あやしいバイト(仮) 4


「結衣ちゃん! 寝ない!」
「うあっ!?」
 寝ないことを選んだくせにうとうとしてしまったらしい。怒られた。
 川島さんは、もう、と眉間にしわを寄せて、ティッシュを箱ごとくれた。
「よだれ」
「うわあ!?」
 は、恥ずかしい。
「花も恥じらう乙女なんだから、そういう寝姿を無防備に晒すのはどうかと思うよ」
 川島さんは渋い顔で言った。
 乙女……。賛より否の方が多そうですが、確かに十七の女がよだれ垂れて寝てるのはだめですね。
「もう一度確認しておくけど、きみが寝るのは実験のためだけです。寝る前には必ず薬服用のこと。それ以外はうたたねも禁止」
 厳しいな。
 でもお金を受け取った以上は頑張らないと。
 何を頑張るんだろう、私。
「それはそれとしてもう朝だ。着替えて。買い物に行くから」
「買い物?」
「きみの生活用品がいるでしょう」
 昨日言ってた石けんやシャンプーのことか。
「それ以外にも歯ブラシだのタオル類だの。女の子なんだからいろいろいるものがあるでしょうが。全部あの荷物に入ってる、って言うならそれでもいいけど」
 確かに全部を持ち出したりはしてない。
 気配りできすぎじゃないかな、この人。
「人間、三十年を越えて生きてるとそのくらいのことは」
「三十!? 川島さん、三十歳!?」
「いや、だから越えてるって」
 兄ちゃんより上だとは思ったけど、せいぜい二十七、八だと思ってた。
「もうすぐ不惑だよ、不惑」
「不惑……」
 ってなんだっけ。
「四十。論語だよ」
 ああ、道理で何かで聞いたことがあるような気がしたと思った。
 って四十!? さっき三十って言った!
「もうね、その辺の十年ってきみくらいの年ほどの変化がないわけよ」
 川島さんはちらりと後ろを振り返って、それから床に手をついた。
 多分、本がないのを確認したんだ。
「周囲の顔ぶれもあんまり変わらない。大学に残ってると毎年毎年新しい顔が来るよ。でもその分出て行くのもいるわけでさ。毎年同じ時期に同じ事を教えてるわけ。似たようなことやって、誰とでも同じように付き合って、うすっぺらくて。そうするとね、年を取るのも忘れるわけよ」
「はあ」
 よく、わかんない。
 だって誕生日は毎年巡ってくるし、誰と誰が友達だの喧嘩しただの、付き合いだしたらしいとか、テストの結果とか、遊びの予定とか、やることも考えることもいっぱいある。
 大人から見たらくだらないことかもしれないけど、おろそかにすればクラスで浮くし、一人でいることに耐えられるほど強くはない。
 きゃあきゃあ言っておもしろおかしいことを探してる内に毎日が過ぎていくけど、毎日が同じなんて言い方はできない。毎日違う。いつも、昨日とは違う何かが起こることを期待しながら怯えてる。
「おもしろいねえ」
 川島さんは、あんまり面白くない、って顔で言った。
「きみらくらいの年齢はおもしろいよ。世界中が全部自分の方を向いてるような気がするでしょ。そうでないなら、自分の方を見てくれなきゃ嘘だ、って思ってる。自分が主役だ」
 むっとした気持ちが顔に出ていたんだろう。
「僕もそうだったからね」
 川島さんは体を起こすと頬杖を付いた。
「だからってわけでもないけど、まあそれは誰にでもある通過点だよ」
「はあ」
 誰にでも。
 そうかな。そうなのかな。
「朝飯と買い物。実験継続中は僕の同伴無しに外出できないからそのつもりで、暇つぶし用のものも買ってね」
 さらっと恐ろしいことを言われた。
 同伴無しに外出できない?
「逃げられると困るし」
 川島さんは口だけでにやっと笑った。
 目が笑ってない。
 いい人だと思ったのは間違いだったんだろうか。
「逃げませんっ!」
 ちらっと昨日そんな事も考えたけど。
「ああ、そんなはした金じゃ逃げられないか」
 川島さんは鼻で笑った。
 はした金!? この人にとって20万円ははした金?
 確かにそれもちらっと思ったよ。20万円じゃ当座をしのぐことはできても、早晩金に困る。だって20万じゃ新しい家も探せない。家自体は探せても入居できない。
 それこそネカフェ難民にでもなる?
 じょうだん。ネカフェを住所にして仕事が探せるとはさすがに思えない。
 突然手にするには大金だけれど、これは実際のところ何も出来ないお金なんだ。
 実験が終了すれば残りのお金をもらえる。
 同じだけもらえると仮定して、合計40万円。
 父さんが家に入れてくれていた一ヶ月の生活費よりずっと多いけど、まだだめだ。
 生きていくだけでお金ってどうしてこんなにたくさん必要なんだろう。
 でも20万円ははした金なんかじゃない。絶対に。
 これは大金だ。
「それはじょうだんとしてもね、結衣ちゃんには無認可の薬を飲んでもらってるわけで、たとえば一人で外出中に倒れたりしたら大変でしょう」
 こっちを向いた川島さんは、昨日私を掲示板の前から引きはがして研究室へ連れて行ったときと同じような目をしていた。
「未成年のお嬢さんに無体なことをしてるわけだからね。責任の所在は明らかにしておかないといけない。責任は僕にある」
 真剣な目でそんなセリフを言う姿にまたドキドキしてくる。
 何を考えてるの。
 私はただの実験の観察対象で、この人はきっと私のことをそうとしか見てない。
 そうだ。薬。
 あの薬、きっと不必要に胸がドキドキするような成分が入ってるんだ。
 それ、普通に考えて心臓にヤバいよね。
 あああ、だめだ。だめだよ。
 そうとは見えないにしても、四十近い、なんて言ってる人を、しかも金で助けられただけの人を好きになったりしちゃだめだ。
 今の私は他に頼れる物や頼れる人がいないから、気持ちがものっすごく川島さんに傾いてるだけだ。
 きっとそうだ。
 好きじゃない。
 恋じゃない。
 この人と私を繋いでるのは、実験とお金だけだ。
「食事は保証する、って言ったからね。メシ食いに出よう」
 川島さんはそう言って立ち上がった。
「はい」
 返事をしたものの着替えていなかったことに気が付いて、私は慌てて洗面所に立てこもった。

 食事保証は三食確実に食べさせてくれる、という意味でもあったし、その食事代は全部川島さんが出す、ということでもあった。
 しかもファミレスでの食事の後に向かった大型のホームセンターでの買い物も、その代金を川島さんが払った。
 私があそこにいるために必要なものである以上、川島さんの実験の必要経費になるらしい。昨日渡された20万円はそっくりそのまま私のものでいいんだそうだ。
 部屋があんな状態だからスリッパも要らないし、あれ以上本を増やすのもどうかと思うから雑誌の類も買わないけど、川島さんは
「暇つぶしになるならゲーム機くらい買ってもいいよ」
と言った。
 ただし小型の。
 そりゃそうだ。
 あの本で占領された部屋でリモコンを振り回すタイプのゲームができるとは私も思えない。
 でも、携帯を持つのはだめだと言われた。
 もともと携帯は学校が自由登校になった頃に解約した。
 お小遣いが厳しくなったからだ。
 これで友達がなくなるな、とは思ったけど、大学に入ったらバイトでもすればいいやと思った。高校でバイトをしなかったのは校則で禁止されてたのもあったけど、父さんと兄ちゃんが口を揃えて、学生の本分は勉強だ、受験生なんだから勉強しろ、と言ったからだ。二人しかいない家族に逆らってまでバイトをして携帯を持ってなきゃいけない、とは私には思えなかったから、何もしなかった。
 父さんも兄ちゃんもせっせと働いて稼いで――。
「川島さん」
「なに?」
 食事に生活必需品、それに嗜好品までほいほいと買ってくれるこの人はいったい何者なんだろう。
「大学職員、っておっしゃいましたよね」
「うん」
「それって……そんなに儲かるんですか?」
 ドラマでしか見たこと無いけど、教授とかならお金持ちそうなイメージはある。
 でも職員ってどうなの。
 というか職員って言いながら、研究室の責任者、とも言ってた。
 この人は何をしている人なの。
「儲かるわけじゃないです」
 川島さんは考えた末にやっと口を開いた。
「ただまあ……。大人の世界にはいろいろあるんだよ」
 結局それでごまかされた。
 くしゃくしゃと頭を撫でられる。
「なに? 大学に就職したくなった?」
「お給料がいいなら」
「頭もいるよ」
 笑いながら言われて、かちんときた。
 頭を撫でてくる手を振り払う。
「どうせバカです!」
 まぐれ合格だったし、それだってもう取り消されてるだろう。
「僕の場合は親もそうだから」
 ああー。家族全員頭いいんだ。遺伝だ。ふーん。
「他の選択肢ってのが無かった。というか僕が思いつかなかった」
 いいじゃん。それでいい生活できるなら。
「今頃になっていろいろ考えるけど、考えてもどうにもならないから今の生活を続けてる」
「もしかして、何か後悔してるんですか?」
 満足していなさそうな口ぶりだったのでつい聞いてしまった。
「してないよ」
 川島さんは笑顔をむけてきた。
 嘘だとわかる、悲しそうな笑顔だ。
「後悔したって現実は変わらないからね」
 まあね。
 後から、ああすればよかった、こうすればよかった、あの時あっちを選んでいれば、って思ったって、やり直しはきかない。
「だからいいんだよ」
 大人はすぐこういう曖昧な言葉でごまかすんだな。

 夜が更ける。仕事の時間だ。
 シャワーだけのお風呂を済ませ、ベッドへ移動する。
「川島さん」
「あ、寝る?」
 頷くと川島さんは昨夜と同じに、水と薬を準備した。
 昨夜のアレを思い出して、思わず壁にべたりと貼り付いた。
「何してるの?」
「あ、あの、いえ……」
 まさか今日はしないよね。普通に薬を飲んでいいんだよね。
 手渡されたコップから水を飲む。
「コップ」
 返して、と手を出された。
 川島さんが水を飲まなければ大丈夫だと思って両手で掴んでいたのに。
 仕方なく返すと。
 やっぱりだよ、この人!
 水を一口含んで、ぽい、と薬を自分の口に放り込んだ。
 抗議したくてもこっちも口の中に水が入ってる。
 飲み込めば良さそうなものだけど、そうすると川島さんも薬を飲み込まないとしゃべれない。
 いや、飲み込まなくてもいいんじゃないの?
 吐き捨てるって手もあるよ。
 でも、薬を無駄にするような方法を私の立場で言っていいのか。
 川島さんはいかにも当然、といったふうに顔を近づけてきた。
 こんなの聞いてないよ。バイトの条件に入ってないはずだよ。
 泣きそうになりながら唇を合わせた。
 目を瞑る。よくわからないけど、キスをするなら目を瞑らなきゃいけないような気がした。
 キスじゃないよ。
 うろたえてるんだろう。自分でも支離滅裂だ。
 薬さえ飲んでしまえばいいんだ。
 唇を舌でつつかれる。
 慌てて口を開いた。
 ぬるくなった水が一筋流れ込んできて、それから川島さんの舌でカプセルが押し出されてきた。
 ――これさー。意味、無くないですか?
 カプセルって、胃に入ってからの溶ける時間とかなんとか、そういうのを考えてわざわざカプセルに粉の薬を詰めるんでしょう?
 口移しなんかして無駄にカプセル溶かしたりしちゃいけないんじゃないだろうか。
「ふ…っ、ん」
 カプセルを押し込んだ後の川島さんは、その舌を私の口の中で遊ばせる。
 ちょっと……っ、くすり、飲めない、ってば……。
 こわばっていた腕をどうにか動かして、川島さんの肩を押した。
 ようやく川島さんが離れる。
 柔らかくなりかけているカプセルをむりやり飲み下して、コップに手を伸ばした。
 残っている水をごくごくと飲む。
 喉にへばりつくような感じがなくなっただけいいや。
 はあ、と息を吐いたら、ぐりぐりと頭を撫でられた。
「まったくもう」
 苦笑混じりの声に顔を上げる。
 ほんとに苦笑している川島さんの顔があった。
「こんな様子を見せてくれるとは想定外だよ」
 こんな様子って?
 首をかしげてみたけど川島さんはとりあってくれず、
「おやすみ」
と、額にキスをされた。

 声がする。
 私を呼ぶ声だ。
「結衣ちゃん」
 誰。
 私を「ちゃん」付けで呼ぶのはお母さんだけだ。
 でもお母さんは死んでしまった。もういない。
 それにこの声は男の人の声だ。
 兄ちゃんじゃない。
 もっと深い柔らかい声。
「僕の家においで」
 姿は見えないのに、手だけが見えた。
 こっちに手のひらをむけて差し出されている手に見覚えがある。
 節のあまり目立たない長い指。兄ちゃんの硬そうな手と違って、あんまり日に焼けてなくて柔らかそうな肌。
 でもちょっと年いってる。
 知ってる手だ。
 私はその手を取った。
 ぐい、と引っ張られる。
 抱きとめられた腕の中はがっちりとしていて温かくて、私はその人の胸板に頬を寄せて、そっと息を吐いた。
 胸板……?
 って、裸?
 ぎょっとして離れようとするけど、しっかりと抱き込まれていて動けない。
 どうにか首だけを動かす。
「川島さん!」
「まったくもう」
 どこか嬉しそうな顔で微笑んでる。
「今日日の子はもっとすれてると思ってたよ」
 どういう意味だ、と聞く間もなく川島さんのアップが迫る。
 いやああああ! うそー!
 なんでこの人、こんなにキスするの!
 っていうか、人の初めてをなんだと思ってるんだ!
「ん…っ、んぅ」
 舌が……。
 目の前が熱くなる。くらくらする。抱きしめられてなかったら、絶対倒れてる。
「結衣ちゃん」
 キスをしてるのに、その相手がしゃべる声がした。
「お金なんか要らない、って思えるようないい夢を見せてあげるからね」
 ああ夢だ。これ夢なんだ。
 そうわかってもちっとも安心できない状況だ。
 私はなんでこんなえっちな夢を見てるんですかー!

 起きあがろうとして、起きあがれないのに気が付いた。
 またこの人、私を抱き枕にしてるよ。
「川島さん」
 こんなにくっつかれてたらゆすって起こすこともできない。
「……ん?」
 名前を呼んだだけで起きてくれて助かった。
「あの……」
 なんでこんな状態で寝てるんですか。
 やっぱりここで実験、って不自然じゃないですか。
 っていうか、それだったら私廊下でも台所でもどこででも寝ますから、一緒のベッドで寝るのはやめましょうよ。
 そのどれも言えなくて、
「おはようございます」
って挨拶してしまった。
「おはよう」
 川島さんは欠伸混じりに返して、起きあがった。
「内容を聞こうか」
 忘れていることなど疑いもしていないような態度だ。
「はい」
 返事して、見た夢を思い出して、固まった。
「結衣ちゃん?」
 あれを? あれを話せ、と?
 マンガだったらここはだらだら汗が流れてるシーンになるはずだよ。
「あ、あ、あ、あの、あの……」
「落ち着いて」
「たとえどんな夢だったとしても、その、報告を……」
「してもらいます」
 厳しい口調のくせににっこり笑ってる。
 なんか見破られてる?
 ――見破られてるのかもよ。私がこんな夢を見る、ってだいたいの予想ができてるのかもよ。
 だって、私、ただ寝てるだけじゃないもの。
 ただ寝て夢を見てるだけじゃないもの。
 起きたときにやたらはっきり夢を覚えてるのも、あんな、今まで見たことないような夢を見るのも、予定通りなのかもよ。
 だってこれ、実験なんだもの。
 あの薬に何ができるのかよくわかんないけど、聞いても教えてもらえないだろうけど、あれって見た夢を覚えていられたり、へんな夢を見せることができたりするのかも。
 ……。
 へんな夢を見せるっておかしくなーい?
 どうやってあんなちょっとの薬で……。
 寝る前のアレか!
 アレがきっかけになって、そのまんまの夢を見るのか?
 そうだよ。
 考えてみれば最初の日の夢だって、その日に起こった出来事を比較的そのまま夢に見た。
 多少夢っぽくばかばかしいところがあったけど、ほぼそのままだった。
 川島さんだって、なぞってる、ってビックリしてた。
 じゃあ、そういう薬なのかも。
 それなら、私があんな夢を見てもそれは私のせいじゃない。
「結衣ちゃん。どんな夢だった?」
 はっと顔を上げた。
 パソコンの前で川島さんが辛抱強く待ってた。
「か、川島さん。その前にお願いがあるんですけど」
「なに?」
「薬、普通に飲ませてください」
 口移し、とかやめてください。
「なんで? あ、やっぱり好きでもない男にキスされるのは嫌か」
 ん? 好きでもない?
 好き、なんだろうか。
 キスされるのは嫌じゃない、と思う。少なくとも嫌じゃない。
 好きかって聞かれると困る。
 川島さんには感謝してるし、キス自体が好きか嫌いかはまだよくわからない。
 薬を普通に飲みたい理由はそこじゃない、ってことだ。
「あの。あんなふうにされちゃうとそのまま夢に見ちゃうので……」
 言いながら恥ずかしくなってきた。
 それ、私のせいじゃないよ。絶対私のせいじゃない。
 なのにどうして私が恥ずかしいの。
 川島さんはちょっと驚いたような顔をした。
「そうなの? そういう――。あ、いやなんでもない。じゃあそういう夢を見たんだね」
 何を言いかけた!?
「それはそれで構わない。大丈夫。結衣ちゃんが絶対にキスは嫌だ、って言うならやめるけどそうじゃないなら僕としては経過を見たい」
 疑惑はあっさり消える。
 経過。やっぱり薬の影響なんだ。
 じゃあいいんだ。
 いや、よくない。
 私がすごく欲求不満な人みたいだからいやだ。
「じゃあなに? 今日の夢は僕と結衣ちゃんがキスしてた?」
 ううう。なぜそうはっきり――。
 そういや不惑って言ってましたね。惑わないんですね。
 十七の小娘のファーストキスの重要さなんてどうということはないんですね。
 ちきしょう。
「してました」
 ああもうやだ。
「舌まで入れてきました! 川島さんが!」
 私じゃない! 私じゃないから!
 川島さんはくすりと笑って、
「また真っ赤だ」
と、小さな声で言うとパソコンに向き直った。

2008年12月10日