でも、やっぱりこの部屋でそういう実験って無理があるんじゃないだろうか。
「そりゃ、大学にはあるにはあるよ」
 あるんじゃん。脳波測定装置。今名付けたから正式名称かどうかわかんないけど。
「でもあそこできみ、眠れる?」
 一度しか足を踏み入れたことはない、川島さんの研究室は、何に使うのかわからない機械が置いてあった。
 寝る場所は無さそうだったし、ソファで寝るのは落ち着かない。
 いやでも、この部屋もかなり似たり寄ったりじゃないですかね。

 寝ている間に夢を見た。
 たいていの夢がそうだろうけど、変な夢だった。
 父さんが「松下家解散」と叫ぶやいなや走って逃げた。
 呆然とする私と兄ちゃんの前に背も高けりゃ肩幅もがっしりな男の人がタキシードで現れたかと思うと兄ちゃんを小脇に抱えた。いつの間にか兄ちゃんはウェディングドレスだ。
 びっくりしているとその人は
「妹、オールボアール!」
と巻き舌で別れの挨拶をし、指を揃えたピースサインをこめかみのあたりからぴっととばした。
 兄ちゃんも付き合いよく、
「妹よ、元気でな! ダスビダーニャ!」
と叫んだ。
 ステキにバカな兄ちゃんだと思っていたが、一応別れの挨拶を言える人だった、と知って安心した。
 一人取り残されて困っているとねずみがやって来た。
 ねずみは「おむすびころりん、すっとんとん」と歌うと私に赤と白で塗り分けられたカプセルを差し出した。
「飲んでください」
 でかいよ。飲めないよ。
 困っていると、
「おむすびをくれた人には必ずあげなくてはいけないのです」
と言って、ねずみはずいずいと手を突きつけてくる。
「私、おむすびなんてあげてないよ」
と言うと
「いいえ、たしかにあなたがくれました」
とねずみは自分の後ろをゆびさす。そこには私のリュックから溢れんばかりのばくだんおにぎりが。
 そうか。なら私があげたに違いない。
 カプセルを受け取るけど、やっぱり飲めない。
「じゃあ、飲ませてあげよう」
 ひょいとカプセルを取り上げた長い指に見覚えがあった。
 あ、とか、え、とか驚きの声を出す間もなく、なんか柔らかいもので口を塞がれた。
 塞がれて、なんか巻き付いてきて、ぎゅってされて、苦しくて……。
「うわああああ!」
 飛び起きたら横に川島さんが寝ていた。
 そりゃあね、部屋の主ですしね。他に寝る場所無さそうですしね。
 高額のバイト料を払ってくれる雇い主ですけどね。
 でも私、一応女なんですよ。
 なんで抱き枕扱いなんですか。
 川島さんはのんびりと
「あ、起きた? どんな夢だった?」
と聞いてきた。
「おかげさまでばっちり覚えてますよ!」
「何を怒ってんの」
 川島さんはノートパソコンの前へ行き、私が話す夢の内容を記録していった。
「すごいなー。昨日の出来事を見事になぞっている」
「そういう薬なんですか?」
 私はベッドから抜け出すと、本の壁を崩さないようにして台所へ行き、水を飲んだ。
「いや」
 彼は言葉少なに否定する。
「薬の効能は言えません。先入観が働いたりプラシーボ効果が起こるといけないから。だから何もしない薬です、としか言わない」
「はあ」
 何もしない薬を飲むのに、なんであんな契約書がいるんですか。
 思い出したらまた怖くなった。
「寝直す?」
 パソコンを見つめたまま川島さんは言った。
「その場合どうなるんですか? また薬を飲まないといけない?」
「うん」
 もしかしたらあの薬は、夢を覚えたままで起きられるようにする薬なのかも知れない。
 それだけじゃないだろうけど、そういう効果もあるのかも知れない。
 脳天気なことを考えて、それでもやっぱりわからない薬を飲むのは怖くて、私は起きていることを選んだ。

2008年12月1日