あやしいバイト(仮) 5


 キスをしていた。
 ちゅう、と音を立て、互いに唇を吸いあってはわずかに離し、また重ねる。
 それだけで夢だとわかった。これは夢だ。
 なんかやらしいキスだ。
 触れあっているのは唇の表面の薄い皮だけだと思うのに、互いの体に回した腕に力が入る。
 手が服の上からぬくもりをまさぐる。
 服?
 今日は服を着てるらしい。
 ほっとした。
 夢とはいえ裸はやっぱり恥ずかしい。
 恥ずかしいどころか、いたたまれない。
 自分の体を見るのは苦痛だ。
 出るべきところが出ていない。胸は無いに等しい。お尻だってふっくらとかむっちりとかの形容詞とは無縁だ。
 十七にもなってこれだと、もう未来は期待できない。

 兄ちゃんは時々ふざけて私を「うちのお姫様」って呼んだ。
 髪も短い、スカートも制服以外はかない、かわいい物が絶望的に似合わない私のどこが「姫」だというんだろう。
 まあ、態度は大きかったかも。
 父さんや兄ちゃんがしてくれることの全てを、表面上感謝しているように見せて、心のどこかでは当たり前だと思っていた。
 自分でお金を稼ぐまで、そのことに気が付きもしなかった。
 今の状況を『稼いでる』とはとても言い難いけど。
 最初は兄ちゃんがいやみを言ってるんだと思った。
 ちっとも女らしくない私をからかってるんだと思ったから、泣いて抗議した。
 でも兄ちゃんは本気だったらしい。
 胸が無かろうが、全体的に丸みの少ない体だろうが、髪の毛が短かろうが、リボンやレースが似合わなかろうが、そんなの全く関係なくおまえは俺の妹で、うちのお姫様でいいんだ、って言った。
 思えば――兄ちゃんはズレてたんだろう。

 キスが続く。
 せわしなく動く手が腰のあたりの布を手繰る。
「ふ…、んんっ」
 身じろぎした。
 夢のくせに吐息の熱さまで感じる気がする。
 足がすーすーする。
 と。
 太ももに熱を感じた。
「んっ! く、ぅ… ん」
 手? 川島さんの手? なんで手が直接肌に触れるの?
 キスでぼうっとする頭で考える。
 ああ? スカートだ。私、スカートはいてる。
 考える間にも、川島さんの手はするりと腿を撫で上げてショーツに指をかけてくる。
 やだ! そこはだめ!
 そこは胸なんかよりももっとだめな部分だ。
 薄いのは眉毛だけじゃないんだ。
 川島さんの手が撫でていった場所が疼きながら熱を持った軌跡を残す。
「ふ、あ…」
 酸欠で死にそう。
 キスから逃れるように喉を反らした。空気を求めてあえぐ。
 川島さんが胸に顔を埋めてきた。
 下半身から離れてくれたことにほっとしつつも、やっぱり安心できない。
 無いから!
 顔を埋めるほど、そしてそんなことして気持ちいいと思えるほど、そこに肉無いから!
 でも私の手は川島さんの頭をかきいだいた。
「や。あ…、ああん」
 薬が見せてる夢だ、ってわかってる。
 あんな薬を飲んでるから私はこんな夢を見る。
 川島さんにえっちなことをされてる夢を、優しくされてる夢を見る。
 夢の中だから、と大胆になる。
「ふぅぅ…んっ!」
 胸に痺れが走る。
 多分――咥えられた。
 怖い。
 気持ちいいのが怖い。
 実験なんだから、薬のせいなんだから、と頭の中で何度唱えても止まらなくなる。
 川島さんをこんなふうに好きになりたくない。

 目を覚ます。
 身動き取れない状況を確認する気にもなれない。
 今日も抱き枕になっていた。
 目だけを動かして、眠っている川島さんの顔を見る。
 もうすぐ四十、って言ってたのは嘘じゃないのかも知れない。
 疑ってたわけじゃないけど、話し方や仕草で、もっと若いような気がしてた。
 こうして見ると目尻や口元のシワは年齢を感じる刻まれ方をしているし、肌にもハリやツヤが無い。
 兄ちゃんよりは父さんに近い質感だ。
 いや、川島さんは父さんよりずっと若いと思うけど。
 抱え込まれた上に、足まで乗っけられている、完璧な抱き枕状態になんだかがっくりきた。
 川島さんにこうされるのは嫌じゃないんだけど、なんで寝ている間とはいえこんな事をされて私は気が付きもせずに朝まで寝続けるんだろう。
 普通気が付くだろう。
 全然女らしくない、と自他共に認めるとはいえ、私は一応十七歳の女子のはずだ。
 男の人にこんなことをされたら気が付くだろう。
 気が付こうよ。
 危機感が無さ過ぎるよ。
 それとも、これも薬のせいなんだろうか。
 都合の悪いことは全部薬のせいにしてるような気がしなくもないけど、つじつまが合うんだから仕方ない。
 私が飲んでる薬は、きっと何をされても朝まで一度も起きずにぐっすり眠れる何かが入っているに違いない。
「起こしてくれてよかったのに」
 不意に声がして、うわあ、と叫びそうになった。
 起きたんだったらまずその腕とか足とかをなんとかしてください。
「どんな夢だった?」
 寝起きのくせにこの人はなんて笑顔をするんだろう。
 見てるこっちが蕩けそうだ。
 そう感じて、違う違う、と内心で首を振る。
 あんな夢を見ちゃうから現実でもおかしくなってる。
 あれは夢だ。実際にこの人とそんなことをしたわけじゃない。
 でも……。
 今くっついてる体とそのぬくもりは現実だ。
 おかしくなりそう。
「またキスしてましたよ」
 他にどう言えばいいのかわからない。
 繰り返し、繰り返しキスをした。
 で、川島さんに体を触られて――。
 うわあああ!?
 また叫びそうになった。
 む、胸のさきっちょ咥えられたのとかも言うの? 
 言うんだよね。覚えていることは全部教えて、って言われてるんだもんね。
 言えるかー!
 今気が付いた。
 これはとんでもない『羞恥プレイ』ってやつだ。
「ころころとよく表情がかわるなあ」
 感心したような川島さんの声がする。
 やだ。川島さんの顔を見ることができない。
「どんなキスしてた?」
 そこまで言わなきゃいけないんですか。
「覚えてるならぜひ」
 これはわかっていて言ってるんだ。私が覚えてる、ってわかってて言ってる。
「それも実験の内なんですか?」
「もちろん」
 川島さんはよっこらせと起きあがって、メガネをかけながらパソコンの前へ移動した。
「きみにお願いするときにマウスでの実験は済ませている、という話はしたよね」
 頷く。それは聞いた。
「そこから僕はあるていどの仮説は立ててます。だからそれが仮説ではなく真実であるかどうかを実証するためにきみの協力が必要なの。そこまではいいかな?」
「はい」
 川島さんは寝ている間に落ちてしまった前髪を手でぐいと押し上げるようにかき上げた。額が出ると余計にかっこよく見えちゃうんだ。
「で」
 こっちを向くその目にどきんとした。
 四十って言ったよね、この人。昨日確かにそう聞いた。
 うわー。心臓が……。
「実験中僕はきみとずっと一緒にいることになります。当然それはきみに影響を与える。そして薬の影響も出る。それがどんな影響だったかを僕が知る方法はたったひとつ。きみからの報告です」
「はあ」
「僕は、きみが見た夢の内容を知り得ない。夢を見たかどうかを知ることは脳波の測定や何かで可能だよ。でも夢の内容を知るのはどんな機械を用いたって無理な話。だからきみに聞くしかない。きみは薬を飲むことについての承諾をした。そして前金を受け取った」
 う。
 あれね。全部自分の物にしていいよ、っていうあれね。
 川島さんが、ふふ、とちょっとやな感じに笑った。
「今のところ使い道も無いのに、って顔だね。そうだよね。僕と一緒じゃないと外出できないし、きみはお金を必要としてはいたけど、ここにいる限りとりあえずの生活には困らないし」
 そのとおりです。
「そんな神妙な顔して頷いちゃだめだよ」
 やな感じの笑顔が一転して心配そうな顔になる。
「あのね、僕はきみの外堀を埋めちゃってるんだよ。きみの逃げ場を無くしてるの。そういうことわかってる?」
「へ?」
 逃げ場って?
「何のためにそんなことをするんですか?」
 逃げてきてここに転がり込んだと思ってた。
 川島さんは、あちゃー、と言いながら頭痛を堪えるように額に手を当てた。
 そういう仕草をすると本当に四十には見えない。
「きみを逃がさないために決まってるでしょ。あやしいバイトって説明したでしょ。学生を使うつもりだったけど春休み前に逃げられてるわけよ」
「はあ」
 人望無いのか。
 川島さんは私を見て、苦笑しながら溜息をひとつつくと
「まあいいや、その話は」
と言った。
「はあ」
 いいんならいいけどさ。別に。
 そんな私を見て川島さんはまだ苦笑いをする。
「僕は拾い物をしたんだな」
「へ? あ、まあ、拾ってもらって助かったなーとは思ってますけど」
「そうじゃないよ」
 川島さんはそう言って『苦い』が取れた笑顔を見せてくれた。

 薬をふつうに飲みたい、って言ったからだろうけど、川島さんは口移しをやめてくれた。
 でも私が勝手に薬に触るわけにはいかないから、寝る前には川島さんに声をかけないといけない。これは変わらない。
 水の入ったコップをベッドの上で待つ私のところまで持ってきてくれて、インスタントコーヒーの空き瓶に入れたカプセルをひとつ振り出す。
 私は水を口に含んで、上を向いて、小さく口を開ける。
 川島さんはそこへカプセルを落としてくる。
 キスはしてない。してないけど、これもえっちな感じがするという意味ではあんまり変わらないと思う。
 だって川島さんの指が唇にあたるんだもの!
 ここでびくっ、ってなっちゃうと口の中の水が零れるか、カプセルがまた落っこちて3秒ルール適用になるか、だと思う。だから
「うう」
って声を出すしかできなかった。
 一応抗議のつもりだったんだけど川島さんには伝わらなかったみたいで
「おやすみ。良い夢を」
なんてきざなセリフと共に頭を撫でられた。子供じゃあるまいし。
 むっとした声で
「おやすみなさい」
と返して横になったら、それまでさほど眠気は感じていなかったのに、あっという間に眠りに落ちてしまった。

「まさか初めてってことはないよね。十七って言ってたよね」
 笑っちゃうことに、夢は最初に薬を飲まされたときの、つまりキスをされたときのセリフから始まった。
「初めてです」
 夢の中の私はか細い声で答える。
 真っ赤になって、川島さんを見ていられなくて顔を背ける。
 私の状況が私に見える、ってのも不思議な感じだ。なんか幽体離脱っぽい。
 こっちで状況を把握してるのも私で、川島さんに何かをされるたびにドキドキするのも私だ。
 川島さんは私の頬にキスをする。
「かわいいねえ。大丈夫。優しくするよ」
 首筋に唇の感触。
 勝手に体がびくんとはねた。
 夢だとわかっていても落ち着かない。
 心臓が飛び出しそうだ。
「や、あ…」
 お腹のあたりから胸へとはい上がってくる何かに、声が出た。
 自分の声とは思えない、高いような掠れたような――女の声だ。
「いや?」
 優しくて低い、男の人の声が聞いてくる。
 あの長い指がやわやわと胸を揉んでくる。
「ふあ…っ、あ、あの…っ」
「痛いかな」
 違うんです。
 胸の、あまりにもささやかなふくらみの始まるあたりを優しく触るだけの手は痛くない。気持ちいいと思う。
 でもあまりにもその揉める部分が少ないのが恥ずかしい。
 どうなの、これ。女としてどうなの。
 こんなにちょっぴりしかないのに、なのに気持ちいいってどういうことなの。
「すべすべして、きれいだよ」
 反対側の胸に川島さんは口づけてきた。
「やあぁんっ、あ、あ…っ」
 指とは比べものにならない、柔らかくて優しくて熱い感触に、触られた胸じゃなく腰から下がびくびくした。
 なんでこんなとこが。何かされた部分とは関係ない場所が反応する。
 眠るまであんなに夢を見るのが怖かったのに、いざ夢を見始めると何が起こっても怖くない。
 だってこれは現実じゃないから。
 優しくされるのが嬉しい。
 女として扱ってもらえるのが嬉しい。
「はぅ…う、んんっ、あ、ああ」
 触られるのが嬉しい。
 気持ちいいのが嬉しい。
 夢の中で私は、諦めてしまった、でも本当はそうなりたくて仕方なかった女の子になっていて、川島さんはそんな私を大事に扱ってくれる。
 現実にはありえないことだ。
 だって、現実には川島さんは私のことをそんな風には見ていない。
 ただの被験者だ。
 優しくしてくれるのも、家に置いてくれるのも、一文無しで路頭に迷い掛けてたのを拾ってバイトという名目でお金をくれたのも、全部それは私が川島さんの実験に必要だからしてくれただけのことで、私じゃなくても誰でも良かったんだ。
「川島さ…んっ」
 上に乗っかっている川島さんの体に手を伸ばす。
 知らない、見たことのない、想像だけで形作った川島さんの背中に手を伸ばす。
 抱きしめるように腕を回す。
 どんな形なのか、どんな色なのか、どんな肌触りなのか知らない体。
 勝手に作ってしまった嘘の川島さん。
 その嘘の塊を抱きしめる。
 どうしよう。
 好きです。
 現実にはありえない、って頭の中では理解してるけど、でも現実になったらいいのに、って思う。
 思いながら強く強く夢を抱きしめる。

 バイトの話をしたときに川島さんは期限を切らなかった。
 いつまで続ける、とか、どういう状況になったらやめる、とか。
 私もうかつだったと思うけど、目の前のお金に目がくらんでいたし、助かったという思いで他のことを考えられなくなっていたんだと思う。
 一線を越えちゃった夢を見た、実験開始から四日目の朝、どうしても口を開けない私を見て、川島さんは溜息をついた。
「どうしても話せない?」
 うつむいたまま頷いたので、頭の動きはちょっぴりだった。
 でも川島さんはそれを見て、また溜息をつく。
「どうして? その理由は話せる?」
 夢の内容に触れずに理由だけ話すなんて器用なマネが私にできるだろうか。
「僕が関係してる?」
 頷く。
 まさにそこです。
「じゃあ、僕じゃない人、たとえば全く関係ない第三者にだったら話せる?」
 な、なんてことを言うんだ!
 ぶんぶんと音がしそうなくらい首を振った。
 あなたに抱かれて悦びました、なんて言えるわけがない。
 具体的に何がどうなったのかはよくわからなかったけど、そんな、成人指定の小説を朗読するようなことをできるわけがない。むちゃ言わないで。そんなこと、誰にも言えない。
 あんな夢を見てしまうのは薬のせいだってわかってる。
 川島さんは薬についてなんにも言わないけど、きっとそうだ。
 あの薬はそういう薬なんだ。
 飲んだらあっさりと眠りに落ちて、現実で印象に残っていたことをそのまま、もしくは、より過激にした夢を見せて、しかも起きたときに忘れていない、そんな効果を持った薬。
 ――無いよ。SFでも無いよ。
 おもしろすぎるよ。しかも意味不明だし。
 何に使うの、こんな薬。
 ほんとになんなの、あの薬。
「なるほどねえ」
 私がいろいろ考えてる間に、川島さんも考えていたのだろう。
 にやりと笑って言った。
「夢の中で僕はきみを抱いちゃったわけだね」
 ぎゃあ!
 サトラレ!? 私、いつからサトラレになった!?
「ああ、図星か」
 顔を上げてられなくなってベッドに突っ伏したら、その上から声が降ってきた。
 カマかけられたのか。
「いやあ、実に。なんというか」
 川島さんのくすくす笑う声が聞こえる。
 ぐりぐりと後頭部を撫でられた。
「触らないでください!」
 そうやって触られると、手の感触を覚えてしまう。
 そうしたらまた夢に見てしまうかも知れない。だからやめてください。
 なんかもう泣きそう。
 いつまでこの実験は続くんだろう。実験を理由に二人で家に籠もりっきりになってるから、そろそろ川島さんの仕事も心配だ。私が心配することでも無いんだろうけど、そして大学はいま春休みだろうけど、川島さんは仕事に行かなくていいんだろうか。研究室の責任者って言ってたけど、そっちを放り出してこっちにかかりきりでいいんだろうか。それほどこっちが重要な研究なんだろうか。
「口頭が無理なら結衣ちゃんが書くんでもいいけど」
「いやです」
 おんなじだよ。結局川島さんが読むんでしょ。
「でもね」
 優しげで、そのくせこっちが怖くなるような声。
「どっちにしろこちらが見極めができる結果が出ないことには終わらないから」
 はい?
「答えられないなら被験者を変えないといけない」
 お役ご免ってことですか?
 あ、でも、期待された結果を出せないって場合、バイト料はどうなるの。
 そして私今度こそ本当に路頭に迷うの?
「結衣ちゃんは適任だと思ったんだけどな」
 どういう意味ですか。
 そろっと顔を上げてみる。
「影響を受けやすいだろうから。前にちょっと話したでしょう。きみくらいの年代は、毎日の些細な出来事が大問題な世界に住んでる、って。五分経ってもメールの返事がないともう友達じゃないとか、『おはよう』のメールに絵文字がないと冷たいだとか。女の子だとトイレに一緒に行かないのも友達じゃない証拠かな。とにかく自分が世界の中心で、誰もが自分に便宜を図ってくれて当然だと思っている。肥大した自意識を持っていて、そのくせちょっとしたことに傷つく柔らかい部分がある。被験者として実に理想的だ、と僕は考えた」
 それ、理想的なの?
 というか、私はそういう子だと思われてるんだな。
 川島さんの手が肩にかかる。
 何を。
 指先が首筋を撫でる。
 あああ、やめてぇ。ぞくぞくする。
 こういうとこを触るのって普通?
「でも世界の中心って実際どこにあるのかな?」
「え?」
「きみの中?」
 そんなの、考えたこと無い。
 世界は私の思い通りには動いていない。
 女の子に生まれたのに少しも女らしくなれない。
 幸せに暮らしたいのに、母さんは死んじゃったし、父さんはいなくなっちゃった。兄ちゃんに至っては男の恋人と行ってしまった。本当に恋人なのかどうかは今もって不明だけど。
 でも。
 誰も私を大事には思ってくれてなかった。
 誰も私のことを愛してなんかない。
 私は、捨てられた。
 そして川島さんに拾ってもらった。
「もしもきみの中に世界の中心があるのなら、世界はきみの思う姿になってもいいと思わない? きみの望む世界。きみの願いが叶えられている世界。そこは幸せだと思わない?」
 私の願い。
 女の子らしい私。かわいい物をかわいいと思って身の回りに置ける世界。
 誰かにかわいがられている私。
 父さんと母さんと兄ちゃんのいる暮らし。春からは大学生になって、ちょっと自由も増えたりなんかして楽しい毎日が待ってて、私の触れる世界はもっと広がって、そして誰かに愛されて。
 幸せだと思う。
 きっとそれは幸せだと思う。
 悩みもない、苦しみもない、楽しいことだけが起こる、夢のような世界。
 ――夢?
「自分は大切にされてる、自分は大切な存在だ、と感じること。今は自尊感情なんて言い方で幼い頃からそれを育むように、という教育もなされている」
 首筋から頬を撫でる手の感触に慣れてしまった。
 優しく触れられるのは気持ちがいい。
「ただしそれは一歩間違うととてつもなく嫌な人間を生む場合もあるんだけどね。自分が大切なように他の誰かもまた大切な存在、と思えずに、自分だけが大切な存在、とはき違えるんだ」
 川島さんは口を歪めるだけで笑った。
「自分だけが大切な存在だと思いこむ年代というのがある。自意識過剰で、他人の目に過敏に反応している。思春期の子ってのはたいていそうだね。だから僕は学生を、とりわけティーンを実験対象にしたかった」
 頬を撫でていた手が首の後ろに回される。
 頭を固定される。
「あの日、掲示板の前で途方に暮れたような顔をしてるきみを見たとき、僕はこれを天の配剤だと思った」
 川島さんが体ごと近づいてくる。体の持つ熱を肌で感じる。
 いやだ。怖い。
 メガネの奥から鋭くこっちを見る、その目が怖い。
 これは夢じゃなく現実だ。
 だから怖い。
「不安定で、感受性豊かで、健全に幸せになりたいという願望を持っている」
 怖い。怖い。助けて。
 お金なら全部返すから。いろいろ買ってもらったりした分も、いつになるかわからないけど、あても無いけど、働いてきっと返すから。
 言うな、っていうのなら川島さんの実験の事も誰にも言わないから。
 だから誰か助けて。
「それが」
 川島さんは耳元で囁いた。
「夢の中ででも叶ったら嬉しいと思わない?」

2008年12月29日